戦国時代

明智光秀の子供たちは、その後どうなったのか?【子供の名前】

明智光秀は、本能寺の変を起こし、織田信長を討ち取りました。

しかし、羽柴秀吉との戦いに敗れた明智光秀は、京都で落ち武者狩りに遭い、命を落とします。

その後、豊臣政権が樹立し、明智の名は、「裏切者の逆賊」と罵られ、歴史から姿を消します・・・。

 

謀反人と言われた明智光秀には、子供たちがいました。

戦後、残された子供たちは、どのような運命を辿ったのでしょうか・・・。

今回は、明智光秀の子供たちを紹介します。

 

目次

明智光秀の子供たち

明智光秀には、何人の子供がいたのでしょうか。

子供に関する書物を見てみましょう。

 

「明智軍記」→3男4女

「明智系図」(鈴木叢書所収)→6男7女

 

資料が少なく、謎が多い明智光秀同様に子供達も、確証した記述は、残念ながらありません。

まずは、明智光秀の娘たちを、見ていきましょう。

明智光秀の娘

長女と次女

・「明智軍記」

長女・・・明智秀満(ひでみつ)の妻であり、一説では、名前は、倫子(りんこ)と言う。

夫である明智秀満は、明智光秀の家臣であり、明智五家老の一人と呼ばれた。

次女・・・明智光忠(みつただ)の妻。

夫である明智光忠は、明智光秀の家臣であり、明智五家老の一人と呼ばれた。

 

・「明智系図」

長女・・・菅沼 定盈(すがぬま さだみつ)の妻であり、明智光秀の養女。

夫である菅沼 定盈は、徳川家家臣。

次女・・・桜井(松平)家次(さくらい いえつぐ)の妻であり、明智光秀の養女。

夫である桜井(松平)家次は、今川家臣。

 

二つの資料では、長女と次女の嫁ぎ先は、異なっています。

名前も定かではなく、詳しいことは、伝わっていません。

次に、三女と四女を見てみましょう。

 

三女と四女

・「明智軍記」

三女・・・細川忠興(ほそかわただおき)の妻であり、名前は、珠(子)/玉(子)。

細川ガラシャの名前で有名。

夫である細川忠興は、織田、豊臣、徳川の権力者たちに仕え、肥後細川家の基礎を気づいた。

四女・・・津田(織田)信澄(つだのぶずみ)の妻。

夫である津田信澄は、織田信長の家臣として活躍した。

 

・「明智系図」

三女・・・津田(織田)信澄(つだのぶずみ)の妻。

四女・・・細川忠興(ほそかわただおき)の妻であり、名前は、珠(子)/玉(子)。

細川ガラシャの名前で有名。

 

二つの資料では、二人の娘には、三女と四女の違いがあります。

しかし、嫁ぎ先は、二人とも一致しています。

この他に、明智系図では、五女、六女、七女までいますが、資料が乏しく、詳しくはわかりません。

 

ここで、嫁ぎ先が一致した、三女と四女である二人の娘を、見ていきましょう。

 

津田信澄(つだのぶずみ)の妻【明智光秀の三女、または四女】

明智系図では三女、明智軍記では、四女と書かれています。

この明智光秀の娘は、名前は詳細不明です。

1574(天正2)年に、明智光秀の三女または四女は、津田信澄に嫁ぎました。

津田信澄(つだのぶずみ)

 

津田信澄は、織田信秀(信長の父)の息子である、織田信勝(信行)の長男です。

父である織田信勝(のぶかつ)は、織田信長の弟であり、尾張統一の際に、織田信長によって、討たれています。

津田信澄にとって、織田信長は叔父にあたります。

 

織田信勝が織田信長に制裁されると、津田信澄は信長を主君として、武功を挙げます。

津田信澄は、織田信長に厚遇されており、家臣として信頼を得ていました。

1578年(天正6)年には、近江にある大溝(おおみぞ)城の城主になります。

 

