戦国時代

明智光秀ゆかりの地【お墓・塚】

1582(天正10)年、明智光秀は、羽柴秀吉との決戦である山崎の戦いに敗れ、この世を去りました。

明智光秀が起こした行動は、日本の歴史に、多大なる影響を与えました。

 

明智光秀は、戦場においては、戦略や統率力を持ち合わせた優れた武将でした。

また、高い教養を身に付けた文化人でもありました。

 

家族や家臣を思いやる心を持ち、領民からも慕われていた明智光秀。

そんな明智光秀が眠っている場所が、各地にあります。

 

今回は、明智光秀のお墓や塚をご紹介いたします。

 

谷性寺(こくしょうじ)  京都府亀岡市

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京都府亀岡市にある谷性寺には、明智光秀の首塚があります。

 

山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りに遭遇します。

竹槍で刺され、深手を負った明智光秀は、ここが最期と悟とります。

明智五家老の一人である溝尾茂朝(みぞおしげとも)に介錯を頼みます。

 

溝尾茂朝は覚悟を決め、明智光秀の介錯を決行します。

介錯をした溝尾茂朝は、家来に明智光秀の首を預けます。

 

そして、明智光秀が信仰をしていた谷性寺に、運ぶように指示をしました。

溝尾茂朝は、主君の後を追うように、その場で、自刃したといいます。

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境内には、「明智山門」と呼ばれる門があります。

この門は、亀山城下にあった西願寺が廃寺になる際に、移築されました。

谷性寺は、別名を「桔梗(ききょう)寺」とも言われます。

 

寺には明智家の家紋である桔梗が咲き、夏には境内が桔梗一色に染まります。

谷性寺の門前に「ききょうの里」があり、多くの桔梗の花を見ることができます。

園内には、明智光秀の騎乗している像も建っています。

谷性寺(こくしょうじ)

住所:京都府亀岡市宮前町猪倉土山39

アクセス:JR嵯峨野線亀岡駅から京阪京都交通バスで25分(猪倉下車)

 

盛林寺(せいりんじ) 京都府宮津市

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京都府宮津市にある盛林寺にも、明智光秀の首塚があります。

盛林寺は、丹後の守護職であった一色氏の重臣・小倉播磨守が菩提寺として創建しました。

 

その後、細川氏が丹後を支配し、盛林寺とも良好な関係を保ちました。

京都の小栗栖で、落ち武者狩りに討たれた明智光秀の首は、宮津に送られました。

 

宮津には細川家に嫁いだ、明智光秀の娘・珠(細川ガラシャ)がいました。

その後、細川ガラシャが、父である明智光秀を盛林寺に葬ったと伝わります。

盛林寺(せいりんじ)

住所:京都府宮津市喜多696

アクセス:京都丹後鉄道宮福線喜多駅から徒歩10分

 

明智光秀の首塚(あけちみつひでのくびづか) 京都府京都市東山区

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京都市東山区の白川に、明智光秀の首塚はあります。

溝尾茂朝は明智光秀に頼まれ、介錯を行います。

 

その後、家来に「光秀様の首を知恩院(ちおんいん)まで、届けよ」と指示をします。

しかし、知恩院の近くまでたどり着いたところで、夜が明けてしまいました。

家来は仕方なく、明智光秀の首を、この地に埋めたといいます。

 

ちなみに、白川沿いにある「餅寅」という和菓子屋さんが近くにあります。

こちらでは、明智光秀にあやかった、「光秀饅頭」を販売しています。

明智光秀の首塚(あけちみつひでのくびづか)

住所:京都市東山区三条通白川橋下る東側梅宮町474-23

アクセス:市バス「神宮道」下車徒歩約3分、地下鉄東西線「東山」下車徒歩約5分

 

明智藪(あけちやぶ) 京都府京都市伏見区

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京都市伏見区小栗栖にある明智藪は、明智光秀、終焉の地であります。

明智光秀は、この地で襲撃に会い、絶命したとされています。

 

勝竜寺城から、坂本城に向かう道程に、この地を通ったが為に、襲われてしまいます。

明智光秀を襲ったのは、通説では落ち武者狩りをしていた土民となっています。

小栗栖の地域では、この地を治めていた小栗栖城の飯田氏が襲撃したと伝わります。

 

