1582(天正10)年、場所は京都の本能寺・・・。
織田信長は明智光秀によって襲撃され、その命を落としました。
戦国最大の事件「本能寺の変」が起きました。
明智光秀は、本能寺の変を起こす直前、何をしていたのでしょうか。
そして、どのようなルートで本能寺に向かったのでしょうか。
今回は、本能寺の変の、ゆかりの地を記事にしました。
目次
本能寺の変の直前の背景
織田信長はついに、長年の宿敵である武田家を滅ぼしました。
東北地方においては、伊達(だて)氏、最上(もがみ)氏、蘆名(あしな)氏が、織田信長に恭順な姿勢を見せていました。
また、関東では佐竹(さたけ)氏、北条(ほうじょう)氏が、織田の同盟の傘下に入っていました。
西国では、畿内全土を掌握し、残すは中国地方、四国地方と九州地方を手中に収めるだけでした。
この時、毛利の城、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉から、織田信長に援軍要請がありました。
織田信長は自ら出陣する為、わずかな小姓を連れて、京都の本能寺に入り、軍勢の集結を待っていました。
織田信長の嫡男・織田信忠(おだのぶただ)も、四国討伐軍の陣中見舞いとして、京都の妙覚寺(みょうかくじ)に入ります。
その頃、明智光秀は安土城を訪れる徳川家康の接待役に任命され、徳川家康一行をもてなします。
しかし、羽柴秀吉の援軍要請を受けた織田信長から、援軍の先陣を務めるよう命じられました。
明智光秀は急ぎ、坂本城に戻り、翌日、居城である亀山城に移ったのです。
愛宕神社(あたごじんじゃ) 京都府京都市
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明智光秀は亀山城に移った翌日に、愛宕山の愛宕神社で戦勝祈願をしています。
また、戦勝祈願をした翌日に、愛宕山にある威徳院(いとくいん)西坊で連歌の会を催しました。
この場所で、愛宕山百韻(あたごひゃくいん)の有名な歌が読まれています。
「時は今 あめが下知る 五月かな」
(ときはいま あめがしたたる さつきかな)
一説では、「土岐は今天下を下す、五月に」という解釈をされています。
「土岐氏である自分が、天下に号令する時が来た」と、織田信長討伐の決意表明をしたと、解釈する説があります。
この文言の五月には、「平氏を称していた織田信長を倒す」という意思表示をしている、という説もあります。
ここで、5月に起きた過去の代表的な歴史を見てみましょう。
以仁王(もちひとおう)の挙兵
高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏の為に挙兵した。のちの源平合戦につながる戦い。
承久(じょうきゅう)の乱
後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた戦い。武家政権を倒し、朝廷の復権を目的とした戦いであった。
元弘(げんこう)の乱
後醍醐天皇の勢力が打倒鎌倉幕府を掲げ、北条高時率いる幕府との勢力で起きた戦い。のちの足利幕府につながる戦い。
偶然なのか、いずれも、巨大な政権を倒そうとした戦いが、5月に起きています。
もしかしたら、明智光秀も、この出来事に自分のことを、重ね合わせたのかもしれません。
ちなみに、明智光秀はこの時、おみくじを三回引いて、三回とも凶がでたという逸話もあります。
愛宕神社(あたごじんじゃ)
住所:京都府京都市右京区嵯峨
アクセス:京都駅からバス乗車、「清滝」バス停下車 徒歩2時間(登山)
明智越(あけちごえ) 京都府亀岡市
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京都の保津から嵯峨へ越える峰の道があります。
明智光秀が、亀山城から愛宕神社に向かった道が「明智越」と言われています。
「明智軍記(あけちぐんき)」では、明智光秀本隊が、本能寺に向かったルートと書かれています。
登山時間は約2時間で、現在、道はあまり舗装されていません。
愛宕山に行くときは、登山準備をしっかりして、登った方がよさそうです。
明智越(あけちごえ)
住所:京都府亀岡市保津町保津山2
アクセス:JR嵯峨野線「亀岡駅」から明智越入り口まで徒歩30分
亀山城から本能寺へのルート
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明智光秀は、亀山城から本能寺へは、どのようなルートを使ったのでしょうか?
