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【鬼滅の刃】大正時代はどんな時代?

「日の呼吸・・・、ヒノカミ神楽・・・、炎舞!!」

今日もどこからか、少年の声が聞こえてきます・・・。

 

これは、主人公・竈門炭治郎(かまどたんじろう)の必殺技です。

(うめたろうの時代は、「かめはめ波」が聞こえてきました・・・)

みなさん、「鬼滅の刃(きめつのやいば)」は、読みましたか?

漫画「鬼滅の刃(きめつのやいば)」とは?

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「鬼滅の刃」は、週刊少年ジャンプで連載中の人気爆発中の漫画です。

作者は、吾峠呼世晴(ごとおげこよはる)さんです。

コミックの売上は、2020年3月2日の時点で、4036万部を記録しました。

 

書店では、単行本が売り切れ、一時期は手に入らない時期もありました。

2019年にTVアニメも開始し、その映像美や音響などが注目を浴び、絶賛されました。

また、2020年には、劇場版『鬼滅の刃 無限列車編』の公開が決定しています。

 

ストーリーを簡単に言うと、主人公は鬼に家族を殺された竈門炭治郎(かまどたんじろう)。

炭治郎は、鬼にされてしまった妹・禰豆子(ねずこ)を、人間に戻すために、旅に出ます。

その過程で、鬼狩り集団・鬼殺隊に入隊し、人喰い鬼との戦いを描く物語です。

この鬼滅の刃の時代設定は、大正時代の設定です。

 

皆さん、大正時代と聞いて、何を思いつきますか?

 

「大正時代ってどんな時代だっけ?」

「どの時代の前だっけ?」

「鬼っていたかな・・・」

 

歴史の授業で習ったが、「記憶にございません」状態ですよね・・・?

なぜなら、うめたろうも、そうだったからです!!

そんな、皆さんのために、大正時代の説明を、ご用意致しました。

(ちなみに鬼は・・・・たぶん、いない。)

 

大正時代の背景(明治時代~大正時代へ)

江戸時代や明治時代は、想像できるが、大正時代は曖昧という人が多いと思います。

それもそのはず、大正時代は、日本史の時代区分で一番短いのです。

 

1912年(大正元年)の7月30日~1926(大正15)年の12月25日

 

年数で言うと、たったの15年間しかないのです。(ちなみに、二番目に短いのは平成)

大正時代は、明治時代の後にあり、昭和時代の前になります。

 

日本は、徳川政権が続いた江戸時代が終わり、全国から武士がいなくなり、武家社会が消滅します。

明治時代では、文明開化と称し、西洋の文化を取り入れ、近代国家を目指すことになった日本。

1904(明治37)年には、日露(にちろ)戦争が勃発し、日本はロシアとの戦争に勝利します。

 

この勝利から日本は、欧米の列強国と、肩を並べるほどになります。

国内情勢は、右肩上がりになり、先進工業国と成長しました。

日本国民は、国内の資本主義の成長に伴い、政治や自由に関して、自覚します。

 

大正時代の文化は、「大正ロマン」と呼ばれます。

大正ロマンは、自由性や、ロマンティシズムを持った文化と言われることになります。

大正時代の政治の出来事

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「大正デモクラシー」

みなさん、この言葉は、学校の授業で、聞いたことがありますよね・・・。

この大正デモクラシーとは何なのか?

デモクラシーとは、日本語で訳すと、「民主主義や民主制」という意味です。

一言でいうと、大正デモクラシーとは、「民主主義や自由主義の風潮」のことを指します。

 

明治時代、日本の政治は、元老(げんろう)という、徳川政権を倒した(討幕運動)人物たちを中心に行っていました。

幕末時代に、薩長土肥(さっちょうどひ)という言葉がありました。

薩長土肥は、薩摩藩(鹿児島県)、長州藩(山口県)、土佐藩(高知県)、肥後藩(熊本県)のことです。

 

