戦国時代

明智光秀は本能寺の変を、なぜ起こしたのか?【理由】

明智光秀は本能寺を襲撃し、織田信長を自害に追い込みました。

 

織田信長にとって明智光秀は、もっとも、信頼のおける家臣でした。

また、それに応えるように明智光秀も、反対勢力と戦い続けました。

 

明智光秀は、なぜ本能寺の変という、謀反を起こしたのでしょうか。

 

今回の記事は、戦国最大のミステリーに迫りたいと思います。

 

明智光秀が、本能寺の変を起こした理由とは?

明智光秀が、本能寺の変を起こした動機を、明らかにした資料はありません。

 

明智光秀の重臣達は、羽柴秀吉(はしばひでよし)と戦った、山崎合戦で敗北し、短期間で討ち取られました。

また、明智光秀が送った書状は、あとの非難や災難を恐れ、隠蔽された可能性があります。

 

このようなことがあり、動機は謎に包まれています。

動機が判明しないが故に、後年、様々な憶測や説が誕生しました。

 

細かく分類すると、なんと、50以上の説があります。

今回は、本能寺の変を起こした、動機の代表的な説をご紹介します。

 

野望(やぼう)説

織田信長を討ち取って、代わりに、自らが天下人になる野望があったとする説です。

 

「下克上(げこくじょう)」・・・下位の者が上位の者を討ち取って、権力を手中に治めること。

戦国時代は、主君を裏切り、下剋上を起こすことは、珍しくないことでした。

 

下剋上を成し遂げた代表的な戦国武将

北条早雲(ほうじょう そううん)

一介の浪人から成り上がり、一代で南関東を支配し、のちの後北条の礎を築いた人物。

斎藤道三(さいとう どうさん)

京都の油売り商人から、守護大名、土岐氏を追い出し、美濃国を支配した人物。

毛利元就(もうり もとなり)

小規模な国人領主であった毛利家を、一代で山陽・山陰10か国を領有する戦国大名になった人物。

この時代に生きていた明智光秀も、「下克上を起こしたい」と考えることは、十分ありえます。

大半の武士が、下剋上を起こして、頂点に立つ、という夢を持っていたのではないでしょうか。

 

しかし、一言で下剋上と言っても、誰にでもできることではありません。

下剋上を起こすには、運と実力がないと、成し遂げることが難しいと思います。

 

明智光秀は、その運と実力を持ち合わせていました。

明智光秀が、愛宕神社(あたごじんじゃ)で読んだ句も、天下を取る為の決意と、捉えることができます。

 

しかし、天下を獲るために謀反を実行したならば、事前の手回しが、不十分であることは否めません。

知略や戦略に長けた明智光秀なら、事前準備や計画は、抜かりなく、できたのではないでしょうか。

明智光秀の作戦や計画が欠如していた為、天下は一瞬で終わってしまいました。

 

怨恨(えんこん)説

織田信長に対する積年の恨みが爆発をして、行動を起こした説です。

様々な書物に、逸話が伝えられています。

今回は、5つの怨恨説を紹介します。

明智光秀は、諏訪(すわ)で折檻(せっかん)される

「祖父物語」や「川角太閤記」にある逸話

武田家を殲滅させた甲州征伐が終わった際、明智光秀は「我らが苦労した甲斐があった」と発言します。

それを聞いた織田信長は激怒します。

 

「お前に何の功があったか」と言い放ち、明智光秀の頭を欄干(らんかん)に打ち付けて、侮辱しました。

衆人の前で明智光秀は、恥をかかされた、といいます。

 

明智光秀、饗応役を解任(きょうおうやくかいにん)される

「川角太閤記」にある逸話

饗応役(きょうおうやく)とは、お酒や食事で、おもてなしをすることです。

 

織田信長は、共に武田家を滅ぼした徳川家康(とくがわいえやす)の功を労う為、安土城に迎え入れます。

明智光秀は織田信長の命で、徳川家康の饗応役に命じられていました。

 

明智光秀が献立などを手配した料理を、織田信長に「腐っている」と因縁をつけらます。

さらに、手際の悪さなども指摘され、ついには饗応役を解任させられます。

 

明智光秀は、徳川家康やたくさんの武将の前で恥をかかされました。

明智光秀の面目は、丸つぶれになったといいます。

 