ルートは大きく分けて3つあります。
①老ノ坂(おいのさか)ルート
②唐櫃越(からとごえ)ルート
③明智越(あけちごえ)ルート
「信長公記」と「角川太閤記」では①の老ノ坂ルートを通り、京都に入ったとされています。
一説では、明智光秀の軍勢は、1万3000人とも言われています。
その軍勢が①老ノ坂ルートと②唐櫃越ルートを二手に分かれて、進軍したという説もあります。
「明智軍記」では、上記のルートを三隊に分けて進軍したとあります。
明智光秀の本隊は③の明智越ルートを進軍したと記されています。
篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう) 京都府亀岡市
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亀山城を出た明智光秀は、篠村八幡宮で軍勢を揃えました。
「光秀行状記(みつひでぎょうじょうき」によると、篠村八幡宮で明智光秀は、重臣たちに初めて謀反のことを打ち明けたと記されています。
明智五家老
斎藤利三(さいとうとしみつ)
明智家の筆頭家老であり、明智光秀の最も信頼できる家臣でした。
稲葉一徹の家臣でしたが、喧嘩別れし、縁戚関係から明智光秀に仕えるようになりました。
明智秀満/明智光春(あけちひでみつ/あけちみつはる)
明智光秀の叔父である明智光安の子であり、明智光秀とは従兄弟の関係にあったと伝わります。
また、明智光秀の離縁した娘を、妻に迎えているとも言われています。
明智光忠(あけちみつただ)
明智光秀の叔父にあたる明智光久(あけちみつひさ)の子で、明智光秀とは従父弟の関係にあったと伝わります。
溝尾茂朝/溝尾庄兵衛(みぞおしげとも/みぞおしょうべい)
明智光秀のもとで、政務を行い、明智家を支えた一人です。
藤田行政/藤田伝五(ふじたゆきまさ/ふじたでんご)
明智光秀の父・明智光綱(あけちみつつな)の代から仕えており、明智光秀と共に転戦をしてました。
明智光秀は、この五家老たちに、すべてを話したと言います。
また、この篠村八幡宮は足利尊氏が鎌倉幕府を倒すことを決意し、兵を挙げた場所です。
源氏の流れを汲む足利尊氏によって、平氏の流れを汲む北条は鎌倉幕府と共に倒れました。
源氏の流れを汲む明智氏
平氏の流れを汲む織田氏
足利尊氏挙兵から、250年の歳月を経て、源氏の流れを汲む者が、再び立ち上がろうとしています・・・。
明智光秀は、亀山城を出発する際、配下の軍に「信長様に軍の検分を頼まれた」と話していました。
その為、配下の者は、京都に軍勢が向かうことは、ごく自然なことでした。
京都の桂川まで進軍した時、明智光秀は全軍に号令を発します。
「敵は本能寺にあり!!」
ドラマや小説でお馴染みの、あの有名なセリフが思い浮かびます。
耳をすませば、覚悟を決めた明智光秀の声が、聞こえてきそうですね・・・。
明智光秀は、「敵は本能寺にいる織田信長である」と全軍に号令を出したのです。
そして、明智光秀は、ついに織田信長がいる本能寺に到着します。
篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)
住所:京都府亀岡市篠町篠上中筋46
アクセス:JR嵯峨野線亀岡駅から京阪京都交通バスで10分(篠下車)
旧本能寺(きゅうほんのうじ) 京都府京都市
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1582(天正10)年、旧暦6月2日、午前4時、明智軍は本能寺を包囲しました。
明智軍1万3000人に対して織田信長軍は30〜150人程でした。
織田信長は森蘭丸から、明智光秀の謀反の知らせを聞きます。
「是非に及ばず」(ぜひにおよばず)
織田信長は森蘭丸に、このように呟いたと言われています。
「是非に及ばず」は、仕方がないや、どうしようもない、と言う意味があります。
