週刊少年ジャンプで連載していた人気漫画「鬼滅の刃」。
鬼滅の刃は、2020年5月18日発売の週刊少年ジャンプ24号にて、最終回を迎えました。
(うめたろうは、コミックス派なので、まだ最終回は読んでいません・・・。)
単行本(1~20巻)は、累計6000万部を突破し、今年の10月には、映画化も決定しています。
連載は終了しましたが、まだまだ、鬼滅の刃の人気は衰えません。
最近の漫画の流れでは、珍しく、終了したのが早かったので、ファンは寂しいですね。
うめたろうが少年の頃、読んでいた漫画は、比較的短い作品が多かったです。
最近の漫画は、キャラの過去や背景を丁寧に表現している分、どうしても長くなっています。
もちろんファンは、連載が長く続く方が嬉しいですけどね。
でも、あまりに連載が長すぎると、当時少年だった人が、結構な大人になっている状態になります。
少年のまま・・・、せめて青年時には終わってほしい・・・。
うめたろうが、高校生の時に連載が開始したワンピースや名探偵コナンはまだ、連載中です。
こちらはもう、おじさんになってますよ・・・。
今、鬼滅の刃を読んでいる少年は、少年のままで連載が終了して、うらやましい限りです。
そんな鬼滅の刃の時代設定は、大正時代です。
今回は、鬼滅の刃に登場する大正時代の疑問にお答えします。
鬼滅の刃の時代設定である大正時代に関して、気になる部分を考察しました。
目次
1.鬼滅の刃の時代設定である、大正時代はどんな時代?
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Q. 鬼滅の刃の時代設定である、大正時代はどんな時代?
A. 欧米文化を取り入れ、近代国家への道を進もうとした時代でした。
鬼滅の刃の物語は、大正時代から始まります。
第6話で登場した手鬼(ておに)のセリフから考察すると、大正元年~大正4年の出来事です。
歴史を題材にした漫画は、数々の有名な作品があります。
漫画「センゴク」の時代設定
戦国時代
漫画「バカボンド」の時代設定
戦国時代~江戸時代
漫画「JIN~仁~」の時代設定
江戸末期(幕末)
漫画「るろうに剣心」の時代設定
明治時代初期
漫画「ゴールデンカムイ」の時代設定
明治時代後期
鬼滅の刃の大正時代というのは、上記の作品の時代より後の時代になります。
江戸時代や明治時代は、なんとなく想像できる人は多いですよね。
でも、大正時代がどんな時代なのか、パッと想像できる人は少ないと思います。
それもそのはず、大正時代は、日本史の時代区分で一番短く、たったの15年間しかなかったのです。
1912年(大正元年)7月30日
↓(15年間)
1926年(大正15年)12月25日
江戸時代の徳川政権が滅亡し、それと同時に、武士の世が終わりを告げました。
明治時代となった日本は、文明開化を叫び、西洋の文化を取り入れ、近代国家を目指します。
明治後期には日露戦争に勝利し、日本は世界の列強国と、肩を並べるほどの国となります。
資本主義の成長のもと、国民にも自由な思想が広まり、「大正ロマン」と呼ばれる文化が誕生しました。
日本の「和」の文化と欧米の「洋」の文化を組み合わせた、和洋折衷(わようせっちゅう)の文化も流行します。
昭和の戦前はダークなイメージですが、大正時代は違います。
国民にも新しい国作りの意識があり、近代国家を突き進もうとしていた明るい時代でした。
大正時代では洋食が流行り、人々はカレーライスやとんかつを食べていました。
鬼滅の刃の大正時代では、鬼が人間を食べていましたが・・・。
リアルな大正時代を、詳しく知りたい方はこちらの記事
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【鬼滅の刃】大正時代はどんな時代?
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2.大正時代に刀を持ち歩いても大丈夫だったの?
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Q. 大正時代に刀を持ち歩いても大丈夫だったの?
A. 明治時代から、刀を所持するのは禁止です。
1876(明治9)年に、政府から「廃刀令(はいとうれい)」が出されます。
廃刀令により、軍人や警察が制服を着用する場合以外に、刀を所持することは禁じられました。
明治政府は、武士階級の廃止や俸禄制度などを廃止し、新たな政策を次々に作りだします。
明治政府によって、武士の世は終わりました。
明治政府の政策に反対していた、生き残りの武士たちが、まだ地方で暮らしていました。
武士たちは、西郷隆盛を大将と担ぎ上げ、西南戦争を起こしますが、明治政府によって滅亡します。
西郷隆盛は、「ラストサムライ」と言われ、最後の武士として後世に語り継がれます。
鬼滅の刃の大正時代は、廃刀令が出されてから、35年程経過しているので、帯刀は許されません。
鬼滅の刃の第54話では、炭治郎たちが刀を所持しているのを駅員に発見され、注意を受ける場面がありました。
炭治郎が所属する鬼殺隊は、政府から正式に認められていない組織です。
非公認の組織なので、公の場で刀を所持するのは許されません。
3.大正時代に刀鍛冶はいたの?