しかし、本能寺の変が起きたことにより、津田信澄の人生は、悲劇に一変します。

津田信澄は、織田信孝(のぶたか)を総大将とする、四国討伐軍に編成されていました。

丹羽長秀(にわながひで)、蜂屋頼隆(はちやよりたか)と共に、副将として参加する予定でした。

 

織田信長は、徳川家康の堺見物の為、津田信澄と丹羽長秀に、大坂での接待役を命じます。

本能寺の変が起きると、大阪城にいた津田信澄は、窮地に立たされることになります。

 

市中である噂が流れます・・・。

 

「明智光秀の娘を妻とする津田信澄は、明智光秀と共謀して織田信長を討った」

 

その噂を聞き、疑心暗鬼になった織田信孝と丹羽長秀は、津田信澄を襲撃します。

丹羽長秀の家臣・上田重安(うえだしげやす)によって、津田信澄は、討ち死にします。

謀反人の汚名を着せられた津田信澄は、大坂の堺で、晒し首とされました。

 

享年25歳とも、28歳とも言われています。

滋賀県高島市に大善寺(だいぜんじ)があります。

大善寺には、寺の開基をした津田信澄の供養墓と、慰霊の石碑が建てられています。

 

妻の明智光秀の娘は、その後の詳細は、明らかになっていません。

もしかしたら、大溝城から落ち延びて、どこかに匿われていたのかもしれません。

息子の津田昌澄(まさずみ)が後に、豊臣家に仕えています。

そこで、親子揃って生涯を閉じたと思いたいですね・・・。

 

大善寺(だいぜんじ)

住所:滋賀県高島市勝野2152

住所:JR湖西線 「近江高島駅」 下車 徒歩 7分

 

細川ガラシャ(珠子・玉子)【明智光秀の三女、または四女】

細川ガラシャは、明智軍記では三女、明智系図では四女と書かれています。

1563(永禄6)年、明智光秀と妻・煕子との間に、生まれました。

越前国(えちぜんこく)【現・福井県】で生まれる

 

福井県福井市の東大味(ひがしおおみ)町に、明智神社があります。

明智神社は、朝倉氏に仕えていた頃の、明智光秀の住居跡とされています。

この地で、細川ガラシャは生まれました。

 

明智神社(あけちじんじゃ)

住所:福井県福井市東大味町

アクセス:JR越美北線 越前東郷駅から車で16分

 

細川家に嫁ぎ、細川忠興(ほそかわただおき)の妻になる

 

1578(天正6)年、細川ガラシャは、織田信長の命で、細川家に嫁ぎます。

夫である細川忠興は、明智光秀の盟友・細川藤孝(幽斎)の嫡男です。

 

細川忠興は、織田、豊臣、徳川に仕え、肥後細川家の基礎を、築き上げた人物です。

二人の結婚式は、京都にある勝竜寺(かつりゅうじ)城で、盛大に行われました。

 

勝竜寺城跡(かつりゅうじじょうあと)

住所:京都府長岡京市勝竜寺13-1

アクセス:JR長岡京駅から徒歩で10分

 

細川ガラシャの夫・細川忠興(ほそかわただおき)

細川ガラシャの夫・細川忠興は、どんな人物だったのでしょうか。

1563(永禄6)年、細川藤孝(幽斎)の長男として、京都で生まれます。

父の細川藤孝は、室町幕府13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)に、仕えていました。

 

織田政権時代

15将軍・足利義昭(あしかがよしあき)が織田信長と対立するタイミングで、細川親子は織田家臣となります。

細川忠興は、織田信長の嫡男・織田信忠に仕え、15歳で紀州討伐で初陣を飾ります。

信貴山(しぎさん)城の戦いで、父・幽斎と明智光秀と共に、松永久秀勢を打ち破り、織田信長から感謝状を貰っています。

 

「細川家記」によると、織田信長から、細川忠興は、部門の棟梁としての器を、褒め称えられています。

本能寺の変が起こると、明智光秀から、味方の誘いを受けますが、父・細川幽斎と共に拒否します。

 