討幕運動の中心にいた薩長土肥の藩の出身の人物しか、政治の重要な役職には就くことができなかったのです。

その藩閥政治を辞めさせるためと同時に、もっと民主的な政治を望む人たちが出てきました。

藩閥以外の人達が、政治を憲法に基づき行うため、二度にわたる護憲(ごけん)運動を起こします。

 

政治の他でも、社会面や文化についての自主的集団による運動が、次々と起こります。

普通選挙制度を求める普選運動や、言論の自由に関しての運動

男女平等、部落差別開放、団結権、ストライキなどの獲得運動

自由教育の獲得、美術団体の文化省支配からの独立

 

第一次世界大戦【1914(大正3)年】

1914年(大正3)年に、第一次世界大戦が開戦します。

日本は、連合国に軍の要請を受け、軍隊をヨーロッパに派遣させます。

戦争の結果、戦勝国となった日本は、空前の好景気になり、経済が上昇します。

 

特に、繊維工業や造船業・製鉄業が飛躍的に発展し、化学工業などの近代化が急進しました。

これを機に日本政府は、財政難を克服することができました。

米騒動【1918(大正7)年】

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第一次世界大戦のさなか、ロシア革命がおこり、連合軍の要請で、日本は「シベリア出兵」を行うことになります。

戦争によって、国内のお米の価値が急激に上昇しました。

シベリア出兵の宣言を聞いた商人たちは、戦争特需における物資高騰を狙い、米を買い占めます。

 

商人が米を買い占めた為、庶民は米が入手困難になり、怒りの矛先を商人に向けます。

1918年(大正7)年、怒りが頂点に達した庶民は、富山県で米屋を襲う騒動を起こします。

これを米騒動と言い、騒動をおさめるために、政府は軍隊を派遣させ鎮圧しました。

平民が初めて総理大臣となる【1918(大正7)年】

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明治時代が始まってから、元老が藩閥政治を行ってきましたが、護憲運動の成果により情勢が動きます。

米騒動の後、1918(大正7)年に、日本で初の本格的な政党内閣の「原内閣」が誕生しました。

爵位(しゃくい)を持たなく、華族(かぞく)階級でもない、いわゆる平民の原敬(はらたかし)が、首相となりました。

 

初めて衆議院に議席を持つ、政党の党首という資格で、首相に任命されたことに、大きな意味がありました。

原敬は「平民宰相(へいみんさいしょう)」と呼ばれ、民衆から歓迎されます。

1921(大正10)年、原敬は東京駅で、国鉄大塚駅の駅員・中岡良一により殺害されました。

普通選挙の成立【1925(大正14)年】

1925(大正14)年に、普通選挙法が成立します。

これまでの選挙は「制限選挙」と呼ばれ、制限される項目が多く、納税額による制限もありました。

 

新たな普通選挙法では、これらが排除され、多くの人が選挙権を持つことが可能になります。

「日本国籍を持ち、かつ内地に居住する満25歳以上の全ての成年男子」

この条件をクリアした人に選挙権が与えられました。

しかし、この時はまだ、成人女性の選挙権は認められませんでした。

女性解放運動【新婦人協会設立】

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1920年(大正9年)に、平塚 らいてう(ひらつからいちょう)を中心とし、女性解放運動を推進する「新婦人協会」を設立しました。

新婦人協会は、男女の機会均等や女性差別をなくすことをスローガンに掲げます。

また、普通選挙の参加権が、男性だけであるため、婦人参政権の獲得を目指しました。

 

婦人参政権獲得は、太平洋戦争後の、1945(昭和20)年に達成することになります。

女性の地位向上に貢献し、大正時代では、女性が就つける職種は、大幅に増えることになりました。

 

ちなみに、平塚らいてうは、豊臣家の家臣で美濃垂井城・城主の平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔と言われています。

 

大正時代の災害・関東大震災【1923(大正12)年】

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1923(大正12)年、関東地方にマグニチュード7.9(震度6)の大地震が襲いました。

