戦国時代

明智光秀は天海だったのか?

通説では、明智光秀は山崎の戦いで、豊臣秀吉に敗れ、京都の小栗栖で襲われ、死去します。

実は明智光秀は、死んではいなかった!?

明智光秀は生き延びて、名前や姿を変え、別人として、暮らしていました。

 

江戸幕府を築いた、徳川家康の側近として・・・。

徳川家康の側近に、天海(てんかい)という、天台宗の僧がいました。

徳川家康は、天海を相談役や政治顧問とし、天海に絶大な信頼を持っていました。

 

天海は、徳川家康の死後も、二代目将軍・徳川秀忠(ひでただ)や、三代目将軍・徳川家光(いえみつ)の、よき相談役として活躍しました。

 

また、江戸の設計にも、大きく関わった人物とされています。

そんな天海が「実は明智光秀と同一人物ではないか」という説があります。

今回は、天海と明智光秀の関係について調べました。

 

天海とは何者なのか?

天海は高名な僧にもかかわらず、出自など前半生の詳細は、明らかになっていません。

 

天海の弟子である胤海(いんかい)が書いた「東叡山開山慈眼大師縁起(とうえいざんかいさんじげんだいしえんぎ)」があります。

 

この書物によると天海は、会津の蘆名(あしな)氏の出自で、陸奥(むつ)国(現在・福島県、岩手県、青森県)の生まれと書かれています。

 

一説には、天海は1536年(天文5)年に、会津高田(現在の美里)にある龍興寺(りゅうこうじ)で、生まれたと言います。

 

龍興寺には、天海の生誕の碑のほかに、天海の両親のお墓もあります。

 

各地を転々

天海は、会津の龍興寺にて随風(ずいふう)と名乗ります。

出家した後、下野(しもつけ)国(栃木県)にある、宇都宮で天台宗を学びました。

その後、近江の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)などで、さらに学びを深めます。

 

1571(元亀2)年、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちが行われました。

天海は、比叡山延暦寺を出て、武田信玄に招かれて、甲斐(かい)国(現在の山梨県)に移住します。

その後、蘆名盛氏(あしなもりうじ)に招かれ、会津若松(あいづわかまつ)城の稲荷堂に住居を移します。

 

会津のあとは、上野(こうずけ)国(群馬県)の長楽寺(ちょうらくじ)に入ります。

群馬県にある長楽寺は、世良田 義季(せらだよしすえ)が創建し、徳川家康により、徳川・松平の遠祖とされています。

 

長楽寺は天海により、改宗され、天台宗となります。

その後天海は、武蔵国(埼玉県)の無量寿寺(むりょうじゅじ)北院に移ります。

ここで名前を初めて、「天海」と名付けたと言います。

 

喜多院住持

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天海は、のちに無量寿寺の寺号を「喜多院(きたいん)」と改めます。

天海の足跡が明確になるのは、この喜多院に移り住んでからと、言われています。

 

この時、天海は秀吉の北条攻めの際、徳川家康の陣におり、家康のために関東に移ったとされています。

1599(慶長4)年、天海は無量寿寺北院(喜多院)の住職になります。

 

また、徳川家康の参謀となり、朝廷との交渉などを任されます。

現在、喜多院では、江戸城から移築された、「三代将軍家光の誕生の間」や「春日局の化粧の間」が一般公開されています。

 

喜多院(きたいん)

住所:埼玉県川越市小仙波町1-20-1

アクセス:西武新宿線本川越駅から徒歩で10分

 

方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)

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1607(慶長12)年には、比叡山の探題執行を命じられ、南光坊(なんこうぼう)に住み、延暦寺の再興に関わりました。

 

1614(慶長19)年に「方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)」が起きます。

この方広寺鐘銘事件に天海は、大きく関わっていたと言われています。

京都市東山区に、方広寺(ほうこうじ)という寺があります。

 