本経寺(ほんきょうじ) 京都府京都市伏見区

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明智藪の近くに、本経寺(ほんきょうじ)があります。

本経寺には、明智光秀の供養塔が建っています。

 

明智藪は、本経寺の寺領でありました。

寺領であったがために、明智光秀の供養塔を建てたとされます。

明智藪(あけちやぶ)

住所:京都府京都市伏見区小栗栖小阪町 本教寺寺領

アクセス:市営地下鉄東西線「醍醐」下車徒歩約15分、京阪バス「小栗栖」下車徒歩約5分


本経寺(ほんきょうじ)

住所:京都市伏見区小栗栖小阪町5

アクセス:市営地下鉄東西線「醍醐」下車徒歩約15分、京阪バス「小栗栖」下車徒歩約5分

 

明智光秀の塚【胴塚】(あけちみつひでのつか)京都府京都市山科区

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明智藪から1キロ程いったところに、明智光秀の銅塚があります。

明智藪で深手を負った明智光秀が、この塚の辺りまで歩いて、力尽きたとされています。

 

息絶えた明智光秀の銅を、この地に埋めたと伝わります。

「明智軍記」では、明智藪から少し進んでから自害した、と書かれています。

この伝承のもとに、胴塚が建てられたのでしょうか。

明智光秀の塚(胴塚)

住所:京都府京都市山科区勧修寺御所内町36

アクセス:京都市営地下鉄東西線 小野駅から徒歩10分

 

明智塚(あけちづか)滋賀県大津市

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滋賀県大津市に、明智塚はあります。

この明智塚がある場所は、当時、坂本城の城内だったと推定されています。

明智塚には、様々な伝承があります。

明智一族の墓所があった場所

明智秀満(あけちひでみつ)の首を埋めた場所

明智光秀の愛刀である郷義弘(ごうのよしひろ)作・俱利伽羅郷(くりからごう)の脇差が埋まっている場所

 

この脇差についての、エピソードが残っています。

明智光秀の家臣に、明智秀満(あけちひでみつ)という人物がいました。

明智秀満は、光秀の娘婿であり、明智五家老の一人と言われ、光秀に信頼された家臣でした。

 

山崎の戦いで、明智光秀は、羽柴秀吉に敗れ、京都の小栗栖(おぐりす)で、落命しました。

その時、安土城の守備をしていた明智秀満は、急ぎ、坂本城に入り、籠城します。

羽柴秀吉の家臣・堀秀政(ほりひでまさ)は、、坂本城を包囲し、明智勢を追い込みます。

 

明智秀満は、坂本城落城によって、明智家の名刀が失われるのを恐れました。

そこで、数本の名刀を目録と一緒に、堀秀政の家臣・堀直政(ほりなおまさ)に投げ渡しました。

しかし、堀直政は、明智光秀が秘蔵していた、俱利伽羅郷の脇差が、目録にないことに気づきます。

堀直政は、そのことを明智秀満に問いただします。

 

「この俱利伽羅郷の脇差は、光秀様愛着の脇差である」

「よって、私が腰に差して、あの世で光秀様に渡すのだ」

この様な内容のことを明智秀満は、答えたと伝わります。

 

明智塚は、「触ると祟りが起こる」と、伝承があります。

その為、現在も、そのままにされており、所有地の方に、管理されています。

また、坂本城落城の6月15日には、法要が行われているとのことです。

明智塚(あけちづか)

住所:滋賀県大津市下阪本3丁目5−35

アクセス:京阪松ノ馬場駅から徒歩15分

 

西教寺(さいきょうじ) 滋賀県大津市

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滋賀県大津市坂本に明智家ゆかりの寺、西教寺があります。

1571(元亀2)年、織田信長の比叡山焼き討ちの際に、西教寺は焼失します。

明智光秀は、比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡の国主となり、坂本城を築きました。

 

その時、明智光秀は、西教寺の復興を援助したと言われています。

西教寺には、坂本城から移築したと山門や、豊臣秀吉時代の伏見城の客殿があります。

この伏見城の客殿は、大谷吉継の母が寄進したと伝わります。

 

西教寺は、明智一族の菩提寺です。

非業の死を遂げた明智光秀と明智一族は、西教寺に葬られました。

境内には、明智光秀の供養塔があります。

また、明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓もあります。

 