東京府(現・東京都)を中心に、神奈川県、茨城県、千葉県、静岡県東部が、甚大な被害を受けます。

近代化を進めていた都市圏に直撃し、政府機関が直撃したことにより、国家機能が麻痺しました。

 

2011年(平成23年)に起きた、東日本大震災以前の日本においては、史上最大規模の被害をもたらしました。

ちなみに、東日本大震災は、マグニチュード9.0(震度7)です。

関東大震災により、大阪府や愛知県に移住する人たちが増え、東京以外の都市圏の人口が増えました。

 

市電の機能が停止した為、東京市は、自動車を約800台を輸入し、バス事業を開始します。

このバスは、「円太郎(えんたろう)バス」と言われ、明治時代の乗り合い馬車の愛称である「円太郎馬車」になぞられました。

円太郎バスは、アメリカの自動車・T型フォードのトラックモデルである自動車を改造し作りました。

 

市電が復旧し、バスは縮小されると思ったが、公共交通機関の機能を十分に果たすことが分かり、引き続き使用されます。

これが、現在の都営バスの源流となりました。

現在、9月1日は「防災の日」ですが、これは、9月1日に関東大震災が起きたことに由来されます。

 

大正時代の生活スタイル

大正デモクラシーにより国内で、民主主義が叫ばれます。

それにより、人々の生活スタイルにも、大きな変化を見ることができます。

それぞれの変化を見て行きましょう。

交通機関

電車(路面電車・蒸気機関車)

首都圏では、明治時代につくられた路面電車を、メインに使用していました。

この時から、通勤ラッシュの混雑があり、「東京名物満員電車」として、俗謡の題材にされました。

大正時代の時から、現在の東京の光景は、変わってないということですね・・・。

 

蒸気機関車は、明治時代からありましたが、大正時代で国産化に成功します。

第一次世界大戦後の好景気により、輸送量が増大し、蒸気機関車の性能向上と標準化を進めます。

大正時代に入り、日本でのオリジナル設計の幹線用蒸気機関車が登場しました。

自動車(自家用車・タクシー)

自動車は、輸入車が大半を占めていました。

上流階級や富裕層を中心に、自家用車の普及が広がります。

 

1912(明治45)年には、タクシー自働車株式会社が設立します。

1914(大正3)年に、東京駅が開業したことにより、東京駅でタクシーの営業が行われました。

その後、タクシーの営業は、全国に普及しました。

インフラの普及(ガス・電気・水道)

日本政府は、関東大震災での壊滅を機会に、江戸時代以来の東京の街を大幅に改良します。

道路拡張や区画整理などを行い、インフラの整備が行われ、水道・電気・ガスの近代化が進みます。

 

ガスを使用したアイロンや、ガスの風呂釜、ガスストーブなどが登場しました。

 

東京市内の家庭には、電灯を使うようになり、電気は東京を中心に急速に普及します。

さらに、エレベーターや電車など、電気は動力用としても利用され、次々と発電所が建設されます。

 

大正15年の水道の普及率は20.3%で、ガスと電気に比べると、遅れを取っていました。

全家庭の80%は、まだ、井戸水などを使っていたことになります。

職業の種類が増加

大正時代から、サラリーマンが登場します。

サラリーマンは、中流階級の人が多く、庶民階級の人はサラリーマンになることは困難でした。

この時代には、富裕層と庶民層との格差があり、西洋式の生活は、中流~富裕層の人達に限ります。

 

中流階級のサラリーマンが急増し、西洋式の商品やサービスを利用しだします。

サラリーマンが登場し、その夫を支える「主婦」と言う、新しい女性の在り方も登場します。

この時、主婦に向けた女性誌が、数多く創刊されています。

 

代表的な雑誌でいえば、『主婦之友』・『婦人倶樂部』・『婦人公論』があり、長期にわたって発売されました。

雑誌の内容は、今とさほど変わらず、女性の在り方や美容に関することでした。

また、女性にも新しい職業が生まれ、いわゆる「職業婦人」が登場します。

 

