戦国武将・明智光秀(あけちみつひで)が、ついに、NHK大河ドラマの主役に選ばれました。
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公です。
明智光秀といえば、織田信長の家臣であり、信長の右腕とも言われた人物です。
しかし、突如として謀反を起こし、本能寺の変により、織田信長を討ち取りました。
なぜ、明智光秀は、本能寺の変を起こしたのでしょうか。
そもそも、明智光秀とは、一体どんな人物なのか。
まずは、明智光秀のルーツである生誕地はどこなのか・・・。
明智光秀は謎多き戦国武将であり、はっきりと生まれた場所は確定されていません。
現在、生誕地の候補とされている場所は、岐阜県に5カ所あります。
近年の研究では、滋賀県で生まれた説も浮上してきました。
ここでは、岐阜県内の明智光秀の生誕地を、まとめてみました。
目次
明智光秀生誕地① 明智(あけち)城 岐阜県可児市
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岐阜県可児(かに)市に、明智(あけち)城跡があります。
明智城は別名、長山(ながやま)城とも言います。
明智城は、土岐明智氏の始まりの場所であり、明智光秀の生誕地と言われています。
美濃国の軍記物と言われている「美濃国緒旧記(みののくにしょきゅうき)」があります。
「美濃国緒旧記」によると、明智城は明智頼兼(あけちよりかね)により、康永(こうえい)元年3月に築城されたと伝わります。
また、明智氏は光秀の代まで、明智城に居城したと言います。
美濃の国主は、斎藤道三(さいとうどうさん)の長男、稲葉山城主・斎藤義龍(よしたつ)でした。
斎藤道三と斎藤義龍による長良川の戦いが勃発し、明智氏は斎藤道三の軍勢に加わることになります。
長良川の戦いで、斎藤道三が討死したことにより、明智氏は斎藤義龍に狙われます。
1556(弘治2)年、明智城の城主・明智光安(みつやす)は、斎藤義龍の軍勢に対して、籠城をしました。
しかし、斎藤義龍軍の2日間による猛攻により、明智城は落城しました。
城主の明智光安は、弟の明智光久(みつひさ)と共に自刃を果たします。
この時、明智光秀は、明智光安に明智家再興を託され、明智城から脱出したと伝わります。
その後、明智城は廃城となっています。
現在城跡には、展望台などが設置されており、明智氏が住んでいた明智荘を見ることができます。
天龍(てんりゅう)寺 岐阜県可児市
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明智城跡の近くに、天龍(てんりゅう)寺があります。
天龍寺には、明智光秀の日本一大きな位牌(約184cm)があります。
これは、明智光秀の命日とされている6月13日にちなんで、6尺1寸3分のサイズに作られました。
また、境内には明智光秀一族のお墓もあります。
毎年6月には、明智光秀供養祭が行われています。
明智城跡(あけちじょうあと)
住所:岐阜県可児市瀬田5丁目1238-3
アクセス: 名鉄広見線 明智駅から徒歩25分
天龍寺(てんりゅうじ)
住所:岐阜県可児市瀬田 1242
アクセス:名鉄広見線 明智駅から徒歩15分
明智城の史跡巡りの記事はこちら
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【岐阜】明智光秀ゆかりの地 生誕地史跡巡り【可児】
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明智光秀生誕地② 明知(あけち)城 岐阜県恵那市
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岐阜県恵那市に明知(あけち)城跡があります。
明知城は別名、白鷹城(しらたかじょう)と言います。
明知城は、明智遠山氏の始祖・遠山景重(とおやまかげしげ)により築城されました。
遠山氏の先祖は、源頼朝の重臣・加藤景廉(かとうかげかど)であり、遠山景重は孫にあたります。
明知城主の遠山景行(かげゆき)と明智城の明智光安(みつやす)が、同一人物説があります。
岩村遠山家を本家とする明知遠山氏は、遠山直景(なおかげ)の代に小田原北条氏に仕えました。
明知城は、土岐明智氏から城主を迎え、明智光安が城主となります。
明智光安は遠山姓を継ぎ、遠山景行(とおやまかげゆき)と名乗りました。
明智光安の弟に明智光綱(みつつな)がおり、その子供が、明智光秀と伝わります。
明智光秀は、明知城落合砦(多羅砦)で生まれたとの伝承があります。
現在、落合砦の跡には、「明智光秀公産湯の井戸」があります。
また、明知城跡の近くには、明智光秀の史跡があります。