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Q. 大正時代に刀鍛冶はいたの?
A. 刀鍛冶はいましたが、極端に減りました。
炭治郎は、鬼との激しい戦いのなかで、刀が折れたり、刃こぼれを頻繁にします。
そのたびに、刀鍛冶の鋼鐵塚(はがねづか)さんが、新しい刀を作ってくれました。
気性が荒い鋼鐵塚さんは、炭治郎に「刀を折ったら殺す」と言って、炭治郎に襲いかかる場面がありますね。
実際の大正時代に刀鍛冶は、まだ実在していたのでしょうか・・・。
明治の廃刀令により、一般人は刀を所持できなくなり、刀の需要は大幅に減少します。
需要が減ったことにより、明治6年以降に作られた刀の作品は、ほとんど存在しません。
明治6年以降の刀があったとしても、お守りの短刀や、神社などの注文による特別な刀だけでした。
明治以降、廃業を余儀なくされた刀鍛冶は、農具や大工道具などにの職人に転職しています。
大正期から昭和初期にかけての刀も、衰退の一途をたどり、今では目にすることは少ないです。
しかし、昭和の時代になると、日中戦争、太平洋戦争と戦争が相次ぎ、軍刀の需要が高まりました。
このように刀は、戦争の道具として、再び、日の目を浴びるのです。
鬼滅の刃の第100話に、「刀鍛冶の里」が登場します。
刀鍛冶の里は、鬼殺隊の刀を作るため重要な場所です。
そのため、鬼に見つからないように、厳重に隠されています。
この時代、刀鍛冶は貴重な存在であり、優秀な人材は、里に匿う必要がありますね。
刀鍛冶は、刀が頻繁に使用された戦国時代や江戸時代には、名刀をたくさん生み出したでしょう。
4.大正時代はまだ着物を着ていたの?
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Q. 大正時代はまだ着物を着ていたの?
A. ほとんどの人が、着物を着ていました。
炭治郎や柱(はしら)は、隊服を着ることが多いので、私服での登場は、ほとんどありません。
炭治郎の妹・禰豆子(ねずこ)は、ピンクの麻の葉模様の着物を着ています。
また、医者であり、炭治郎の援助をする珠代(たまよ)も、いつも着物ですね。
浅草の街に炭治郎が訪れた時、町の人々の大半が、着物を着ている描写があります。
大正元年~大正4年は、まだ男女ともに、着物を着るのが一般的でした。
江戸から明治になると、華族(かぞく)などの上流階級が現れ、次第に洋服が定着していきます。
洋服は、西洋の外国人と交渉をするとき、交渉を有利にすると言われていました。
次第に日本国内でも洋服が作られるようになり、外出着や礼服なでの場面で着用されます。
大正時代には、「モダンガール」や「モダンボーイ」と称された、欧米風のファッションが誕生します。
しかし、洋服は高価なものであり、一般家庭の日常では、ほとんどの人が和服の着物を着ていました。
大正時代の女学生の間で、行灯袴(あんどんばかま)が流行します。(漫画「はいからさんが通る」のスタイル)
では、着物はいつまで着ていたのでしょうか。
大正12年に関東大震災が起こり、東京を中心とした関東地方は、甚大な被害を受け、多くの死傷者を出しました。
震災時に、動きづらい着物を着ていた女性の被害が多かったと言います。
この関東大震災をきっかけに女性の服装は、欧米化が進むことになりました。
ちなみに男性は、珠代と共に行動している愈史郎(ゆしろう)のようなスタイルが流行ります。
シャツの上に着物を着る、和洋折衷の着こなしが流行しました。
5.大正時代はどこの町が栄えていたの?
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Q. 大正時代はどこの町が栄えていたの?
A. 主に東京の浅草・上野・銀座が栄えていました。
炭治郎が鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)と、遭遇したのは浅草でした。
炭治郎は浅草の町を見て、あまりの都会振りに驚愕します。
山育ちの炭治郎からすると、浅草の繁華街は衝撃的だったのです。
明治11年~昭和7年まで、東京府東京市にある区の構成は、現在の23区より少ない15区でした。
浅草の繁華街は、江戸から明治、大正にかけて、長らく栄えていました。
1920(大正9)年、浅草区の人口密度は、東京市の15区内で最大であると記録があります。
浅草の敷地は、7つの区画に分けられ、なかでも6区は繁華街として、全国的にも有名でした。
見世物小屋や芝居小屋、演芸小屋や映画館などが立ち並び、街は年中、賑わいを見せていました。
浅草には「凌雲閣(りょううんかく)」という、町のシンボルがありました。
凌雲閣は、赤レンガ造りの12階の展望塔であり、それを見たさに、多くの観光客が訪れました。
現在の繁華街の代表である新宿や渋谷は、市街化を進めていましたが、まだ大都市ではありませんでした。
関東大震災が起きた後に、世田谷や目黒、中野や杉並に人口が増え、その影響により町は発展を遂げました。
6.大正時代には蒸気機関車はあったのか?