それまでは、女性の職業は、女医や看護師、教師など専門職に限定されていました。

大正時代に入り、自由主義に入り、女性の職業が増えます。

美容師や店員、事務職やタイピストなどのサービス業が、新しい職業として現れます。

住宅建築

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洋風生活を取り入れた住宅を、「文化住宅」と呼んでいました。

住宅生活に関して、富裕層と庶民層との間では、格差が開いていました。

明治期を通して、庶民層は江戸時代とそこまで大差がない生活が続いていました。

 

しかし、中流階級のサラリーマンが登場したことにより、洋風の建築様式の住宅が普及します。

1922(大正11)年には、東京上野で、14軒の文化住宅を建てた「文化村」が展示されました。

この文化村は、住宅展示場で、一般に販売もしていました。

 

公的な住宅供給も出てき、鉄筋コンクリート造りのモダンなアパートメントも生まれます。

近年、世界文化遺産に登録された軍艦島と呼ばれる端島(はしま)は、当時、炭鉱の島として繁栄しました。

1916(大正5)年、この端島に、日本初となる鉄筋コンクリート構造のアパートメントが建設されました。

 

また、駅では、東京駅が、1914 (大正3) 年に開業します。

東京駅駅舎は、三階建ての鉄筋レンガ造りで、壮麗な建物として登場しました。

 

明治時代の後期から、呉服店は百貨店と姿を変えていました。

1914(大正3)年に、三越の日本橋本店の新館が開業します。

この新館は、ルネサンス様式の5階と地下1階建ての、鉄筋造りで建設されました。

 

また、日本初のエスカレーターやエレベーター、全館暖房などの最新設備が設置されます。

三越日本橋新館は、「スエズ運河以東最大の建築」と称され、建築史上に残る傑作と言われています。

それまでは、富裕層を顧客としてきた百貨店は、徐々に客層を広げ、日用品なども販売します。

 

また、広告などにも力を入れ、大衆化をアピールします。

大正ロマンを代表するキャッチフレーズがあります。

「今日は帝劇、明日は三越」

東宝が日本初の西洋式の劇場として、帝国劇場を開設します。

「帝劇での観劇」と「三越でのお買い物」は、当時の女性を象徴する一般庶民の憧れとなりました。

街並み(東京・大阪)

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明治後期から東京市(東京都)は、15区に分かれていました。(現在は23区)

関東大震災以前では、下町を代表する浅草が、歓楽街として賑わっていました。

浅草は、江戸時代から関東大震災が起きるまで、「浅草六区」と称され、最大の歓楽街でした。

 

見世物や芝居、演芸などの小屋が建ち並び、やがて、活動写真を上映する映画館が登場します。

大正期には、「浅草オペラ」と呼ばれる独特の軽演劇も人気を集め、街は年中、賑わっていました。

 

浅草には、当時、日本で一番高い建造物が存在していたのは、知っていましたか?

 

凌雲閣(りょううんかく)は、1890(明治23)年に建設され、浅草のシンボルとなります。

通称「浅草十二階」と呼ばれ、赤レンガで造られた展望塔は、東京で有数の観光名所でした。

凌雲閣には、日本初の電動式エレベーターも存在しました。

 

しかし、関東大震災により、倒壊してしまいます。

その後、経営難から復旧が困難であったため、再建は断念されました。

 

また、大坂にも凌雲閣が存在しており、浅草の凌雲閣より1年早く建設されていました。

西成郡北野村(現・大阪市北区)の和風庭園「有楽園」内に、9層楼として建てられました。

日本で最初の西洋式高層建築と言われていました。

 

大阪市は、関東大震災後、東京からの移住もあり、「大大阪市」と呼ばれます。

人口や面積は、日本第一位となり、世界有数の大都市となりました。

 