方広寺は、かつて豊臣秀吉が造った大仏殿があり、その境内には、梵鐘(ぼんしょう)がありました。

しかし、1596(文禄5)年、慶長伏見地震により破壊されてしまいます。

1608(慶長13)年には、徳川家康が豊臣家に対し、方広寺大仏殿の再建を勧めています。

 

1614(慶長19)年に、豊臣家により、京都の方広寺大仏殿は完成し、4月には梵鐘が完成しました。

豊臣家の総奉行の片桐且元(かたぎりかつもと)は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓(ぶんえいせいかん)に選定させています。

片桐且元は、徳川家康へ大仏開眼供養の日時などの予定を、取り決めようとしていました。

 

しかし、梵鐘に書かれた銘文の内容に問題があるとして大仏開眼供養の延期を命じます。

徳川家康は、文英清韓が書いた鐘銘文を林羅山(はやしらざん)に解読させました。

問題になった項目と合わせて、二人の解釈を見ていきましょう。

 

「右僕射源朝臣家康」(うぼくや みなもとのあそん いえやす)

「源朝臣家康」とは、徳川家康の正式名称です。

【林羅山の意見】

「右僕射」を「射る」という意味で、「家康を射る」とは何事か。

【文英清韓の意見】

「右僕射」は唐名では、右大臣のこである。

豊臣秀頼も右大臣なので、間違わないように唐名で書いた。

「国家安康」(こっか あんこう)

【林羅山の意見】

徳川家康の諱(下の名前)を使用することは失礼極まりない。。

さらに、家康の二文字を真ん中で切るのは、言語道断である。

【文英清韓の意見】

国家安康というのは、家康の字を隠し題に入れて縁語にしている。

名前を分けることは、縁語ではよくあり、家康の名を尊重するためである。

「国が平かに安定し康らかに治まる」という意味。

「君臣豊楽」(くんしん ほうらく)

【林羅山】

「豊臣を君主と仰ぎ、栄えて楽しむ」という下心がある。

徳川家を呪い、災いをもたらすものである。

【文英清韓】

これも豊臣を隠し題にしたものである。

この例も昔からあるものである。

「君主から家臣まで豊かに過ごし暮らし楽しむ」という意味。

 

この事件は豊臣家を攻撃する理由として、徳川家康が画策して、問題視させたとされています。

 

また、この言いがかりは、以心崇伝(いしんすうでん)と天海の策略だとも言われています。

方広寺鐘銘事件がきっかけで、片桐且元の豊臣家改易に繋がり、その結果、大坂の陣が勃発しました。

 

方広寺(ほうこうじ)

住所:京都府京都市東山区茶屋町527-2

アクセス:京阪電車「七条駅」から徒歩8分

天海VS以心崇伝(いしんすうでん)

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1616(元和2)年、危篤となった徳川家康は、神号や葬儀に関する遺言を天海に託します。

徳川家康が死去すると、以心崇伝の助言により、古来よりの吉田神道主導で久能山に埋葬されました。

以心崇伝は、天海と並ぶ徳川家康のブレーンであり、相談役をしていました。

 

徳川家康の神格化も以心崇伝により、吉田神道で行われると考えていましたが、天海が異論を唱えます。

徳川家康の神号を巡り、天海と以心崇伝は、争うことになります。

 

天海と以心崇伝の対立

・天海は「権現」として、自らの宗教である山王一実新道(さんのういちじつしんどう)で祭ることを主張します。

・以心崇伝は「明神」として、古来よりの吉田新道で祭ることを主張します。

 

天海は、豊臣氏滅亡を考えると、「明神」は不吉であると提言します。

豊臣秀吉が「豊国大明神(とよくにだいみょうじん」の神号が贈られていた為です。

 

それを聞いた徳川秀忠は、家康の神号を「東照大権現(とうしょうだいごんげん」と決定します。

その結果、徳川家康の遺体は久能山から、日光山に改装しました。

その後、徳川家康の墓所には、東照宮が建立されます。

 