煕子と明智光秀の間には、有名なエピソードがあります。

明智光秀が越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕えていた時、貧しい生活を余儀なくされます。

明智光秀は、連歌会の酒宴の開催をしなくてはいけなく、開催費に困ります。

そんな明智光秀を見ていた煕子は、自分の黒髪を売ることで、費用を工面していたと言います。

 

身を削って夫の窮地を救うとは、武士の嫁としてふさわしい女性ですね。

煕子は、本能寺の変が起こる1576年の6年前に、この世を去っています。

西教寺(さいきょうじ)

住所:滋賀県大津市坂本五丁目13-1

アクセス:JR「比叡山坂本駅」からバスで10分

 

高野山・奥の院(こうやさん おくのいん) 和歌山県伊都郡

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和歌山県に真言宗の開祖、弘法大師・空海が開いた高野山があります。

弘法大師が眠る奥の院は、弟子たちにより建てられました。

奥の院は、高野山の入り口の大門より2キロ以上にわたる、広大な敷地です。

その場所に、数多くの有名な戦国大名のお墓があります。

 

織田信長や豊臣秀吉の墓、また、石田三成や徳川家康の墓もあります。

そして、明智光秀の墓もここにあります。

 

真言宗では、誰もが平等になるという教えがあります。

高野山を浄土と信じた者たちが宗派を超えて、ここに集まっているのです。

高野山・奥の院(こうやさん・おくのいん)

住所:和歌山県伊都郡高野町大字高野山550

アクセス:一の橋口バス停または奥の院口バス停

 

白山神社(はくさんじんじゃ) 岐阜県山県市

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岐阜県山県市中洞(なかほら)にある白山神社に、明智光秀の墓があります。

 

伝記では、京都の小栗栖で討たれた明智光秀は、なんと影武者だったとされます。

無事だった明智光秀は、この故郷の地まで、落ち延びていました。

明智光秀は、影武者を務めた荒木山城守行信という人物に恩を感じ、「荒深小五郎」と名乗ります。

 

名前を変え、この地にひっそりと、暮らしていたと伝わります。

その後、明智光秀は、関ヶ原の合戦が始まると、徳川家康に味方する為に、関ヶ原に駆けつけようとします。

しかし、川を馬で越えようとした時、洪水に巻き込まれ、溺死しました。

 

従者たちが明智光秀の遺品を持ち帰り、この地にお墓を建てたと言います。

また、近くには、明智光秀の産湯もあります。

白山神社(はくさんじんじゃ)

住所:岐阜県山県市中洞1020番地

アクセス:岐阜バス板取線樫瀬バス停下車徒歩約16分

 

おわりに・・・

明智光秀には、辞世の句が二つあります。

「心しらぬ人は何とも言はばいへ  身をも惜まじ名をも惜まじ」

私の本心を知らない者は、言いたいように言えばいい。

私は、命を惜しまないし、名も惜しまない。

明智軍記に記載

「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」

正しい道も逆の道も、同じ一本の道である。

正しい行いは私の心の底にある。

ようやく55年間の夢が覚めた。

私は元のところに帰るが、悔いはない

細川家譜「譜永源師檀紀年録」に記載

 

二つの辞世の句には、心の奥底に沸々と湧き上がる、何かを感じます。

正しい行いは、人や時代によって、変化したり、違ったりします。

 

自分が信じた道を歩む・・・

自分に偽りなく生きる・・・

実は、この二つの辞世の句は、後世の創作と言われています。

この句が創作だとしても、明智光秀の人柄を読み取ることができます。

 

出生から最期まで、謎が多い武将である明智光秀。

今なお、各地で様々な伝説が残っています。

 

歴史上で人気がある人物には、数多くの伝説がつきものです。

源義経しかり、織田信長しかり、坂本龍馬しかり・・・。

 

魅力ある人物は、いつの時代にも、多くの人に愛され、語り継がれています。

明智光秀がいたからこそ、日本の歴史は大きく動きました。

 

明智光秀は、歴史の転換期の主役になった一人でした。

最期は、悲劇の運命を辿る明智光秀だったが、現代もその人気は衰えません。

 

それは、明智光秀の激動の人生に、私たちが、熱い思いを感じているからです。

私もまた、明智光秀のように、自分を信じて、前に進んで行きたいと思います・・・。

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