東京は、関東大震災で下町の被害がひどく、多くの江戸時代の街並みを失いました。

震災の影響が少なかった丸の内、大手町地区に続々とビルが建設されます。

この地区は、オフィス街となり、現在の丸の内ビジネス街の礎となりました。

 

また、地震の影響で、世田谷や杉並などに人々が移住し、新宿、渋谷が副都心と成長します。

銀座や日本橋は、銀行や百貨店が建てられ、デパート街へと変貌しました。

 

大正時代の文化・芸術・ファッション・食事

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文化・芸術

大正時代の文化や芸術は、「大正ロマン」と呼ばれ、多くの芸術や人物を生み出します。

画家

竹久夢二(たけひさゆめじ)は、現代にも残る美人画を数多く残しました。

詩人

萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)は、近代詩の新しい地平を拓き、「日本近代詩の父」と称されます。

童謡

北原 白秋(きたはら はくしゅう)は、生涯に数多くの詩歌を残し、現在でも歌い継がれる童謡を数多く発表しました。

演劇

帝国劇場では、数多くの女優を生みました。また、現代も公演をしている「宝塚歌劇団」もこの時代に設立しました。

オペラ

「浅草オペラ」は、熱狂的なファンの存在もあって、人気を博しました。

映画

大正時代では映画のことを「活動写真」と呼び、次第に「キネマ」、「シネマ」と呼ばれるようになります。

キネマはこの時代から大衆娯楽の中心となり、ヨーロッパ映画、アメリカの短編喜劇なども公開され人気となります。

レコード

レコードは大正時代に、一般的に普及をします。

流行歌も登場するようになり、「カチューシャの唄」は、日本人作詞作曲の歌曲として、初の流行歌になりました。

児童雑誌

児童雑誌「赤い鳥」が創刊されます。

赤い鳥には、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」や新美南吉の「ごんぎつね」などが掲載されました。

また、この時期に、宮沢賢治が童話集「注文の多い料理店」を刊行しています。

文芸雑誌

文学界には芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)が活躍します。

武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)によって、1910(明治43)年に「白樺(しらかば)」が創刊されました。

白樺の作品や作家たちは「白樺派」と呼ばれ、大正文学の中心的存在として、有名になりました。

 

1923年(大正12)年に、菊池寛(きくちかん)により、雑誌「文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう)」を創刊します。

文藝春秋といえば、現在でも続く、「週刊文春」を発行している会社です。

マスコミ

新聞では、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞が刊行され、今日の「三大紙」と言われる新聞業界が誕生しました。

ラジオは、1925(大正14)年に、東京放送局により、放送が開始されました。

ファッション

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大正時代に入ると都市圏では、西洋文化の影響を受け、新しいファッションスタイルが生まれます。

先端的な若い男女たちのスタイルのことを「モダンボーイ」「モダンガール」と呼びました。

洋服は、明治時代では、富裕層や上流階級の正装として着用されてました。

 

しかし、近代化の影響を受けて、職業婦人と共に若い男女に広がります。

若い男女は、主にイギリスやアメリカの流行を、ファッションを取り入れるようになりました。

また、都会にあった美容院やダンスホールも、そこまで珍しいものではなくなりました。

新しい教育を受けた若い男女が、伝統にとらわれない「モダニズム」の感覚を持つことになりました。

 

一方で、保守的な一般庶民や田舎から、冷たい視線を受けることになります。

西洋かぶれをした格好をするのは、「ろくな人間ではない」という風潮も出てきます。

「西洋の服を、にわかに身に付けた習慣を、ひけらかす軽薄なもの」という声も上がります。

いつの時代も、新しいことをする若者は、批判の対象になりますね・・・。

 

大正時代の男性ファッション

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モボ(モダンボーイ)の特徴

・山高帽子(フェルトハット帽)

・ロイド眼鏡(丸眼鏡)

・スーツ(ジャケット)

