史跡巡り

【盛林寺・ガラシャ像】京都府史跡巡り①【明智光秀・細川ガラシャ】

どうも、うめたろうです。

京都の史跡巡りに行ってきました。

ついに、明智光秀を追っかける史跡巡りも、最後になりました。

 

当初の目的は1月に行く予定でしたが、緊急事態宣言が発令したので、今月になってしまいました。

すでに、大河ドラマ「麒麟がくる」も、終わってしまいました・・・。

 

しかし、最後まで明智光秀を追っかけることを決めたうめたろう・・・。

今回、最初に訪れた場所は、京都府の宮津(みやづ)市を巡りました。

 

道の駅「海の京都 宮津」 京都府宮津市

 

名古屋から車で3時間・・・、宮津市にある道の駅「海の京都 宮津」に到着しました。

実は、前回の京都府・兵庫県の史跡巡りで、当初、宮津市をスケジュールに入れていました。

しかし、大雪が降ったため、行くのを断念していました。

 

 

道の駅「海の京都 宮津」は、2014年にオープンした比較的新しい施設です。

平面駐車場は終日無料で、立体駐車場も5時間無料で利用することができます。

観光案内所もあり、宮津のパンフレットも置いてあります。

 

 

こちらは、「おさかなキッチン」というカフェです。

宮津の魚介類や野菜を使用した料理を提供しています。

 

今回は、時間の都合でカフェには寄れませんでした。

ここから徒歩で、城下町を目指します。

 

宮津城跡(みやづじょうあと)

 

道の駅から、徒歩で約10分の場所に宮津城跡があります。

織田信長により、細川藤孝は南丹後を与えられます。

細川藤孝は宮津城を築き、この地を拠点としました。

 

明智光秀は丹波国、細川藤孝は南丹後(北丹後は一色氏)を、織田信長からもらった訳です。

関ケ原の戦いの後、家督を受け継いだ細川忠興は、豊前国に転封になりました。

その後、京極氏が丹後の地を治め、宮津藩の礎を築きました。

 

 

宮津城跡には、城の遺構はあまり見当たりません。

現在、この場所には、大きな病院が建っています。

説明板には、当時の宮津城の二の丸跡と書かれていました。

 

 

川沿いを歩いていると、先程とは違う説明版を発見しました。

説明版によると、この場所は宮津城の三の丸跡と書かれています。

しかし、この辺りは、とても雰囲気が良いですね。

 

 

海がすぐ近くにあり、静かな場所で、ゆったり時間が流れていました。

細川忠興が、この地を離れたくない気持ちがわかりました。

しかし、関ケ原の戦いで出世し、3倍以上の石高になった細川忠興・・・。

 

 

こちらは、大手橋の石碑です。

旧宮津城の大手門に通じる場所に、木造の橋が架かっていたようです。

 

 

こちらは、宮津城の復元した城壁です。

宮津城の外堀だった場所に、城壁が復元されました。

 

城壁があることにより、当時のお城の姿を想像させてくれます。

宮津市の歴史を想う気持ちが伝わってきます。

 

 

瓦にはちゃんと、細川家の家紋が入っていました。

この家紋を見ると、猫の肉球が頭に浮かぶのは私だけでしょうか・・・。

奥には、宮津市役所が建っています。

 

大手川ふれあい広場 細川ガラシャ像 京都府宮津市

 

今回、宮津市で一番に訪れたかった場所にやって来ました。

宮津城から徒歩で約6分の場所にある、大手川ふれあい広場です。

この広場には、明智光秀の娘・細川ガラシャ(お玉)の銅像があります。

 

 

細川ガラシャは、明智光秀の娘に生まれ、光秀の盟友である細川藤孝の息子・忠興に嫁ぎました。

しかし、父・明智光秀が本能寺の変を起こしたことにより、逆臣の娘となります。

夫・細川忠興により、味土野(みどの)にて、幽閉生活を送ることになりました。

 

 

その後、キリスト教の洗礼を受け、ガラシャの洗礼名を授かります。

1600(慶長5)年、関ケ原合戦に先立ち、石田三成は大名の妻子を人質に取る計画を実行します。

しかし、細川ガラシャはそれを拒み、大坂玉造の細川屋敷で火を放ち、命を絶ちました。

 

数奇な運命を歩んだ細川ガラシャは、まさに悲劇のヒロインと言えるでしょう。

ガラシャの生涯は、宣教師達により、遠くヨーロッパの地で広く紹介されました。

 

 

この銅像は、細川ガラシャと細川忠興の生誕450年記念に建立されました。

ガラシャ像は、宮津城を眺め、細川家と宮津の民の幸せを祈っている姿を表現しているようです。

 

 

細川ガラシャ・・・、キレイですね。

細川忠興が、べた惚れしていたと言われていますが、それも頷けます。

 