明智光秀の旧領地を取り上げられる

「明智軍記」にある逸話

織田信長はまだ敵の領地である石見・出雲の二ヶ国を勝ち取ったら、明智光秀に与えると命じます。

その代わり、丹波と近江の二ヶ国を召し上げると言われ、明智光秀は怒り、落胆したといいます。

 

明智光秀にとって、丹波と近江は、苦労して攻略し、民との信頼を築き上げた土地でした。

しかし、この頃の戦国時代では国替えは、頻繁にあることで、珍しいことではありませんでした。

 

明智光秀の母親が殺害される

「総見記」、「絵本太閤記」、「常山紀談」にある逸話

明智光秀は丹波攻略の際、八上(やかみ)城主・波多野秀治(はたのひではる)・秀尚(ひでひさ)兄弟に、条件として母親を人質に出します。

 

波多野兄弟を酒宴に誘い出し、伏兵を使い、生け捕りにしました。

波多野秀治は戦死し、秀尚以下全員は、織田信長の命で磔にされ、殺害されます。

 

主君を討たれ、怒った波多野兄弟の家臣は仕返しとして、明智光秀の母親を磔にして殺害しました。

結果、織田信長の命令が原因で、明智光秀は母親を失うことになりました。

 

明智光秀の家臣・斎藤利三(さいとう としみつ)を巡る争い

「川角太閤記」、「常山紀談」、「明智軍記」、「柏崎物語」にある逸話

明智光秀の重臣・斎藤利三は元々、織田信長の家臣である稲葉一鉄(いなばいってつ)の家臣でした。

 

稲葉一鉄は、優秀な武将であった斎藤利三を、「返してほしい」と織田信長に訴えます。

織田信長は、斎藤利三を稲葉一鉄に返すようにと、明智光秀に命じます。

 

明智光秀はこれを拒否した為、織田信長は激怒し、明智光秀の髷(まげ)を掴んで引きづり回し、脇差にまで手をかけます。

明智光秀は涙を流し、怒りや悲しみに堪えたといいます。

 

不安(ふあん)説

明智光秀が、保身の為に謀反を起こしたのではないかと言う説です。

織田信長は過去に、期待に応えられない家臣には、容赦なく追放を命じています。

1580(天正10)年、織田信長は突如、家臣の追放をおこないます。

 

佐久間信盛(さくま のぶもり)

織田信長から、職務怠慢により、19条に及ぶ折檻状を送りつけられ、高野山に追放しました。

林秀貞(はやし ひでさだ)

20年以上前に、織田信長の弟・織田信勝を担ぎ、謀反したことを理由に、追放されました。

安藤守就(あんどう もりなり)

8年前に、武田家に内通したことを理由に、追放されました。

丹羽氏勝(にわ うじかつ)

25年前に、織田信長の尾張時代、守山城で籠城し、抵抗したことがあり、その理由で追放となります。

 

上記の面々は、織田信長に長年仕えてきてきましたが、突如追放されてしまいました。

これらの追放命令を、明智光秀は、近くで見ていました。

 

明智光秀は、「もし失敗したら、次は自分ではないか」と追放の二文字が頭をよぎります。

その為、保身の為に謀反を起こしたのではないかと言われています。

 

明智光秀には、織田信長に不信感を持たれている原因がありました。

それは、四国政策の失敗や、織田信長と敵対した足利義昭の元家臣であったことが理由に挙げられます。

 

四国(しこく)説

織田信長による四国征伐を回避する為に、明智光秀が謀反を起こしたとする説です。

 

土佐の大名・長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)は、四国統一を目指していました。

織田信長に友好的な態度をとっていた長曾我部元親は、所領を安堵されていました。

 

織田信長は、長曾我部元親に「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と書かれた朱印状を送っています。

この朱印状は、「四国は長曾我部元親が勝ち取った分だけ、領土は保証する」、という内容です。

 

西国には、織田信長の敵対勢力がいます。

阿波・讃岐・河内に勢力を持っていた三好一党。

毛利と手を結んでいる伊予の河野氏。

織田信長はこれらの敵対勢力の抑えとして、長宗我部元親を味方に取り入れていました。

 