これにより、徳川家康は日光においては、「天皇と同等かそれ以上の神霊」として、祀られることになりました。

その後、天海は、東照大権現の由来を記した「東照大権現縁起(とうしょうだいごんげんえんぎ」を編纂しました。

 

その後・・・

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1624(寛永元)年、天海は、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野に、寛永寺を建立しました。

江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想します。

 

また、紫衣(しえ)事件で罪を受けた者の、特赦を願い出たりもします。

このことにより、輪王寺宮が特赦を願い出る慣例の、元となったといいます。

 

1648(慶安元)年、天海が着手した「寛永寺版・天海版大蔵経(だいぞうきょう)」が、幕府の支援により完成しました。

天海によるこれらの経典の出版は、日本の印刷文化史上、最も重要な業績の一つと言われています。

 

経典(けいてん)とは、仏の教えを書き留めた書物であります。

仏教には、その数3千ともいわれる大量の経典があります。

大蔵経とは、それらの仏教聖典を総集したものです。

 

天海は、1643(寛永20)年に死去し、108歳まで生きたと言います。

死去から5年後に、朝廷から「慈眼大師(じげんだいし)」の諡号(しごう)を追贈されました。

 

明智光秀は生きていた!?

果たして、明智光秀は、天海と同一人物なのでしょうか。

定説では、明智光秀は、豊臣秀吉に山崎の戦いで敗れ、山崎の地から坂本城に向かいます。

その途中で、京都の小栗栖(おぐるす)の藪で、土民の落ち武者狩りに遭遇し、命を落としました。

 

もし、明智光秀が天海なら、小栗栖では、死んでいないことになります。

明智光秀は、落ち延びて生きていたという伝承が、各地に残っています。

 

専修院(せんしゅういん) 京都府宇治市

 

 

京都府宇治市に、専修院(せんしゅういん)はあります。

この専修院には、明智光秀についての伝承が残っています。

明智光秀は山崎から巨椋池(おぐらいけ)を渡り、専修院にたどり着きます。

 

明智光秀は、専修院の境内にある竹藪の中に身を潜めていたと言います。

明智光秀が隠れていたの発見した専修院の住職は、敵兵には知らせず、明智光秀を助けました。

明智光秀は、見逃してくれた住職に感謝をします。

 

住職に「歯痛や発熱の際には治療をする」と告げて、明智光秀は去って行ったと伝わります。

近年、熊本藩の家老・米田家に伝来した「米田文書(こめだぶんしょ)」という古文書が発見されました。

 

この「米田文書」には明智光秀に、医学の知識があったことが書かれています。

明智光秀は、医学の知識を使って、お礼をするつもりだったのかもしれません。

 

専修院(せんしゅういん)

住所:京都府宇治市宇治二番81

アクセス:JR奈良線 宇治駅から徒歩10分

 

神明皇大神宮/神明神社(しんめいこうたいじんぐう/しんめいじんじゃ) 京都府宇治市

 

京都府宇治市に、神明皇大神宮(しんめいこうたいじんぐう)はあります。

神明皇大神宮は、三重県の伊勢神宮と深い関わりがある神社です。

境内には、神明造りの社殿があり、伊勢の内宮と外宮を勧請(かんじょう)しています。

 

明智光秀は山崎の戦い後、山科(やましな)に逃れる途中に、神明皇大神宮に身を潜めたと言います。

神明皇大神宮の境内には、明智光秀が隠れたとされる藻隠池・藻隠井戸があります。

 

神明皇大神宮/神明神社(しんめいこうたいじんぐう/しんめいじんじゃ)

住所:京都府宇治市宇治神明宮西35

アクセス:近鉄大久保駅から宇治バスで10分(神明下車)

 

妙心寺(みょうしんじ) 京都府京都市

 