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Q. 大正時代には、蒸気機関車はあったのか?
A. 明治時代からありました。
鬼滅の刃の無限列車編で、蒸気機関車が登場します。
山育ちの炭治郎は、初めて見る蒸気機関車に興奮していました。
伊之助にいたっては、蒸気機関車を「山の主」と思い、なぜかタックルしていました・・・(笑)
炭治郎や伊之助、炎柱である煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)は、無限列車と呼ばれる蒸気機関車で、鬼と戦います。
十二鬼月の一人、下弦の壱の・魘夢(げんむ)と、激しい戦闘を繰り広げます。
1872年(明治5)年、日本の鉄道が開業し、この時の蒸気機関車は、全てイギリス製の車両でした。
1893(明治26)年に、日本初の国産蒸気機関車が製造されます。
大正時代に入ると、日本で独自に設計したオリジナルの蒸気機関車が登場しました。
蒸気機関車は、国内の民間メーカーで生産されるようになり、町には国産化の列車が普及しました。
漫画に登場する無限列車は、大正時代に普及した「8620型の蒸気機関車」と言われています。
蒸気機関車には、各列車に番号が振り分けられています。
鬼の魘夢(げんむ)が乗っ取った蒸気機関車には、番号の部分が「無限」になっていました。
そのため、その蒸気機関車は「無限列車」と呼ばれています。
夢を操る魘夢(げんむ)が乗る無限列車の無限は、「無限」と「夢幻」を掛けているのでしょうか。
後年、蒸気機関車は電化やディーゼル化に伴い、「動力近代化計画」により、徐々に姿を消していきました。
7.大正時代に遊郭はあったのか?
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Q. 大正時代に遊郭はあったのか?
A. 大正時代にもありました。
十二鬼月の上弦の陸・堕姫(だき)は、吉原(よしわら)遊郭に潜んで、人間を喰っていました。
炭治郎、伊之助、善逸が女装をして、遊郭に忍び込みましたね。
遊郭は江戸時代のイメージが強いですが、明治・大正・昭和の中期まで存在しました。
1872年(明治5)年、明治政府は、芸娼妓解放令(げいしょうぎかいほうれい)を発令します。
芸娼妓解放令とは、強制的な人身売買の制度や、公娼(=公的に許可がある娼婦)制度を、大規模に制限する法令です。
これにより、借金で縛られた住み込みの遊女たちは、妓楼(ぎろう)から解放されることになります。
この法令は、売春自体は禁止ではなかったので、私娼(=公的に許可がない娼婦)になる遊女もいました。
遊郭は法令が出た後も、実態はほとんど変わらず、貸座敷と名称を変え、営業を続けます。
ただし、都市化の進展と共に、郊外などへ移転させられることもありました。
太平洋戦争後、1946(昭和21)年に、公娼制度は廃止されます。
しかし、カフェーや料亭など看板を変え、通称赤線と呼ばれ、小規模ながら営業を続けました。
1957(昭和32)年に売春防止法が成立し、遊郭の歴史は幕を閉じました。
8.大正時代の子供の平均身長は?
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Q. 大正時代の子供の平均身長は?
A. 15歳の平均身長は153cmです。
鬼滅の刃の公式ガイドブックに、各キャラクターの身長が掲載されています。
主人公の炭治郎の年齢は、13歳から物語が始まり、経過していく中で15歳になっています。
鬼滅の刃の公式ガイドブックによると、炭治郎の身長は165cmです。
大正時代15歳男子の、平均身長を見てみましょう。
大正時代の平均身長 15歳の男子の場合
1912(大正元年) | 153.3cm |
1913(大正2年) | 153.6cm |
1914(大正3年) | 153.3cm |
1915(大正4年) | 153.6cm |
政府統計の総合窓口(e-Stat)調べ
大正時代15歳男子の平均身長と比べて、炭治郎の身長は、平均より12cm高いです。
大正時代の人から見たら、炭治郎は恵まれた体格と言えるでしょう。
ちなみに、2015(平成27)年の15歳男子の平均身長は、168.3cmです。
炭治郎は、現代の15歳男子と同じぐらいの身長です。
禰豆子(ねずこ)は、12歳から物語が始まり、経過していく中で、14歳になっています。
鬼滅の刃の公式ガイドブックによると、禰豆子の身長は153cmです。
大正時代14歳女子の、平均身長を見てみましょう。
大正時代の平均身長 14歳の女子の場合
1912(大正元年) | 144.5cm |
1913(大正2年) | 144.5cm |
1914(大正3年) | 144.5cm |
1915(大正4年) | 145.8cm |
政府統計の総合窓口(e-Stat)調べ
大正時代14歳女子の平均身長と比べて、禰豆子の身長は、9cmほど高いです。
大正時代の14歳女子としては、禰豆子は背が高い女子になりますね。
ちなみに、2015(平成27)年の14歳女子の平均身長は、157cmでした。
現代と比べたら、禰豆子の身長は平均より少し低いです。
ちなみに、岩柱の悲鳴嶼行冥(ひめじまぎょうめい)の身長は、220cmです。
でかすぎっ!!