この時、明智光秀は、長曾我部元親と織田信長の取次役となっていました。

明智光秀の家臣で、筆頭家老の斎藤利三(さいとうとしみつ)がいます。

その兄、頼辰(よりたつ)は、石谷光政(いしがいみつまさ)の婿養子でした。

長曾我部元親の正室は、石谷光政の次女にあたります。

このような関係から、明智光秀と斎藤利三は、長曾我部元親の取次役に任命されたとされます。

 

ところが、三好勢が衰退し、織田信長にとって四国地方は、そこまで脅威ではなくなります。

三好康長(みよしやすなが)は、織田信長に投降し、名器を献上し、家臣として厚遇されます。

長曾我部元親も、織田信長に砂糖を献上し、友好関係を保っていました。

 

長曾我部元親は阿波・讃岐まで勢力を伸ばし、三好康長の息子・三好康俊(やすとし)を降伏させます。

また、十河存保(そごうまさやす)を攻撃し、織田信長の陪臣が、攻められる形となります。

 

三好康長は、羽柴秀吉に接近し、協力を仰ぎます。

三好康長は長曾我部元親に、本領である阿波美馬・三好の二郡を奪われると、織田信長に領地回復を訴えます。

 

織田信長、四国討伐を決行

三好康長の訴えを聞いた織田信長は、長曾我部元親に、阿波の占領地の半分を返還するように通告します。

織田信長は、明智光秀を介して、長曾我部元親に、「土佐一国と南阿波二郡以外は、返上せよ」という朱印状を出します。

明智光秀の家臣・斎藤利三も石谷光政を通して、長曾我部元親に説得を試みたが、不調に終わります。

 

業を煮やした織田信長は、三男の織田信孝(のぶたか)を総大将とする、四国討伐の決行に踏み切ります。

織田信長の四国政策の変更は、明智光秀の面目を潰すことになりました。

長曾我部元親の書状

2014年(平成26)年、長曾我部元親から斎藤利三に、宛てた書状が発見されました。

「土佐国・阿波二郡のみの領有と、上洛に応じる」

書状には、長曾我部元親が、織田信長に従うことが、記されていました。

 

長曾我部元親は、織田軍と戦うことを辞め、従うことを決意したことが判明しました。

これは、明智光秀の説得の成果といえるのではないでしょうか。

 

しかし、この長曾我部の書状が、織田信長のもとに届いたかどうかは、不明です。

書状が何らかの形で、織田信長のもとに届いていなかったから、四国討伐は行われたのでしょうか・・・

 

もし、書状が織田信長のもとに届いたなら、なぜ四国討伐を決行しようとしたのか・・・

「今更、もう遅い」と、織田信長は思ったのでしょうか・・・

謎は深まるばかりです。

 

このまま、四国討伐が実施されると、ライバルである羽柴秀吉と三好康長組が完全有利になります。

明智光秀は織田政権の下で失策し、長曾我部元親に対しても、面目を失うとことになります。

そのことにより、明智光秀が本能寺の変を起こした原因とも考えられます。

 

長年、長曾我部元親の取次役を行っていた明智光秀は、織田信長により、功績を否定されました。

ライバルである羽柴秀吉にも、追い落とされる形となりました。

 

しかし、明智光秀が面目を潰されただけの理由で、謀反は起こさないでしょう。

これは、明智光秀が謀反をおこした、数ある原因の一つであると見ることができます。

 

黒幕(くろまく)説

本能寺の変を起こしたのは、明智光秀の単独行動ではないとする説です。

 

影で、明智光秀を操っていた人物がいたのではないのか・・・。

黒幕説では、様々な人物が登場しています。

ここでは、代表的な4つの説を紹介します。

 

朝廷(ちょうてい)黒幕説

朝廷側が、明智光秀を使って、本能寺の変を起こさせた説です。

 

この朝廷黒幕説は、織田信長と朝廷の間に、対立関係があったことを前提としています。

定説では、朝廷側が、織田信長に「太政大臣・関白・征夷大将軍」のどれかの官位を、推挙しようとしていました。

この任官を提案したのが、朝廷側だったのか、信長側だったのか、という問題を「三職推任(さんしょくすいにん)問題」といいます。

 

織田信長は、1578(天正6)年4月に、「右大臣(うだいじん)兼、右近衛大将(うこんえのだいしょう)」の官位を辞退しています。

それからは、官職に就かず、以後4年間も無官のままでした。

 