この時、父・細川幽斎が隠居しました。

細川忠興は、領国である丹後南半国を譲り受け、丹後宮津(たんごみやつ)城主となりました。

 

豊臣政権時代

羽柴秀吉に従順の姿勢をとった細川忠興は、北丹後の一色(いっしき)家を攻め滅ぼします。

その後、細川忠興は、羽柴秀吉によって、丹後全域の領有を許されます。

細川忠興は、福島正則(ふくしままさのり)や加藤清正(かとうきよまさ)と共に、豊臣秀吉子飼いの「七将」に数えられます。

 

その後も、小牧長久手の戦い、九州討伐、小田原討伐、朝鮮出兵と数多くの戦に、赴きました。

豊臣秀次事件の時、細川忠興は、豊臣秀次に借金がありました。

そのことで、豊臣秀吉に嫌疑をかけれますが、徳川家康の力により、疑いは晴れます。

 

徳川政権時代

豊臣秀吉が死去すると、石田三成(いしだみつなり)と徳川家康の対立抗争が起きます。

細川忠興は、徳川家康に従順し、加藤清正や福島正則とともに、石田三成の襲撃に加わりました。

この時、豊臣家筆頭家老であった徳川家康に、領地を加増をしてもらいます。

 

関ケ原の戦いでの論功行賞により、豊前国中津(ぶぜんこくなかつ)、約40万石の大名となりました。

その後、細川忠興は、小倉(おぐら)城に藩庁を移し、小倉藩の初代藩主となります。

大坂の陣にも参戦し、三男の細川忠利(ただとし)に、家督を譲って隠居します。

 

1645(正保2)年に、肥後・八代(やつしろ)城にて、83歳で死去します。

細川忠興の辞世の句が残っています。

「皆どもが忠義 戦場が恋しきぞ いづれも稀な者どもぞ」

戦国の戦乱を切り抜けた、細川忠興らしい人柄が出ています。

 

文化人としても活躍

細川忠興は、文化人として、数多くの文化人や大名や公家と交流があり、多くの情報を得ていました。

細川忠興が書いた手紙は、1800通以上と言われています。

父・細川幽斎同様、教養人であり、特に茶道に通じていました。

 

茶人・千利休(せんのりきゅう)を師と仰ぎ、「利休七哲」の一人に数えられる程でした。

千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられた時、お見舞いに行ったのは、細川忠興と古田織部(ふるたおりべ)の二人だけでした。

細川三斎(さんさい)と名乗り、茶人としても、活動をしています。

 

細川忠興は短期気だった!?

細川忠興は、茶道四祖伝書(ちゃどうしそでんしょ)のなかで、「天下一の気が短い人物」と書かれています。

丹波平定の際に、明智光秀から「降伏してくる者を、むやみに殺してはならない」と諭されています。

戦場では武闘派の細川忠興は、怒りの沸点が低く、敵には容赦がない性格だったと言われています。

 

父・細川幽斎に激怒する

関ケ原の戦いの際、父・細川幽斎が守る田辺城が、西軍によって包囲されます。

しかし、朝廷の仲立ちもあり、細川幽斎は、敵方に城を明け渡しました。

その報を聞いた細川忠興は、「なぜ最後まで戦わなかったのか」と激怒し、父・幽斎と一時不仲な関係になります。

 

妹の嫁ぎ先である、一色氏を謀殺する

細川忠興は、丹後攻略戦で、北丹後を支配していた一色義定(いっしきよしさだ)を宮津城内で謀殺します。

その際、城内にいた一色義定の家臣や、雑兵もすべて皆殺しにしています。

 

一色義定に嫁いでいた妹・伊也(いや)は、そのことを恨み、戦後に、兄である細川忠興に斬りかかります。

この時、鼻に傷ができ、大名の間では、この傷に触れることを、配慮したといいます。

 

長男・細川忠隆(ただおき)を廃嫡する

細川忠興は、長男の細川忠隆(ただたか)を、廃嫡しています。

 

廃嫡(はいちゃく)・・・嫡男に対して、相続する権利を廃すること。

 

