戦国時代

明智光秀の家紋の意味とは?

1582(天正10)年、京都にて、「本能寺の変」が起こります。

首謀者は、織田信長の家臣・明智光秀でした。

織田信長は、桔梗(ききょう)の紋を見て、呟きます。

 

「是非もなし・・・」

 

明智光秀は、織田信長を討ち取りました。

しかし、羽柴秀吉により、山崎の合戦で敗北し、京都の小栗栖で命を落とします。

 

そんな明智光秀の家紋と言えば、「桔梗紋」で有名です。

明智光秀のゆかりの寺や、お墓などには、桔梗の紋が見られます。

 

なぜ、明智氏は、桔梗を家紋にしたのでしょうか。

家紋とは、一体どのような役割を持っているのでしょうか。

今回は、明智家の「桔梗紋」について調べました。

家紋(かもん)とは?

そもそも、家紋とはどのような役割を、持っているのでしょうか。

まずは、家紋の歴史を見ていきましょう。

 

奈良時代、道具や家具、器物などに、装飾目的で様々な文様が、使用されていました。

平安時代になると、貴族が各家固有の目印として、家紋を使用しだします。

平安時代後期では、公家の間において、家紋が流行しました。

 

やがて、公家のみに限らず、武家の間でも使用されることになります。

家紋は、源平合戦の頃から出現し、鎌倉時代に入ると、爆発的に普及をします。

戦場において、自分の働きを証明する物として、武士に使用されます。

 

武士が名を残す自己顕示のため、旗幕などに使用したことから、広まりました。

戦国時代に入ると、合戦が頻繁に起き、敵味方を区別するため、急激に家紋の種類が増え始めます。

 

明智光秀の明智氏にも、当然、家紋がありました。

明智光秀の家紋といえば、「桔梗紋」です。

本能寺の変の際、この桔梗紋が描かれていた旗幕が、本能寺を囲んでいたと想像できます。

 

桔梗紋(ききょうもん)の意味

 

桔梗紋は、キキョウ科の多年草である、キキョウの花・葉・茎を、図案化したものです。

 

土岐氏は、清和源氏の系統から出ています。

明智氏は、土岐氏の家系の流れを汲んでいますから、源氏になります。

土岐氏の祖と言われている土岐光衡(ときみつひら)は、平安時代に活躍した人物です。

 

土岐光衡は、鎌倉幕府誕生の時、源頼朝(みなもとよりとも)の御家人になります。

「御家人」とは、棟梁と主従関係を持った家来のことです。

土岐光衡は、美濃国土岐郡の一日市場館(ひといちばやかた)を本拠とします。

そこで「土岐」を名乗ったことが、土岐氏の始まりとされています。

 

明智氏が、桔梗を家紋にした理由

土岐光衡が合戦の時に、野原に咲いていた水色の桔梗の花を拾います。

その桔梗の花を兜の前立てに差して、戦ったところ大勝利を収めました。

土岐光衡は、桔梗の花を縁起がいいものとして、桔梗の図案を家紋としました。

 

また、桔梗の「更に吉し」という語呂に、縁起を担いだという説もあります。

戦国時代になると、家紋の色はほぼ、黒一色のでした。

しかし、明智氏の家紋は水色だったため、周りの武将たちから、ひと際目立っていました。

 

織田信長は、明智光秀の水色桔梗の紋を見て、「羨ましい」と思っていたことが、あったようです。

桔梗紋は、明智光秀以外の武将にも、使用されていました。

桔梗紋を使用していた武将は、加藤清正です。

加藤清正(かとう きよまさ)の桔梗紋

 

加藤清正は、豊臣秀吉子飼いの武将であり、数々の合戦で武功を挙げた人物です。

また、築城の名手であり、江戸城や名古屋城の築城にも関わりました。

九州の熊本城の城主になり、関ケ原の戦い後には、52万石の大大名になりました。

 

 

加藤清正の家紋と言えば、「蛇の目」が有名です。

名前の通り、蛇の目に似ていることから、この名がつきました。

加藤清正は、蛇の目の家紋以外に、もう一つの家紋も使用していました。

 