当時、織田信長は、右近衛大将に任官しました。

その理由に、左近衛中将の足利義昭への対抗として、任官したのではないかと言われています。

しかし、足利義昭を追放した以上、もはや、官位は不要だったとする、見解もあります。

また、自分より、織田家当主とした織田信忠に、官位昇進を望んだ為とする見解もあります。

 

織田信長は、この官位を貰うことを、沈黙します。

その理由は、朝廷離れを進めること、また、朝廷への圧迫を示すため、だと言われています。

織田信長は朝廷を、自分の権力の中に押さえ込もうとしていたのではないでしょうか。

 

そんな織田信長に、朝廷側が不信感や危機感を持ちます。

そこで、朝廷と縁があった明智光秀を使って、本能寺の変を起こさせたのではないかと言われています。

 

明智光秀の共謀者?

朝廷側の人物で、明智光秀と共謀していたのではないかと、疑惑を持たれている人物たちがいます。

 

近衛前久(このえ さきひさ)

本能寺の変の際、織田信忠のいた二条御所が銃撃されました。

この銃撃が、近衛前久邸から発砲されたとの、事実が発覚しました。

 

近衛前久は、明智光秀が、山崎の戦いに敗れた直後(または本能寺の変の直後)に、嵯峨野に移り、出家します。

細川藤孝同様、織田信長の喪に服し、その後も、織田信長の死を惜しんだ和歌を詠んでいます。

 

しかし、織田信長の三男・織田信孝(のぶたか)は、近衛前久を本能寺の変の協力者とみなし、成敗しようと動きます。

また、羽柴秀吉もまた、近衛前久に詰問をします。

危険を察知した近衛前久は、徳川家康を頼り、浜松に逃げ落ちます。

徳川家康の斡旋により、誤解は解け、京都に戻ることができました。

 

その後、羽柴秀吉は、近衛前久に近づき、猶子(ゆうし)になり、関白の位に就くことができました。

もしかすると、近衛前久は、羽柴秀吉に、何か弱みを握られていたのかもしれません・・・。

 

吉田兼見(よしだ かねみ)

吉田兼見は「兼見卿記(かねみきょうき)」という日記を書いていました。

しかし、その日記には、本能寺の前後一か月だけ、記入されていませんでした。

本能寺の変が起きた天正10年の「兼見卿記」には、正本と別本の二つが存在します。

正本には、明智光秀と話したことや、仲介役をしたことなど、吉田兼見にとって、都合の悪いとこだけを修正していました。

吉田兼見は朝廷の勅使として、明智光秀に会っており、お礼として、銀50枚を受け取ったとされています。

 

勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)

勧修寺晴豊は「晴豊公記(はれとよこうき)」という日記を書いていました。

「晴豊公記」は織田信長や本能寺の変に関する記述も多く、今では一級資料として扱われています。

その「晴豊公記」に明智光秀の家臣・斎藤利三が処刑の日に、「彼など信長討ち談合衆なり」と記されていました。

このことで、斎藤利三が朝廷の人物と談合していたことが判明したのではないかと言われています。

 

誠仁親王(さねひとしんのう)

誠仁親王は正親町(おおぎまち)天皇の嫡男であり、勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)の義弟です。

誠仁親王は、織田信長の三職推任に反対していました。

本能寺の変が起きた時、誠仁親王は二条御新造にいました。

この御所(二条御新造)は織田信長に与えてもらったものでした。

誠仁親王は、織田信長に支持され、擁護してもらていた立場として、明智軍に「自分も腹を切るべきか」と尋ねたといいます。

しかし、織田信忠に同行していた村井貞勝(むらいさだかつ)の交渉により、御所を脱出することにができました。

 

正親町天皇(おおぎまちてんのう)

正親町天皇は毛利の後ろ盾があったことで、天皇の位に就けたと言われています。

織田信長に毛利との講和を進めていたが、織田信長はそれを拒否し、毛利を攻め滅ぼすつもりでした。

本能寺の変の後、明智光秀に直接、褒美の馬と鎧を与えており、これは異例のことでした。

また、正親町天皇から明智光秀は、京都の治安維持を頼まれています。

しかし、明智光秀が、正親町天皇から、織田信長討伐の勅命をうけていたら、綸旨(りんじ)【天皇がだす命令書】があるはずです。

この綸旨をもなく、明智光秀が勅命とも主張をしていないことから、正親町天皇は、関わってはいないという意見もあります。

 