京都府京都市に、妙心寺(みょうしんじ)はあります。

妙心寺では、小栗栖(おぐりす)で負傷した、明智光秀が潜伏していたと伝わります。

 

また、明智光秀は本能寺の変を起こした後にも、妙心寺に参拝していたとも言われています。

「和泉伝承誌」には、山崎の戦いの後、明智光秀が妙心寺に姿を現し、その後、和泉に向かったと書かれています。

 

妙心寺の本堂には、明智光秀の位牌が置かれています。

また、重要文化財に指定されている「明智風呂」と呼ばれるお風呂があります。

大嶺院の密宗(みっそう)和尚は、明智光秀の叔父と言われています。

 

密宗和尚が1587(天正15)年に明智光秀の菩提を弔うために、明智風呂を創建したと言われています。

一説では、汚名を洗い流すということで、明智風呂を建てとされています。

 

妙心寺(みょうしんじ)

住所:京都府京都市右京区花園妙心寺町1

アクセス:JR嵯峨野線花園駅から徒歩で10分

 

本徳寺(ほんとくじ) 大阪府岸和田市

 

大阪岸和田市に、本徳寺(ほんとくじ)はあります。

本徳寺は、元々、鳥羽村(大阪府貝塚市)にあり、「海雲寺(かいうんじ)」という名称でした。

その後、本徳寺と改め、現在の場所に移転します。

 

寺を開基した南国梵桂(なんごく ぼんけい)は、明智光秀の嫡男・明智光慶(みつよし)だと言われています。

南国梵桂が描かせた明智光秀の肖像画は、本徳寺に今なお存在します。

この肖像画には「放下般舟三昧去」の一文が書かれています。

 

この意味は、「仏門に入り、修行をして、去って行った」

すなわち、明智光秀は、本徳寺で僧侶になって、修業をして、出て行ったことになります。

さらに、肖像画には「輝雲道琇禅定門肖像賛」との文字があります。

 

また、明智光秀の位牌と言われているものがあり、位牌の戒名は「鳳岳院殿輝雲道琇大禅定門」と書かれています。

この二つの文には「輝」・「琇」の文字があり、その文字の中に「光秀」という名前が隠されています。

位牌の裏には、「当寺開基慶長四己亥」と書かれています。

 

これは、1559年(慶長4)年に本徳寺を開基したという意味です。

位牌に記されていることで、本徳寺を開基したのは、明智光秀ではないかとされています。

また、慶長4年には、まだ明智光秀が生きていたという証になるとされています。

 

1582年に山崎の戦いが起こったので、その16年後に、明智光秀は本徳寺を開いたことになります。

豊臣秀吉の本拠地である大阪に、16年も潜伏していたことは、考えにくいですが・・・。

まさに「灯台下暗し」と言ったところでしょうか。

 

また、貝塚市の鳥羽にあった海雲寺が、開基する前に「大日庵(だいにちあん)」という庵がありました。

鳥羽の民謡に、大日庵に明智光秀が亡命し、隠棲したという言い伝えの民謡が残っています。

 

「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」

明智光秀の通称は十兵衛でした。

妻の煕子(ひろこ)は、自分の髪を売って、お金を工面したというエピソードがあります。

 

本徳寺(ほんとくじ)

住所:大阪府岸和田市五軒屋町

アクセス:南海本線岸和田駅から徒歩で8分

 

光秀寺(こうしゅうじ) 大阪府高石市

 

大阪府高石市に、光秀寺(こうしゅうじ)はあります。

幕府管領の細川晴元(はるもと)の側近に、三好宗三(みよしそうさん)【三好長政】がいました。

 

三好宗三は、当時、和泉に勢力を持っていました。

その時、三好宗三の弟(または長男)である三好長円という人物が、和泉大津市に、蓮正寺(れんしょうじ)を建てました。

 