細川ガラシャにとって、生涯の中で最も幸せなひと時を過ごしたのは宮津でした・・・。

現在も細川ガラシャは、宮津の地で平和を祈っています。

 

細川ガラシャの生涯はこちら

明智光秀の子供たちは、その後どうなったのか?【子供の名前】

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カトリック宮津教会 聖ヨハネ天主堂 京都府宮津市

 

細川ガラシャ像のすぐ後ろには、教会があります。

こちらは、宮津カトリック教会です。

宮津カトリック教会は、1869(明治29)年に建築されました。

 

 

長崎県の世界遺産にも登録された大浦天主堂に次いで、日本で二番目に古い木造教会です。

日本で二番目に古いって、すごいですね・・・。

 

さらに、今でも現役で使用され、毎週日曜日にミサが捧げられているようです。

役で使用されている教会としては、なんと・・・、日本で最も古い教会です。

 

 

教会の代名詞・・・、ステンドガラスもちゃんとありました。

教会の内観ですが、残念ながら、中には入っていません。

 

人生で一度も教会に入ったことがないうめたろうには、ハードルが高すぎました。

そういえば、通っていた大学は、キリスト系で敷地内に教会があったが、入った記憶がない・・・。

アーメン・・・!!

 

盛林寺(せいりんじ) 明智光秀の首塚 京都府宮津市

 

道の駅の駐車場から、車で10分ほどで、盛林寺に着きます。

盛林寺には、駐車場がありません。

 

事前の情報で、上宮津の公民館に車を停めさせてもらえることを知りました。

公民館の方に声を掛け、駐車場をお借りしました。

 

 

公民館から歩いて3分、盛林寺に着きました。

盛林寺の開基は、宮津を支配していた一色氏の重臣・小倉播磨守と伝わります。

 

 

宮津を支配していた一色氏と小倉氏は、細川藤孝らによって滅ぼされました。

その後、盛林寺と細川氏との関係は、良好だったようです。

 

 

こちらが盛林寺の本堂です。

境内に入ると、雑音がなく、静寂が辺りを包んでいました・・・。

 

 

こちらは、「三界唯心塔婆(さんがいゆいしんとうば)」という石碑です。

この石碑は、古くはたたり石として、倒れ伏したままになっていたそうです。

お寺の貴重な開山の記念碑として、ここに再建されました。

 

 

お墓の配置図がありました。

今回、盛林寺に来た目的は、明智光秀の首塚を見ることでした。

 

最初にこの配置図を見逃して、ひたすら上に登ってしまった・・・。

なぜか勝手に、光秀の首塚は高いところにあると思い込んでいました。

 

 

こちらが、明智光秀の首塚です。

説明板には、小栗栖で斃れた明智光秀の首は、宮津にいる細川ガラシャの元に届けられたとあります。

 

その後、娘である細川ガラシャが葬ったと書いてありました。

誰がどのように送ったのか・・・、そのあたりの詳しい説明は書かれていませんでした。

 

 

実は、明智光秀の首塚は、盛林寺の他にも、京都市東山区と亀岡市にもあります。

どこが本当の明智光秀の首塚であるかは、わかっていません。

しかし、それぞれの首塚には、明智光秀に関する何かがあったことは確かでしょう。

 

自分を数奇な運命にした父親・・・。

細川ガラシャ、明智玉は、父親の死を知って、どのような感情だったのでしょうか・・・。

 

 

こちらは、一色氏の供養塔です。

丹後国は織田政権時代、北丹後が一色氏の領地、南丹後が細川氏の領地になっていました。

 

山崎の戦いが起こると、細川氏は羽柴秀吉に従順の姿勢を取ったのに対して、一色氏は明智光秀に味方しました。

この選択により、一色氏は、のちに細川氏によって、滅ぼされる運命を辿りました。

 

おわりに・・・

宮津市は、細川藤孝・忠興親子、そして細川ガラシャのゆかりの地です。

細川親子は、足利、織田、豊臣、徳川と主君を変え、戦国時代を上手く生き延びました。

現代なら、うまく出世するタイプでしょうね・・・。

 

宮津の城下町は、雰囲気も良く、ゆったりとした素敵な町でした。

もしかして、通常は、天橋立の観光で、たくさんの人がいるのか・・・?

宮津では、もっと行きたい場所がたくさんありました。

 

細川ガラシャ幽閉地、宮津城太鼓門一色稲荷神社、智恩寺など・・・。

有名な天橋立を目の前にし、一歩も寄らずに、次の目的地に行きました(笑)。

なんせ、スケジュールをぎゅうぎゅうに入れ込んだので・・・。

 

今度は、ゆっくりと天橋立を含めた観光をしたいと思います。

次回は、明智光秀の領地であった亀岡市を巡ります。

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