細川忠隆の妻であった千世(ちよ)は、細川屋敷で、ガラシャが自害した際、姉の指示で前田邸に逃れました。

千世は、前田利長(としなが)の妹だったため、前田邸に助けを求めました。

 

細川忠隆は、細川忠興に咎められ、千代と離縁をして、前田家に追い払うよう命じられます。

しかし、細川忠興は、納得いかず、それに反発して、廃嫡されることになりました。

 

次男・細川興秋(ほそかわおきあき)を切腹させる

次男の細川興秋(おきあき)は、大阪の陣で豊臣方に味方しました。

そのことに細川忠興は、激怒し、戦後、細川興秋に切腹を命じます。

徳川家康は、許そうとしましたが、細川忠興は、自らの命令で、興秋を切腹させました。

 

細川忠興とガラシャとのエピソード

細川家家臣らが、歴代当主の事をまとめた書物があります。

「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」という書物に、数々のエピソードが載せられています。

 

細川忠興が、些細なミスをした料理人を刀で斬ります。

細川忠興は、その刀に着いた血をガラシャの小袖で拭います。

ガラシャは、血の付いた着物を、何日も着替えませんでした。

細川忠興はさすがに懲りて、謝ったと言います。

 

庭師の職人がガラシャの美しさに見惚れたところ、細川忠興に斬られます。

細川忠興は、その首をガラシャの膝元に投げます。

ガラシャは、少しも驚く様子がなく、微動だにしなかったと言います。

 

ガラシャは、巷では美人との評判でした。

細川忠興は、好色好きの豊臣秀吉に目を付けられないか、心配をしていました。

朝鮮出兵の遠征先から、ガラシャに「秀吉の誘いには乗らないように」という内容の手紙を送っています。

 

本能寺の変により、「謀反人の娘」となる

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父である明智光秀が本能寺の変を起こし、織田信長を討ち取る事件がおきました。

明智光秀は、細川親子に味方になってほしいと誘いますが、細川親子は、頑なに拒否をします。

 

明智光秀の誘いを断った細川忠興は、すぐに次の行動に移っています。

家臣・松井康之(まついやすゆき)を通じて、織田信孝(おだのぶたか)に「謀反の心はない」と伝えています。

そして、細川忠興は、正室である細川ガラシャを、丹後国の味土野(みどの)に幽閉します。

 

細川ガラシャは、織田家臣の大名の娘から、一夜にして、「謀反人の娘」になってしまいました。

当時、離縁をすると、妻は自分の故郷に帰されることが普通でした。

しかし、謀反人の娘となったガラシャは、帰るところがありません。

 

味土野には、明智家の「茶屋」があったとされています。

この味土野に送り返すことで、幽閉という形ですが、形式上では送り返したことになります。

細川忠興は、ガラシャへの愛情を抑えきれなく、幽閉地に通いガラシャに度々会っています。

 

この時に、ガラシャは子供を出産しています。

現在、幽閉地跡には、「細川ガラシャ隠棲地の碑」が建っています。

 

味土野女城跡(みどのめじろあと)

住所 京都府京丹後市弥栄町須川

アクセス 京都丹後鉄道宮津線 峰山駅から車で30分

 

キリスト教の洗礼を受け、キリスト教徒となる

細川ガラシャの幽閉は、2年に及びましたが、羽柴秀吉の許しをもらい、細川家の大阪屋敷に戻ります。

しかし、細川ガラシャの自由はなく、家臣2名が常にガラシャを見張っています。

 

ガラシャは、近親者以外からの伝言は受け取れなく、屋敷内でも許可された部屋にしか行くことができませんでした。

まさに、監禁状態で、生活をすることになります。

細川忠興は、摂津(せっつ)国・高槻(たかつき)城主であり、キリシタン大名・高山右近と、親しい間柄でした。

高山右近から聞いた、キリストの教の講義を、細川忠興は、ガラシャに話していました。

 