明智光秀が指揮をとる軍なら「脱出するのも不可能であろう」と、織田信長は思ったと言われています。
明智軍が本能寺に突入を決行、織田信長の家臣たちは、次々と斃れていきました。
織田信長自身も弓矢や槍で応戦しましたが、肘に傷を負って、殿中の奥に篭ります。
ついに、織田信長は切腹を覚悟します。
本能寺の燃えさかる炎の中、織田信長の生涯が幕を閉じます・・・。
当時の本能寺は堀や石垣があり、城塞のような城構えであったことが、発掘調査で判明しています。
舞台になった本能寺の場所には、現在、石碑が建っています。
旧本能寺(きゅうほんのうじ)
住所:中京区小川通蛸薬師元本能寺町
アクセス:京都駅から市バスで四条西洞院下車(徒歩4分)
本能寺(ほんのうじ) 京都府京都市
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現在の本能寺は、京都市中京区にあります。
1582(天正16)年、豊臣秀吉の命で、現在の場所に移りました。
その後、幕末に起きた禁門の変で火災が起き、現在の本堂は1928(昭和3)年に建てられました。
本能寺の境内には織田信長の墓があります。
本能寺は戦国時代以前にも2回焼失しており、全部で4回も焼失しています。
燃えさかる運命を持っているお寺なのでしょうか。
本能寺(ほんのうじ)
住所:京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
アクセス:地下鉄東西線「京都市役所前」下車すぐ
妙覚寺(みょうかくじ) 京都府京都市
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本能寺が焼失した時、織田信長の嫡男、織田信忠(おだのぶただ)は妙覚寺にいました。
織田信忠は、明智光秀の襲撃を聞き、本能寺に救援に向かおうとします。
しかし、家臣の村井貞勝(むらいさだかつ)らによって制止されます。
妙覚寺は1583(天正11)年に、現在の地に移転しています。
当時の妙覚寺の場所は現在では石碑すらなく、地名だけが残っています。
妙覚寺(みょうかくじ)
住所:京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135
アクセス:地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」下車、西へ徒歩約4分
二条御新造(にじょうごしんぞう) 京都府京都市
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織田信忠は、妙覚寺から堅固な構えの、二条御新造に移動しました。
「安土へ逃げた方がいい」、と言う家臣もいたが、織田信忠は、もはや逃げ切ることは無理だと考えます。
明智光秀の軍は、織田信忠が家臣と話をしている間に、二条御新造を包囲します。
織田信忠の軍勢は約1500人でした。
織田信忠は、必死に奮闘して、一時は明智軍を押し返しましたが、次第に死傷者が多くなりました。
ついに、明智軍は屋内に入り込み、火を放ちます。
織田信忠は、ここまでと覚悟を決め、自害しました。
享年26歳でした。
現在、二条御新造跡には、漫画ミュージアムの建物の西側に、石碑が建っています。
二条御新造跡(にじょうごしんぞうあと)
住所:京都府京都市中京区両替町通御池上る
アクセス:京都市営地下鉄烏丸御池駅から徒歩5分
おわりに・・・
こうして織田信長、信忠親子は夢半ばでこの世を去りました。
天下統一に最も近い男は、最も信頼していた家臣に裏切られました。
織田信長を裏切った家臣は、過去にもたくさんいます。
しかし、まさか、明智光秀が裏切るとは思いもしなかったでしょう。
明智光秀は本能寺に進軍するさなか、どんな心情だったのでしょうか・・・。
そして、最大の謎は、なぜ明智光秀は本能寺の変を起こしたのか・・・?
その答えは、次の記事をごらんください。