足利義昭(あしかが よしあき)黒幕説

足利義昭が、幕府再興の為に、明智光秀に命令し、本能寺の変を起こさせた説です。

足利義昭は、織田信長によって、京を追われ、毛利の支配国、備後国に落ちていました。

 

足利義昭は、鞆(とも)【現在の鞆の浦】に滞在していました。

毛利の庇護下にあるこの場所を、「鞆幕府(ともばくふ)」としていました。

この地は、足利尊氏(あしかがたかうじ)が、光厳(こうごん)天皇に、新田義貞(にったよしさだ)討伐の院宣を受領した場所でもありました。

足利義昭は、毛利の力を使い、足利幕府再興を狙っていたと言われています。

 

足利義昭は、朝廷と織田信長の問題である、三職推任(さんしょくすいにん)問題を心配していました。

もし、織田信長が朝廷に対して、征夷大将軍の任を求めれば、承認される可能性があると考えていました。

その現実を恐れ、旧家臣である明智光秀に、織田信長討伐の命を出します。

 

明智光秀は本能寺の変の直前、上杉景勝(うえすぎかげかつ)に協力を求めて、使者を送っています。

「覚上公御書集」では、「御当方無二御馳走申し上げるべき」と使者が述べたといいます。

上杉景勝に対して、明らかに、身分の高い人物への協力を促しています。

 

また、本能寺の変の直後、明智光秀は、紀州の雑賀(さいか)衆・土橋重治(つちばししげはる)へ、書状を送っています。

「上意馳走申しつけられて示し給い、快然に候」

この一文には、明智光秀より、位の高い者からの命令を指す「上意」という言葉が使われています。

 

また、書状には、その人物が「御入洛(ごにゅうらく)する」という一文があり、貴人に対して使う言葉が出てきています。

 

足利義昭は、6月13日に小早川隆景(こばやかわたかかげ)の家臣・乃美宗勝(のみむねかつ)に花押付きの書状を送っています。

「信長討ち果たす上は、入洛の儀、急度」

「この機に忠功を示すことを肝要とし、本意においては恩賞を与え。よって肩衣・袴これを遣わす」

「信長を討ち果たした上は、京に入る。忠義をつくしたものには褒美を与える」という内容の書状を送っていました。

 

羽柴秀吉(はしば ひでよし)黒幕説

羽柴秀吉が、将来に不安を抱いていた明智光秀を、そそのかして、謀反を起こさせたとする説です。

 

この説は、本能寺の変が起きて、最も得をした人物が、羽柴秀吉(はしばひでよし)であることから生まれました。

中国大返しの手際の良さや、救援要請は本当に必要だったのか、などが理由としてあげられています。

 

羽柴秀吉による、毛利に対する援軍要請は不要だったのではないか、と言われています。

羽柴秀吉は、毛利の城である備中高松(びっちゅうたかまつ)城を攻めていました。

毛利輝元(もうりてるもと)・吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)らが、高松城の救援に出陣してきました。

 

そこで、羽柴秀吉は、織田信長に援軍の要請をします。

しかし、実際に毛利が救援に用意できた兵力は、羽柴軍の半分の15000人ほどでした。

織田信長の救援は、不要だったのではないかと言われています。

 

織田信長は、三職推任問題などで、朝廷と交渉するために頻繁に、上洛していました。

明智光秀は上洛を狙って、織田信長を、討ち取る計画をしていました。

しかし、明智光秀には、軍勢を集める理由がどうしてもなかったのです。

 

そこで、羽柴秀吉の救援要請により、疑われることなく軍勢を集め、織田信長を討つことができました。

羽柴秀吉は朝廷と内通しており、朝廷経由で明智光秀の謀反計画を知ったことにより、救援要請を出したのです。

 

また、羽柴秀吉の中国大返しの手際が、良すぎたことが挙げられます。

 

羽柴秀吉は備前沼(びぜんぬま)城から姫路城まで、70キロの距離を、わずか一日で進軍しました。

これを達成するには、事前に用意をしていなければ、不可能であると言われています。

 

また、織田信長の死を知らせる使者は、毛利方と間違えて秀吉の陣に迷い込んで来たと、言われています。

しかし、本当は羽柴秀吉に、直接、知らせる使者であったのではないかと推測されます。

 