細川ガラシャは次第に、キリスト教の教えに興味を持ちます。

1587(天正15)年、夫の細川忠興は、九州征伐のため、大坂を留守にします。

細川ガラシャは、身を隠しつつ、大坂にあったイエズス会の教会を訪れました。

 

この時、ガラシャは、修道士に色々な質問をし、洗礼を受けることを希望します。

しかし、教会側は、彼女の身元が、分からなく困ります。

教会側は、ガラシャの身なりから、身分が高いものであると判断し、洗礼は行いませんでした。

 

しかし、細川ガラシャは、再び外出ができる状態ではありませんでした。

教会には行けないガラシャは、侍女(じじょ)を通じて、教会とやり取りをしていました。

また、教会からもらった書物を読むことにより、信仰を深めていきました。

 

この間、侍女の清原いと(清原マリア)や、他の侍女たちを教会に行かせ、洗礼を受けさせています。

この期間に、九州にいた豊臣秀吉により、バテレン追放令が出されます。

この時、細川ガラシャは、イエズス会のグレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいにより、先に洗礼を受けていた清原マリアから、洗礼を受けます。

 

ここで、「ガラシャ」という洗礼名を受けることになります。

ガラシャという名前は、ラテン語で「神の恵み」という意味を持っています。

九州から帰国した細川忠興は、ガラシャの洗礼を受けたことを知り、激怒し、棄教をさせようとします。

 

細川忠興は、バテレン追放令が出されている中で、キリスト教を認めることはできません。

しかし、細川ガラシャは、頑なに棄教を拒み、ついに細川忠興を黙認させます。

「フロイス日本史」によると、九州から帰ってきた細川忠興は、以前より、残忍で悪辣な異教徒になったと書かれています。

 

また、キリシタンである乳母の些細な過ちに対して、鼻と耳をそぎ落とし、追い出したと伝わります。

細川忠興は、ガラシャに対して、強く当たることが、しばしばありました。

この時ガラシャは、「離婚をしたい」と宣教師に告白しています。

キリスト教では、離婚は認められておらず、宣教師は、ガラシャを思いとどまらせました。

 

細川ガラシャの壮絶な最期

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豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成(いしだみつなり)との間で、対立が起きます。

1600(慶長5)年、石田三成方の上杉氏を討伐するため、徳川家康は、会津に向かいます。

夫である細川忠興は、上杉討伐に、同行していました。

 

「イエズス会日本報告集」に細川忠興が、大坂屋敷を旅立つ際に、家臣に命じたことが記してあります。

「自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻と共に死ぬように」

石田三成は、徳川方についた大名の妻子を人質に取って、動きを牽制する計画を実行します。

 

大坂玉造にある細川屋敷にいた細川ガラシャは、人質になることを拒否します。

石田三成は、実力行使に出て、細川屋敷を兵に囲ませます。

屋敷内にいた侍女たちを外に脱出させたあと、細川ガラシャは覚悟を決めます。

 

キリスト教では、自殺は禁じられていました。

キリシタンである細川ガラシャは、細川家家老の小笠原秀清(おがさわらひできよ)に介錯を頼みます。

小笠原秀清は、細川ガラシャの心臓を長刀で突き、介錯しました。

 

その後、小笠原秀清は、屋敷に火をかけて、自害しました。

細川ガラシャは、享年38歳であり、若すぎる死となりました。

細川ガラシャの事件を知った各大名屋敷では、次々と、屋敷から妻子を脱出させることに成功しました。

 

オルガンティノ神父は、細川屋敷の焼け跡を訪れ、ガラシャの骨を拾い、キリシタン墓地に埋葬しました。

翌年には、細川忠興は、オルガンティノ神父に、教会葬を依頼し、葬儀に参列しました。

細川ガラシャの骨は、大坂の崇禅寺(そうせんじ)に改装しました。

 

細川ガラシャの辞世の句が残っています。

 

「散りぬべき 時知りてこそ  世の中の  花も花なれ  人も人なれ 」

 