その家紋が、明智光秀も使用していた「桔梗紋」です。

なぜ、加藤清正は、桔梗紋を使用していたのでしょうか。

もともと、加藤清正の家系は、土岐氏の流れを汲んでいると言われています。

 

「美濃国諸家系譜」のなかに、加藤清正の家系図があります。

この家系図によると、土岐頼方(ときよりかた)という人物がいました。

土岐頼方は、加藤家に婿養子に入り、そこで桔梗紋と蛇の目紋を使用したと伝わります。

 

土岐頼方から加藤清正は、数えて4代目の孫になります。

加藤清正が、桔梗紋を使用した、もう一つの逸話があります。

豊臣秀吉の家臣であった讃岐(さぬき)城主・尾藤知宣(びとうとものぶ)という人物がいました。

 

尾藤知宜は、豊臣秀吉の九州討伐で失態を犯し、所領を没収されます。

加藤清正は、その時に譲り受けた武具一式を、受け継ぎました。

 

そこに桔梗紋があり、そこから桔梗紋を使用したと言われています。

土岐氏出身の加藤清正は、自分の祖先と重ねて、桔梗紋を使うことを決めたと考えられます。

 

幕末の革命児・坂本龍馬(さかもとりょうま)の桔梗紋

 

幕末の英雄であり、革命児と言われた坂本龍馬・・・。

実は、坂本龍馬の家紋も、桔梗紋でした。

坂本龍馬の家紋は、「組み合い角に桔梗紋」です。

 

 

坂本家は、明智光秀の娘婿・明智秀満(あけちひでみつ)の子孫という説が存在します。

明智軍は、山崎の戦いで羽柴秀吉によって壊滅します。

明智秀満は、その時、坂本城を脱出し、土佐国にお落ち延びました。

 

そして、名前を坂本と変え、土佐藩で、郷士となったと伝わります。

高知県の坂本家の墓所には、「丸に田の字」の家紋が描かれています。

元々は、この家紋を使用していたので、桔梗紋は代々受け継がれた紋ではないようです。

 

本家の才谷(さいたに)家から分家した坂本家は、明智家との繋がりを意識します。

分家したタイミングで、苗字を明智光秀の居城であった坂本と名乗ります。

家紋も明智氏と同じ、桔梗を使用したのではないかと言われています。

 

戦国時代に、悲劇の最期を遂げた武将・明智光秀・・・。

幕末時代に、悲劇の最期を遂げた志士・坂本龍馬・・・。

 

この二人が、同じ桔梗紋を付けていたことに、歴史のロマンを感じますね。

 

桔梗の花言葉

 

最後に、桔梗の花言葉をご紹介します。

 

桔梗の花言葉

「永遠の愛、誠実、清楚、従順、変わらぬ愛」

 

「従順、誠実」は、家臣や民に愛された明智光秀に、ぴったりな言葉ではないでしょうか。

明智光秀は織田信長の下で、任務を従順に遂行し、領民には誠実に対応していました。

 

また、一説では、側室を持たなかったとされている明智光秀・・・。

妻であった煕子(ひろこ)に対しての「変わらぬ愛」も、明智光秀にぴったりですね。

 

おわりに・・・

明智光秀が犯した行為により、桔梗の紋は、「裏切りの紋」とされてきました。

 

「勝てば官軍、負ければ賊軍」

 

明智光秀は、次の天下を獲った豊臣秀吉に敗れたことにより、賊軍となります。

豊臣政権は、明智光秀の人物像を、好きなように作り上げ、それを記録することが可能でした。

現代の私たちは、本当の明智光秀が、どのような人物だったかは、正確にはわかりません。

 

しかし、明智光秀という一人の武将が、戦国時代を必死に生き抜いていたことは、私たちに届いています。

明智光秀は、戦国時代の行く末・・・いや、日本の未来を、より良くしたいと考えていたのかもしれません。

歴史上には、未来を良くしたいと本気で思い、それに向けて、行動した人たちがいました。

 

その人たちの日本に対して「変わらぬ愛」があったからこそ、現在の平和な日本が出来上がったのです・・・。

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