羽柴秀吉は、毛利との和睦も、迅速に行っています。

それは、事前に情報を掴んでいた為、小早川隆景・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)などへ、根回しをができたのです。

 

明智光秀が羽柴秀吉を意識ていたように、羽柴秀吉も明智光秀を意識していました。

常に明智光秀の行動を監視し、何か起きたらすぐに動ける準備を、していたのではないでしょうか。

明智光秀が、裏切り、自分を攻めてくる可能性があると、考えていたのかもしれません。

 

徳川家康(とくがわいえやす)黒幕&共謀説

徳川家康が、明智光秀に指示&共謀し、本能寺の変を起こした説です。

 

徳川家康は織田信長の同盟国であり、武田氏の抑えとして、貢献をしてきました。

しかし、武田氏を滅亡させた織田信長にとって、徳川家康の必要性は薄れてきます。

時に、強力な同盟国は、天下統一の弊害になります。

 

織田信長は、これから弊害になるであろう徳川家康の討伐計画を企てます。

そこで、実行犯として選ばれたのが織田家の実力者、明智光秀です。

 

徳川家康は、堺に見物に来ることが、決まっていました。

織田信長から「無防備な徳川家康を討ち取れ」と、明智光秀に命令が下ります。

明智光秀は、正当性がなく、恨みもない、徳川家康を討ち取ることに疑問を抱きます。

「徳川家康討伐計画を断れば、今度は自分の命が危ない」と、明智光秀は思います。

 

迷った明智光秀は、そのことを徳川家康に打ち明けます。

驚いた徳川家康は、明智光秀と共謀し、織田信長討伐を計画しました。

明智光秀は、手薄になった織田信長を本能寺で襲い、自害させます。

徳川家康を討ち取ると思っていた織田信長は、逆に自分が、討ち取られてしまいました。

 

本城惣右衛門(ほんじょうそうえもん)という、一人の武士がいました。

本城惣右衛門は、丹波平定後に明智光秀に仕え、本能寺の変のときは、明智の配下で従軍していました。

「本城惣右衛門覚書」という、手記に従軍した時の逸話が残っています。

本城惣右衛門は、明智の軍勢が本能寺に進軍しているとき、「徳川家康様を討ちに行くと思っていた」と書いています。

 

岡崎城に戻り、軍勢を整えようとしていた徳川家康でしたが、明智光秀が山崎合戦で、羽柴秀吉に討たれてしまいました。

まずいと思った徳川家康は、周りを牽制しながら、領地を拡大しようとします。

徳川家康は、本能寺の変の直後、「天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)」で、北条氏と領地争いをしています。

また、有名な「伊賀越え(いがごえ)」の苦難は、後世の創作として、作ったのではないかとされています。

 

この説は、明智光秀が南光坊天海(なんこうぼうてんかい)であること、に関連付けた説でもあります。

実は、生き延びていた明智光秀は、南光坊天海として、徳川政権で生き延びたとされます。

 

その他黒幕説

毛利黒幕説

堺商人黒幕説

イエズス会黒幕説

この他にもまだまだ、黒幕説はたくさんあります。

 

おわりに・・・

明智光秀が本能寺の変を起こした動機が、謎めいているだけに、たくさんの憶測が出てきました。

本能寺の変が、戦国最大のミステリーと言われる理由がわかった気がします。

 

しかし、~の説だから、本能寺の変を起こしたと言えるほど、単純なことではないと思います。

たくさんの要因が重なり、混ざり合った結果、明智光秀は動いたのではないでしょうか。

 

現政権を倒すには、織田信長だけではダメで、息子の織田信忠も討ち取ることは絶対条件でした。

 

織田信長と織田信忠が、同時に京都にいる・・・。

自分は大軍を持っている・・・しかも、偶然にその近くにいた・・・。

このような偶然が重なり合ったことは、明智光秀にとって、もはや、必然だったことでしょう。

 

明智光秀は、天下統一に最も近かった織田信長を、討ち果たしました。

織田信長が討たれたという情報は、瞬く間に、全国の武将たちに伝わりました。

 

ついに、明智光秀の最大のライバルである人物が動き出します・・・。

その男もまた、明智光秀同様、織田信長に実力を買われ、最も信頼された家臣でした。

明智光秀は、その人物を迎え撃つために、合戦の準備に取り掛かるのでした・・・。

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