意味は、「花も人も、散り時を、心得てこそ、美しい・・・」。

ガラシャは、殉教を望んでいましたが、細川家の為に死んだ彼女は、殉教者になれませんでした。

しかし、殉教に限りなく近い、最期だったのではないでしょうか。

 

越中井(えっちゅうい)/細川忠興屋敷跡

住所:大阪府大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12

アクセス:地下鉄中央線・JR大阪環状線「森ノ宮駅」下車 徒歩10分

 

細川ガラシャのお墓

細川ガラシャの生涯は、激動の人生でした。

父の活躍により、名門である細川家に嫁ぎ、父の謀反により、謀反人の娘となりました。

そして、幽閉され、心の支えとして、キリスト教に出会い、細川家のために命を捨てました。

花のように散っていった細川ガラシャのお墓は、全国に三カ所あります。

 

崇禅寺(そうせんじ) 大阪府大阪市

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大阪府大阪市東淀川区に、崇禅寺(そうせんじ)はあります。

オルガンティノ神父は、ガラシャの骨を拾い、遺骨を堺のキリシタン墓地に埋葬しました。

その後、細川忠興はガラシャの死を悲しみ、ガラシャの遺骨を崇禅寺へ改葬しました。

 

崇禅寺(そうせんじ)

住所:大阪府大阪市東淀川区東中島5-27-44

アクセス:JR「新大阪駅」東口から徒歩で10分

 

大徳寺・高桐院(だいとくじ・こうとういん) 京都府京都市

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京都府京都市にある大徳寺の境内に、高桐院(こうとういん)はあります。

高桐院は、大徳寺の塔頭のひとつであり、細川忠興が父・細川幽斎のために建立しました。

境内に、細川忠興と細川ガラシャの墓塔となっている、春日灯籠(かすがいとうろう)があります。

 

この春日井灯籠は、茶人・千利休(せんのりきゅう)愛用の灯籠と言われています。

細川忠興は、千利休の遺品として受け取った灯籠を高桐院に持参し、墓標としたとされています。

 

大徳寺・高桐院(だいとくじ・こうとういん)

住所:京都府京都市北区紫野大徳寺町73

アクセス:京都駅からバスで大徳寺前下車 徒歩5分

 

立田自然公園・泰勝寺跡(たつだしぜんこうえん・たいしょうじあと) 熊本県熊本市

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熊本県熊本市にある立田自然公園内に、泰勝寺(たいしょうじ)跡はあります。

この場所には、肥後熊本藩主・細川家の菩提寺であった「龍田山泰勝寺(りゅうでんさんたいしょうじ)」が建っていました。

明治時代の神仏分離令により、廃寺となり、細川家の別邸が建ちました。

 

泰勝寺跡には、細川初代藩主・藤孝夫妻と、細川忠興・細川ガラシャの墓である「四つ御廟」があります。

また、歴代藩主や住職の墓、細川家にゆかりのある、宮本武蔵の供養塔などもあります。

 

立田自然公園・泰勝寺跡(たつだしぜんこうえん・たいしょうじあと)

住所:熊本県熊本市中央区黒髪4-610

アクセス:JR熊本駅から:車で約25分

 

続・明智光秀の子供たち

続いては、息子たちについて、見ていきましょう。

二つの資料で、男子をもう一度、確認してみます。

 

「明智軍記」→3男4女

「明智系図」(鈴木叢書所収)→6男7女

 

明智軍記と明智系図では、男子の数が違います。

 

明智光秀の息子

「明智軍記」

長男・・・光慶(十兵衛又は、十五朗)

次男・・・光泰(十次郎)

三男・・・乙寿丸

 

「明智系図」

長男:玄琳・・・京都の妙心寺に入る。(光慶と同一人物?)

次男:安古丸・・・山崎の戦いで戦死。

三男:不立・・・嵯峨天龍寺に入る。

四男:十内・・・坂本城落城の際に死亡。

五男:自然・・・坂本城落城の際に死亡。(「明智軍記」の十次郎の幼名?)