蓮正寺の境内に仁海上人が助松(すけまつ)庵を建立し、そこに明智光秀が隠棲したと伝承されています。

助松庵が現在の光秀寺の地に移転したと伝わり、境内には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれた石碑があります。

 

「和泉伝承志」によると、京都の小栗栖で死んだ明智光秀は、影武者だったと書かれています。

生き延びた明智光秀は、京都の妙心寺に逃げ込み、自害しようとします。

しかし、明智光秀は、自害を諫められ、和泉貝塚に向かったと書かれています。

 

また、大阪府堺市にある丈六墓地(じょうろくぼち)には、1943(昭和18)年頃まで加護灯籠を掲げ、明智光秀の追善供養をしていました。

泉大津市の豊中では、時期は不明ですが、明智光秀が徳政令を約束し、町民が感謝を表す供養を行っていたとされています。

現在では、その供養は行われていません。

 

光秀寺(こうしゅうじ)

住所:大阪府高石市千代田5-4-23

アクセス:南海本線高石駅から徒歩で6分

 

比叡山・長寿院(ひえいざん・ちょうじゅいん) 滋賀県大津市

 

比叡山・飯室谷(いむろだに)不動堂の境内に、長寿院(ちょうじゅいん)はあります。

場所は、明智家の菩提寺である西教寺から、2キロほど行ったところです。

 

長寿院は、飯室谷不動堂の塔頭(たっちゅう)【小院や庵のこと】の一つでした。

現在は庫裏(くり)【寺院の台所】として使用されています。

現在は、一般公開はしていないようです。

 

明智光秀は、長寿院で仏門に入り、仏教を学んだとされています。

比叡山の叡山文庫には、俗名を「光秀」といった僧の記録があります。

 

長寿院には、「光秀」の名前で寄進された石灯籠が存在します。

寄進された日付は、1615(慶長20)年の2月です。

1615年は、豊臣家と徳川家の最期の戦いである「大坂・夏の陣」が起きた年です。

 

明智光秀の敵であった豊臣家が滅びたことへの何かのメッセージでしょうか・・・。

織田信長の命令で明智光秀は、比叡山を焼き討ちしました。

 

明智光秀は、今までの人生を振り返り、比叡山で出家します。

長寿院の院主になった明智光秀は、過去の思いを込めて、石灯籠を寄進したのではないでしょうか。

 

比叡山・長寿院(ひえいざん・ちょうじゅいん)

住所: 滋賀県大津市坂本本町4299

アクセス:坂本比叡坂本駅から車で15分

 

白山神社(はくさんじんじゃ) 岐阜県山県市

岐阜県山県市中洞(なかほら)に、白山神社(はくさんじんじゃ)はあります。

白山神社には、明智光秀が落ち延びたという言い伝えがあります。

また、明智光秀のお墓もあります。

 

詳しくはこちら

【岐阜県】明智光秀ゆかりの地【生誕地】

続きを見る

 

明智光秀と天海の共通点

明智光秀と天海は、果たして同一人物なのでしょうか。

残念ながら、決定的な証拠は存在しません。

 

しかし、明智光秀と天海が同一人物と言われる、憶測や逸話があります。

ここでは、逸話や関係性、二人の共通点を見ていきたいと思います。

 

明智平(あけちだいら)の命名

栃木県日光市に、明智平(あけちだいら)と呼ばれる区域があります。

明智平は、日光の観光地として有名な場所であり、日光を一望することができます。

 

この明智平は、天海が名付けたという伝承が残っています。

天海は知人に、「明智の名を残すためにつけた」と語った、という逸話があります。

 

徳川家の乳母(うば)

徳川三代将軍・徳川家光(いえみつ)には、乳母がいました。

乳母とは、母親の代わりに子育てをする人です。

その乳母は、斎藤利三(さいとうとしみつ)の子である、斎藤福(ふく)【のちの春日局】でした。

 

斎藤利三といえば、明智光秀が最も信頼を置いた家臣の一人です。

春日局(かすがのつぼね)は、江戸城に大奥の基盤を築き上げた人物です。

 