そりゃあ、あんなに強いはずだ・・・。
ちなみに、格闘家のチェホンマンの身長は、218cmです。
チェホンマンを見たら、悲鳴嶼はこのくらいなんだと思いましょう・・・。
9.大正時代は長男が頑張るの?
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Q. 大正時代は長男が頑張るの?
A. はい、長男は頑張ります。
鬼滅の刃の第24話で、炭治郎は元十二鬼月・響凱(きょうがい)と戦います。
炭治郎は、前回の戦いで負傷し、珠代(たまよ)に治療をしてもらいました。
しかし、まだ完治していない中、炭治郎は響凱と戦うことになります。
負傷した怪我が痛くて、痛くて、たまらない炭治郎は、自分を鼓舞します。
「俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった」
うめたろうは、長男じゃなくてよかった・・・。
このセリフの背景には、長子相続が関係しているのでしょうか。
長子相続(ちょうしそうぞく)とは、子供のうち長子(一般的に長男)が、相続するという形態です。
相続によって継承されるものは、家系を継ぐことであり、直系家族の家の存続が目的でした。
明治政府が始まった頃、華族や士族には長男相続制が規定され、長男がすべてを世襲していました。
また、平民にも長男の家督相続制が規定されました。
第二次世界大戦後の1947(昭和22)年には、日本国憲法が施行されます。
その時、民法が改正され、長子相続は廃止されました。
それ以降、相続制度は、配偶者や長男以外の子供にも、平等に相続権を持つことが規定されました。
10.大正時代に鬼はいたのか?
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Q. 大正時代に鬼はいたのか?
A. 信じるか、信じないかは・・・・、あなた次第です。
鬼の存在が語られるのは、平安時代からと言われています。
日本の山には、かつて鬼が住んでいたという伝説が各地に存在します。
古来から伝わる書物にも、鬼の話が登場します。
奈良時代に書かれた
「日本書紀(にほんしょき)」
平安時代に書かれた
「伊勢物語(いせものがたり)」
鎌倉時代(平安話集)に書かれた
「宇治拾遺物語(うじしゅいものがたり)」
女性が鬼に一口で食べられたり、鬼の行列である百鬼夜行(ひゃっきやこう)に遭遇したという話があります。
また、平安時代初期に活躍した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の伝説では、鬼を討伐する話が出てきます。
現代でも、行方不明になった人がいると、「幽霊のしわざや神隠しにあった」と言われることがあります。
今でも山の奥深くには、もしかしたら鬼がいるかも・・・。
そして、あなたの横にも・・・、ほら、奥さんが・・・、鬼嫁として・・・。
鬼の伝説はこちら
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【鬼の伝説】鬼は日本に実在していたのか?【鬼滅の刃】
続きを見る
おわりに・・・
今回は、鬼滅の刃に登場する大正時代を考証してみました。
大正時代を時代背景にする人気漫画は、少ないので鬼滅の刃は、その部分でも新鮮でした。
鬼滅の刃の連載は残念ながら、終了してしまいました。
しかし、10月には、劇場版「鬼滅の刃~無限列車編~」が公開されます。
その後には、アニメの続編も放送されるかもしれません。
きっと、放送されるでしょう・・・。
まだまだ、鬼滅の刃の人気は続きます。
漫画って、いくつになっても読んでしまいますよね・・・。
漫画は、いつも色々なことを教えてくれます。
うめたろうも、少年時代から漫画には、たくさんのことを学びました。
「ドラゴンボール」では、孫悟空の優しくて強い姿を見て、ああなりたいと思った・・・。
「ワンピース」では、ルフィの仲間を大切にする姿を見て、カッコイイと思った・・・・。
「ハンター×ハンター」では、富樫先生の休載をする姿を見て、週刊連載の厳しさを知った・・・。
今年は、漫画「るろうに剣心」劇場版の続編も公開される予定です。
るろうに剣心の時代設定は、鬼滅の刃の一つ前の時代、明治時代になります。
歴史に興味がない人も、漫画をきっかけに、歴史に興味を持ってくれたらいいなぁと思います。
鬼滅の刃「全集中展」開催中。
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