六男:内治麻呂 ・・・喜多村保之(喜多村弥平兵衛)

 

連歌の記録を収めた「連歌総目録」には、明智光慶(みつよし)が、連歌会に出席した記録があります。

また、この連歌会に「自然丸」の名前の記載も見られます。

自然丸の名前は、茶人・津田宗及(つだそうぎゅう)の茶会記でも、実在が確認されています。

 

明智光秀が細川幽斎にあてた手紙には、「十五郎」の名前が出てきます。

「十五郎」は文面の内容から、長男の明智光慶のことだと読み取れます。

このことから、二人の子供は、存在していた可能性があるとされています。

 

また、別の角度から、自然丸は光慶の幼名ではないかとも言われています。

また、宣教師ルイス・フロイスは、「坂本城で明智光秀の二子が死んだ」と述べています。

 

ルイス・フロイスが言う、坂本城で死んだ「明智光秀の二子」とは誰なのでしょうか?

①長男・光慶と次男・光泰?

②次男・光泰と三男・乙寿丸?

 

ちなみに長男の明智光慶は、亀山城で死去した説と、坂本城で死去した説があります。

 

結論的に、誰がどの名前で、誰がどこで、どうなったのかは、正直全くの謎に包まれています。

 

色々な資料で名前が出ている「明智軍記」で、長男の明智光慶を見ていきましょう。

 

明智光慶(あけち みつよし)【長男】

明智光慶は「明智軍記」に、明智光秀の長男として登場します。

明智光慶が歴史に登場したのは、明智光秀が亀山城を築城する前後でした。

初参の記録もなく、特に目立った功績もありません。

 

1582年(天正10)年に、催しされた愛宕山の連歌会で、「明智光慶」の名前が登場します。

記録では、明智光慶は、父・明智光秀と同席し、連歌の結句を詠んでいます。

 

また、宣教師のルイス・フロイスが書いた「フロイス日本史」の中で、明智光慶の感想を述べています。

「非常に美しく優雅で、ヨーロッパの王族を思わせるようであった」

明智光秀や妻・煕子が手塩にかけて、育てた息子だったのでしょうか。

 

1582(天正10)年、父の明智光秀が、本能寺の変を起こし、山崎の戦いが始まります。

その時、息子の明智光慶は、どこで何をしていたのでしょうか?

これには、二つの説があります。

 

亀山城で自害した

本能寺の変が起きた時、明智光慶は、丹波・亀山城にいました。

明智光慶は、父である明智光秀の、謀反をおこしたという無道に嘆きます。

そして、悶え苦しんで、自害したと言われています、また、病死したとも伝わります。

 

坂本城で自害した

本能寺の変が起きた時、明智光慶は、近江・坂本城にいました。

その後、山崎の戦いにより、敗戦した明智光秀は、京都の小栗栖(おおぐりす)で殺害されます。

 

坂本城は、帰還した明智秀満(ひでみつ)が守っていましたが、羽柴秀吉軍の猛攻撃を受けます。

坂本城の落城と共に、明智秀満は自害します。

一緒にいた明智光慶も、明智一族と共に自害したと言われています。

 

明智光慶(あけち みつよし)生存説

歴史上で謎が多い人物には、「落ち延びて生きていた」という話は、付き物です。

父である明智光秀にも、落ち延びた伝説があります。

その息子である明智光慶もまた、父親同様、落ち延びた伝説があります。

 

妙心寺(みょうしんじ) 京都府京都市

 

京都府京都市に、妙心寺(みょうしんじ)はあります。

明智光慶は、坂本城または、亀山城から落ち延びて、妙心寺で出家しました。

妙心寺の塔頭(たっちゅう)である瑞松院(ずいしょういん)の住職となり、「玄琳(げんりん)」と名乗ります。

 

この瑞松院(明治維新後に、廃院)は、江戸初期には、妻木(つまぎ)氏が檀那となっています。

 

檀那(だんな)・・・特定の寺院に属して、その経営を助ける=布施をする人です。

 

明智光秀の妻・煕子(ひろこ)は、妻木氏から明智家に嫁ぎにやってきました。

 