明智光秀公学問所
明智光秀公手植えの楓
明智光秀公供養塔
ちなみに、明智遠山氏は「遠山の金さん」の先祖で有名です。
後年、武田氏と織田氏との間で激しい戦いが起き、明知城はその舞台になりました。
また、明知城の近くには、大正村という施設があり、大正時代の雰囲気を楽しむことができます。
明知城跡(あけちじょうあと)
住所:岐阜県恵那市明智町
アクセス:明知鉄道明智駅から登城口まで徒歩15分
明智光秀生誕地③ 多羅(たら)城 岐阜県大垣市
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岐阜県大垣(おおがき)市に、多羅(たら)城跡があります。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると、明智光秀の生誕地は多羅城と書かれています。
土岐明智氏の当主・明智光綱(みつつな)には、妹がいました。
明智光綱の妹は、石津郡(いしづぐん)多羅城城主の進士信周(しんじのぶちか)に嫁ぎます。
この二人の間に、明智光秀が誕生しました。
しかし、明智光綱には子供がいなかったので、光秀を明智城に送りました。
まだ幼い光秀に、叔父である明智光安が後見役として選ばれました。
現在の多羅城の跡には、上石津(かみいしづ)資料館が建っています。
また、近くには、関ヶ原の戦いで命を落とした、島津豊久(しまづとよひさ)のお墓もあります。
多羅城跡(たらじょうあと)
住所:岐阜県大垣市上石津町宮237-1
アクセス:JR大垣駅南口4番のりばから名阪近鉄バス多良・時行き「宮」下車で徒歩2分
明智光秀生誕地④ 一日市場八幡(ひといちばはちまん)神社 岐阜県瑞浪市
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岐阜県瑞浪(みずなみ)市に、一日市場八幡(ひといちばはちまん)神社があります。
一日市場八幡神社は、土岐一族が土岐郡に土着した際に、最初に居館を構えた場所です。
明智光秀は、土岐郡高野(現・瑞浪市土岐町)で生まれたと伝わります。
2歳になった明智光秀は、明智城主・明智光安に引き取られました。
尾形と呼ばれる場所に、明智光秀の産湯の井戸が残されていたと伝わります。
一日市場八幡神社には、土岐一族の始祖・土岐光衡と明智光秀の像が建っています。
明智光秀の像はいい味だしてます・・・。
一日市場八幡神社(ひといちばはちまんじんじゃ)
住所:岐阜県瑞浪市土岐町402
アクセス:JR中央線瑞浪駅から徒歩5分
明智光秀生誕地⑤ 白山(はくさん)神社 岐阜県山県市
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岐阜県山県(やまがた)市に、白山(はくさん)神社があります。
白山神社には、明智光秀の生誕地の伝承があります。
8代美濃国主である土岐成頼(ときなりより)の四男に、土岐基頼(ときもとより)という人物がいました。
土岐基頼は、武儀郡(むぎぐん)の豪族、中洞(なかほら)源左衛門の娘・お佐多と結ばれます。
その二人の間に、明智光秀が誕生します。
7歳になった明智光秀は、明智城主・明智光綱の養子となり、明智光秀と名乗ったと言います。
白山神社の境内には、明智光秀ゆかりのものがあります。
明智光秀の産湯井戸
明智光秀出生伝承の行徳岩
明智光秀のお墓
明智光秀の墓に関してはこちら
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明智光秀ゆかりの地【お墓・塚】
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白山神社(はくさんじんじゃ)
住所:岐阜県山県市中洞
アクセス:JR岐阜駅から車で40分
おわりに・・・
謎に包まれている明智光秀。
生誕地がこんなに多い戦国武将は、他にいるでしょうか・・・。
私が知る限り、戦国武将では明智光秀ぐらいでしょう。
明智光秀は山崎の戦で敗れ、この世を去りました。
その後、豊臣秀吉の天下となり、明智光秀は逆賊と扱われます。
明智と関わっていた人々は、豊臣秀吉に恐れ、明智に関する資料は焼き捨てたと言われます。
一体、本当の生誕地はどこなのか・・・。
今、まさに岐阜県は「明智光秀生誕地争奪時代」であります。
可児市、恵那市、瑞浪市、大垣市、山県市。
三つ巴ならぬ、五つ巴で、激しい戦いを繰り広げています・・・。
さらに、滋賀県も生誕地として、名乗りを上げています。
この争奪戦は、PR力と観光地化を強化する市が、天下を獲るのか・・・。
なにはともあれ、今年は岐阜県に期待が高まります。
今年は、みなさんで岐阜県を、盛り上げていきましょう。