また、四代将軍・徳川家綱(いえつな)にも乳母がいました。

乳母の名前は、三沢局(みさわのつぼね)と言い、溝尾茂朝(みぞおしげとも)の孫でした。

溝尾茂朝も、明智光秀が自分の介錯を頼むほど、信頼する家臣の一人でした。

 

京極(きょうごく)家と筒井(つつい)家の待遇

京極家は、山崎の戦いで、明智側に味方しました。

のちの関ヶ原の戦いが起きた際には、西軍に降伏しました。

 

しかし、戦後、徳川家康により、領地を加増されています。

一方で、筒井家は山崎の戦いの時、明智光秀の寄騎でありながらも、明智光秀に敵対しました。

 

筒井家は、1608(慶長13)年に、改易されてしまいます。

徳川家康の近くで、天海が助言していたのでしょうか・・・。

 

津田(織田)昌澄(つだまさずみ)の助命

津田昌澄(つだまさずみ)の両親は、父は津田信澄(つだのぶずみ)、母は明智光秀の四女です。

津田昌澄は、明智光秀の孫にあたります。

父の津田信澄は、織田信長に信頼されていた家臣でした。

 

本能寺の変が起きた時、明智光秀の娘婿である津田信澄は命を狙われます。

「明智光秀と共謀して、本能寺の変を起こした」と噂が広まります。

その噂を聞いた、織田信孝と丹羽長秀によって、津田信澄は襲撃され、命を落としています。

 

その息子である津田昌澄は、大坂の陣で豊臣側にて、参戦していました。

しかし、戦後、なぜか徳川家康により、助命されています。

その後、徳川秀忠(ひでただ)に旗本として、召し抱えられ、2千石を与えられています。

 

地蔵菩薩の信奉

明智光秀と天海は、地蔵菩薩を信奉していました。

 

京都府京都市にある蘆山寺(ろざんじ)に、明智光秀が所持していた念持仏があります。

明智光秀は、毎日、この地蔵菩薩を礼拝していたとされています。

蘆山寺と明智光秀には、過去に接点がありました。

 

織田信長が比叡山焼き討ちをした際、同系の天台宗の寺院である蘆山寺も焼き討ちの対象とされます。

当時の天皇である正親町天皇は、明智光秀に取り次いで、焼き討ちを免除してもらいます。

この時の手紙は、蘆山寺に保管されています。

 

東京都中央区の八重洲にある日本橋西河岸地蔵寺(にほんばしにしがしじぞうでら)に、天海の持仏が祀られています。

1718(享保3)年に、西河岸町に仏堂が建てられ、天海の持仏の地蔵菩薩を安置しました。

 

この地蔵菩薩は、日限地蔵と呼ばれ、祈願すると寿命が延びるとし、延命の祈願寺として古くから信仰を集めました。

建立された当初は、正徳院(しょうとくいん)と呼ばれており、天皇が拝謁する格式の高い寺でした。

その後、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)や関東大震災、戦争などで移り変わり、現在に至っています。

 

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の桔梗の紋

栃木県日光市にある日光東照宮は、徳川家康を祀る神社です。

天海は徳川家康を日光に祀り、東照宮の造営をし、日光山を繁栄させた功績があります。

日光東照宮に、桔梗紋が隠されている場所があると言います。

 

明智光秀の家紋は、桔梗紋を使用していました。

日光東照宮にある陽明門(ようめいもん)の門衛の袴の紋が、桔梗であると言われています。

また、鐘楼の壁紙などにも桔梗の紋が、ちりばめられています。

 

これは、明智光秀と天海との関係が、深く示されているとの説があります。

しかし、現在では、この紋は桔梗紋ではないと言われています。

 