また、玄琳の師である三英瑞省は、妙心寺の塔頭・大心院(だいしんいん)の住職でした。

この大心院は、細川ガラシャの夫である細川忠興が、檀那となっていました。

妻木氏と細川氏が関係していて、明智家と深い繋がりを持った寺院であることがわかります。

 

玄琳は、明智家の家系図をまとめた「明智系図」(「続群書類従」所収)を作成しました。

また、妙心寺には、「明智風呂」と呼ばれるお風呂があります。

 

大嶺院の密宗(みっそう)和尚は、明智光秀の叔父と言われています。

その密宗和尚が、明智光秀の菩提を弔うために、明智風呂を創建したと伝わります。

 

妙心寺(みょうしんじ)

住所:京都府京都市右京区花園妙心寺町1

アクセス:JR嵯峨野線花園駅から徒歩で10分

 

本徳寺(ほんとくじ) 大阪府岸和田市

 

大阪府岸和田市に、本徳寺(ほんとくじ)はあります。

本徳寺は、京都にある妙心寺の末寺にあたります。

本徳寺を開基したのは、南国梵桂(なんごくぼんけい)という名の僧です。

 

実は、この南国梵桂が、「落ち延びた明智光慶ではないか」と言われています。

本徳寺には、南国梵桂が描かせた明智光秀の肖像画があります。

また、明智光秀の位牌もあり、明智家と深い関係を持った寺院とされています。

 

本徳寺(ほんとくじ)

住所:大阪府岸和田市五軒屋町

アクセス:南海本線岸和田駅から徒歩で8分

 

明智光秀側室の墓(あけちみつひでそくしつのはか) 千葉県市原市

千葉県市原市の不入斗(いりやまず)に「明智光秀側室の墓」と伝わる墓石があります。

その墓には、「フサの方・土岐重五郎・妻のツネ」の名前が刻まれています。

明智光慶は、別名を十五朗と表記されることもあり、「重五郎=十五朗」と解釈されています。

 

フサの方は、明智光秀の側室で、妻のツネは、この地で明智光慶と結婚した奥方です。

伝記では、坂本城落城の際、明智光秀の側室のフサの方と明智光慶は、坂本城を脱出します。

家臣・斎藤利治に守られて、上総(かずさの)国(現在の千葉県)まで、落ち延びました。

 

フサの方は出家をし、この地にある西光院という寺院に入ったと言います。

この墓は、明智光秀の子孫であると伝承される一族の方に、管理されているようです。

なぜ、落ち延びた場所が、上総国だったのでしょうか・・・。

 

実は、上総国には、土岐氏が一部の領地を持っていました。

千葉県いすみ市(旧夷隅郡夷隅町)に万木城【万喜城】(まんぎじょう)がありました。

万木城主は、土岐為頼という人物でした。

 

明智家の出自は、土岐氏から出ています。

もしかしたら、二人は、上総土岐氏を頼り、この地を目指したのかもしれません・・・。

 

明智光秀側室の墓(あけちみつひでそくしつのはか)

住所:千葉県市原市迎田

アクセス:JR内房線 姉ヶ崎駅から車で10分

 

おわりに・・・。

明智光秀が謎多き武将なので、その子供達も謎が多く、真相が未だにわかりません。

詳しく記載されているのは、細川ガラシャぐらいではないでしょうか。

細川ガラシャの夫・細川忠興は、豊臣秀吉や徳川家康に気に入られ、大大名となりました。

 

細川ガラシャは、その妻であったからこそ、歴史に名が残っていると考えられます。

「明智光秀側室の墓」が千葉県にあるのは、この記事を書くまでは知りませんでした。

上総国(かずさのくに)はかつて、源頼朝が北条氏の力を借りて、打倒平家に向けて、挙兵した場所です。

 

源氏の流れを汲む明智家に、明智光慶は生まれました。

父の仇を獲る為に、上総土岐氏の力を借りて、豊臣家を倒す・・・。

明智光慶はそんな夢を見ていたのかも知れません・・・。

 



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