・セーラーパンツ

・蝶ネクタイ、ネクタイ

・細身のステッキ

和装のファッションの特徴

モダンボーイだけでなく、和装のファッションをしている男性たちもいました。

・白シャツの上に着物を重ねて着る

・袴

・マント

・下駄

・マフラー

和洋折衷をうまく使い回し、ファッションを着こなしていました。

現代でも着物があれば、マントの代わりに、コートを羽織れば出来そうですね。

男性の髪型

男性の髪型は、ポマードを使用し、キッチリ決めて、七三分けが多かったと言われています。

男子学生

学生のファッションでは、「バンカラスタイル」が生まれます。

学生服(学ラン)にマント、下駄、学生帽のコーディネート。

これは、明治期から生まれたファッションで、大正時代でも定着していました。

 

大正時代の女性ファッション

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モダンガールの特徴

・基本は洋服

・スカートは膝下までの丈の長さ

・アッパッパ

「アッパッパ」とは、基本は夏用として着ていた服で、木綿性のワンピースことです。

この名称は、歩くと裾がぱっぱと広がることから名づけられたと言います。

・クロッシェという釣鐘型の帽子

女性の和装ファッションの特徴

和装の着物は、これまでの明治時代と違い、明るいカラーの着物を着用していました。

また、着物を着崩れさせたり、小物を使用し、おしゃれを楽しんでいました。

カチューシャなども流行り、ハット帽子をかぶったり、髪飾りなども付けていました。

髪型

モダンガールの髪型は、短くショートカットにしていたのが特徴です。

明治時代は、髪の毛が長いことが女性の証でしたが、この頃から、ショートカットが流行しました。

女性の和装は、耳を出さない「耳隠し」が主流でした。

化粧

当時、化粧の習慣は一般的ではないが、一部では、ルージュや頬紅などを使用していました。

1916(大正5)年、民間洋風調剤薬局だった資生堂が、化粧品部門をつくりました。

その資生堂が、白色以外の七色の白粉(おしろい)の化粧品を発売します。

白粉は「白」が主流だったため、「七色粉白粉」はセンセーショナルな化粧品として、日本に広まりました。

 

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女学生

当時の女学生の服装は、着物と袴で、ブーツを履いており、現代の卒業式などで目にする格好でした。

髪型は、髪の毛をおろしたり、ポンパドールにしていました。

まさに、漫画「ハイカラさんが通る」の主人公がしていたファッションですね。

 

大正時代中期になると、セーラー服が普及します。

学生の制服として、着物・袴から、セーラー服に代わっていく学校が増加します。

1920(大正8)、日本に初めてセーラー服を導入したのは、京都府にあった平安女学院と言われています。

最初のセーラー服は、ワンピース型として登場しました。

 

明治の後期から流行した「ハイカラ」は大正時代でも広まります。

ハイカラの語源は、「high collar (=高い丈の襟)」から由来しました。

ハイカラの意味は、「欧米化、西洋化」の意味合いで広がり、当時のオシャレな若者に向けて使われていました。

 

大正時代の若者のファッションは、現代でも十分通用するお洒落な人がたくさんいました。

日本と欧米の良さを活かした和洋折衷(わようせっちゅう)のセンスは、オシャレ感があります。

色々な文化を取り入れる日本人は、島国である特徴をうまく活かしていると思います。

現代のファッションも、和洋折衷の大正時代を取り入れれば、面白いものができると思いました。

食事

明治時代から広まった洋食文化は、大正時代に入り、さらに発展を続けます。

オムライスやカレーライス、コロッケなどの洋食が中流階級に広がりました。

カレーライス・とんかつ・コロッケは、「三大洋食」と呼ばれました。

 

パンの普及は、昭和の戦後ですが、和製洋食とお米を一緒に食べることが定着します。

また、中華料理である中華そばも、この時代に普及します。

家庭では、一般的に和食でしたが、献立に洋食が出る家庭も、次第に増えて行きます。

 