慈眼寺(じげんじ)の名称

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京都市右京区の周山に、慈眼寺(じげんじ)はあります。

明智光秀が築城した周山(しゅうざん)城のふもとに、慈眼寺はあります。

慈眼寺には、明智光秀の木座像と位牌が安置されています。

 

その木座像は、なぜか、真っ黒に塗りつぶされています。

一説には、村民は、逆名の汚名を被った明智光秀を慕っていました。

明智光秀の木座像を守りたいと、村民は考えます。

 

人目につかないように木座像を、黒く塗りつぶしたと伝えられます。

明智光秀の木座像は元々、明智光秀が周山城近くに建立した「密厳寺(みつごんじ)」にありました。

近年、密厳寺は廃寺になり、木座像は慈眼寺に移されました。

 

天海の諡号(しごう)は慈眼大師です。

諡号とは・・・貴人・僧侶などに、死後、生前の行いを尊んで贈る名。

慈眼大師の諡号は、天海の死後、朝廷から贈られました。

 

天海の諡号と同名の寺であり、明智光秀の木座像がある・・・。

慈眼寺は、二人が何か関係性をもった寺なのでしょうか。

 

慈眼寺(じげんじ)

住所:京都府京都市右京区京北周山町4

アクセス:京都駅からJRバスで終点周山下車(約85分) 周山から慈眼寺まで徒歩で5分

 

天海のお墓

天海は、1643(寛永20)年、上野寛永寺の子院、本覚院で死去します。

天海の遺言により、日光山に葬られました。

108歳まで生きたと言われています。

 

天海のお墓は全国に3カ所あります。

ここでは、天海のお墓を紹介します。

 

慈眼堂(じげんどう) 栃木県日光市

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慈眼堂は、日光山にある輪王寺(りんのうじ)の境内にあります。

天海の遺言により、日光山に葬られました。

三代将軍の徳川家光が眠る【大猷院(たいゆういん)】の隣に、ひっそりと佇んでいます。

 

慈眼堂(じげんどう)

住所:栃木県日光市山内2300

アクセス:東武日光駅より東武バスで5分

 

慈眼堂(じげんどう) 埼玉県川越市

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埼玉県川越市の喜多院にも、天海を祀る慈眼堂があります。

徳川家光の命により、慈眼堂は建てられます。

慈眼堂の中には、天海の木像が安置されています。

 

慈眼堂(じげんどう)

住所:埼玉県川越市小仙波町1-20-1

アクセス:西武新宿線本川越駅から徒歩で10分

 

慈眼堂(じげんどう) 滋賀県大津市

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滋賀県大津市坂本にも、慈眼堂はあります。

天海は、比叡山の南光坊(なんこうぼう)に住んでいた時期がありました。

比叡山が焼き討ちされた後、天海は、比叡山の復興に尽力しました。

 

こちらの慈眼寺も、徳川家光の命で、建てられました。

坂本といえば、明智光秀の坂本城があった場所でした。

明智光秀と天海は何か繋がりがあるのでしょうか・・・。

 

慈眼堂(じげんどう)

住所:滋賀県大津市坂本4−6−1

アクセス:京阪電鉄/石山坂本線 坂本比叡山口駅から徒歩で 10分

 

おわりに・・・。

今回、明智光秀と天海の共通点を紹介してきました。

二人の共通点に関しては、偶然が重なっていたり、こじつけの部分もあるかもしれません。

明智光秀も天海も、謎が多い人物だけに、逸話がたくさん出てきます。

 

天海が明智光秀と同一人物ではないとしても、明智家と関係が深い人物の可能性はないとも言い切れません。

明智光秀が天海と称し、徳川家康に近づいて、豊臣家を滅ぼす・・・。

「自分の仇は自分で獲る」というストーリーなら、おもしろいですよね。

 

このような説が生まれるのは、やはり、明智光秀が魅力的な人物だったからこそでしょう。

私もまた、天海の史跡を巡り、この目で真実を確かめていきたいと思います。

-戦国時代

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