1919(大正8)年には、東京・神楽坂に「公衆食堂」の第1号店が開店します。

「公衆食堂」は大衆食堂とは違い、「官、国」が運営する庶民の為の公営の食堂のことです。

現在の公衆トイレや、公衆電話と一緒ですね。

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現在で言う、喫茶店もこの大正時代に流行します。

明治時代に生まれ、大正時代に流行した飲食店で「ミルクホール」と呼ばれたお店がありました。

ミルクホールは、学生街に多くあり、ミルクを出す店として繁盛し、食パンや豆菓子、コーヒーが提供されました。

ミルクホールでは、ミルクシベリア(羊羹カステラ)を一緒に頼むのが、モダンでした。

 

ジブリ映画「風立ちぬ」の中で、シベリアが登場します。

うめたろうは、当時とても気になり、スーパーまで買いに行ったのを覚えています。

味は・・・、ご想像にお任せします・・・。

 

また、「カフェー」という形式のお店が登場します。

カフェーの最初の店は、1911(明治44)年に、銀座に誕生した「カフェー・プランタン」と言われています。

カフェーは、女給(ウエイトレス)がおり、洋食やコーヒー、お酒を提供していました。

関東大震災後に、カフェーの業態が少しづつ、変化していきます。

 

銀座に「カフェー・タイガー」が誕生し、そこでは、女給のサービスが売りとなります。

女給が化粧をし、派手な着物を着て、お客の接待をするといったサービスが、人気の要因でした。

言ってしまえば、現在の「キャバクラ」のようなサービスでした。

 

現在、昔ながらの喫茶店のことを、「純喫茶」と呼ぶことがあります。

これは、カフェーに対して、「純粋にコーヒーを売りにする店」という意味合いで名付けられました。

 

また、この時代には、現代も愛されている商品が生まれます。

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・森永製菓の「ミルクキャラメル」(大正3年)

・森永ミルクチョコレート発売(大正7年)

・明治ミルクチョコレート発売(大正15年)

・グリコ発売(大正11年)

・カルピス(大正8年)

・キューピー「キューピーマヨネーズ」(大正14年)

やはり、おいしい商品は、「息が長いのだな」と改めて思います。

 

終わり・・・

「鬼滅の刃」の時代設定である大正時代。

残念ながら、鬼についての資料はなかったですが・・・(笑)

大正時代の背景を理解し、「鬼滅の刃」を読めば、楽しさ倍増するはずです。

 

大正時代は、一言でいうと、「現代の始まり」と見ることができます。

日本は、江戸時代の封建制度が終わり、明治時代に文明開化を行い、近代化をスタートさせます。

大正時代に入り、西洋の文化と日本の文化を混ぜ合わせ、和洋折衷の文化が誕生しました。

民主主義を取り入れた日本国民は、これからの日本の未来を期待していたのではないでしょうか。

 

しかし、それとは裏腹に、日本には暗い未来が待っていました・・・。

昭和時代に突入し、「戦争」と言う泥沼に入り込んだ日本は、多くの命と文化を失います。

敗戦国となった日本は、アメリカ指導のもと、国の再興を目指します。

そして、高度経済成長が起き、日本は再び、豊かな国と成長しました。

 

現在、この記事を書いているのは、2020(令和2)年です。

100年後の未来の人達は、令和時代の日本を勉強した時、どのように思うのでしょうか・・・。

「令和の時代は、国民がイキイキと活動していて、楽しそうな時代だなぁ」

このように思ってもらえるように、今の時代を楽しく生きていけたらと思います。

 

現在、コロナが蔓延し、日本のみならず、世界でも大きな被害をもたらしています。

今回とりあげた大正時代にも関東大震災で、甚大な被害を受けました。

しかし、その後、日本は見事に復活し、経済的に大きな成長を成し遂げました。

昭和の戦後も、またしかり。

 

「ピンチのあとには必ず、チャンスがある」

それは、現状よりもさらに良いものに、生まれ変わることができるチャンスです。

歴史の教訓を生かし、私たちは、より良い未来を作っていけたらと思います。

 

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