史跡巡り

【信長家臣】森蘭丸・森長可ゆかりの地 美濃金山城史跡巡り【岐阜県可児市】

どうも、うめたろうです。

今回は、岐阜県可児市兼山(かねやま)地区の史跡を巡ってきました。

兼山と言えば、美濃金山(みのかねやま)城跡が有名です。

 

戦国時代の兼山地区は、織田信長に仕えた森一族の領地でした。

信長家臣の森氏と言えば、森蘭丸(もりらんまる)が一番有名だと思います。

 

歴史に興味がある人なら、父の森可成(よしなり)や、兄の森長可(ながよし)も有名ですね。

それでは、織田信長が信頼していた家臣である、森一族ゆかりの地をご紹介します。

 

森蘭丸(もりらんまる)像と冠木門(かぶきもん)

 

兼山地区は、うめたろうが住む尾張国(名古屋)から、車で約1時間です。

まず、最初の目的地は、森蘭丸像と美濃金山城の冠木門(かぶきもん)です。

この冠木門を抜けると、兼山の城下町に入ります。

 

 

看板には大きく、「森蘭丸誕生の地」と書かれています。

時代劇やドラマでは、森蘭丸は美少年として登場します。

どうですか、この像はイケメンですかね?

 

ちょっと、色の剥げが気になりますが・・・。

これは、本能寺の変で織田信長を守っている姿でしょうか。

ここに、父の森可成や兄の森長可の像もほしいところです。

 

可児市観光交流館(かにしかんこうこうりゅうかん)

 

森蘭丸に挨拶しためたろうは、可児市観光交流館に向かいました。

周辺を巡るために、パンフレットや地図をほしかったのです。

朝の9時ぐらいに着いたため、お客さんはうめたろうだけでした。

 

 

交流館には、たくさんの甲冑が並べてありました。

どうやら、甲冑の着付け体験ができるようです。

 

 

「イクササイズ」という、甲冑を着用して美濃金山城に登る体験プログラムもあるようです。

10kg以上の甲冑を着て、登城するのは、めちゃくちゃ大変そう・・・。

このような体験プログラムは、城跡ではめずらしいし、面白い企画ですね。

 

 

森氏の鶴之丸の家紋です。

鶴は長寿の象徴であるため、一族繁栄の意味があるとされています。

鶴は千年、亀は万年・・・、家紋にするなら、亀より鶴ですよね~。

 

 

足軽が受付をしています!!

コロナ対策ばっちりです・・・。

 

奥に本当の受付の方がおり、周辺の地図をもらいました。

地図を見ながら、周辺の史跡を丁寧に説明して頂きました。

そして、お土産売り場もあったので、ひとつ購入してみました。

 

 

森三左衛門可成(もりさんざえもんよしなり)のクリアファイル!!

刀を咥えてますよ・・・、森蘭丸の父ですよ。

今まで、色々な史跡を巡ってきたけど、森可成グッズは初めてみました。

 

これを学校や会社で使っていたら、注目度ナンバーワンになること間違いなし!

織田信長や真田幸村のクリアファイルはいても、森可成はなかなかいないはず。

間違いなく、歴史好きが寄ってくるでしょう(笑)。

 

浄音寺(じょうおんじ) 斎藤正義の墓

 

交流館の方に「駐車場に車を停めて、周辺を巡ってもいい」と許可をもらいました。

ここから、各史跡スポットは十分歩ける距離なので、歩いて巡りました。

この日は天気にも恵まれ、町の雰囲気もよく、歩いていて気持ちがよかったです。

 

交流館から徒歩10分ほどで、浄音寺(じょうおんじ)に着きました。

浄音寺の山門は、美濃金山城の裏城戸門を移築したものと伝わります。

 

 

こちらは、本堂です。

朝のお寺の雰囲気は、いいものです。

 

 

斎藤正義(さいとうまさよし)のお墓です。

斎藤正義は、斎藤道三の養子となり、美濃金山城の前身である「鳥峰(うほう)城」を築城しました。

 

久々利城主久々利頼興(くくりよりおき)の謀殺により、久々利城内で討死しました。

遺骸はここ、浄音寺に葬られました。

 

兼山湊跡(かねやまみなとあと)

 

浄音寺から10分ほど歩くと、兼山湊(かねやまみなと)跡があります。

兼山湊は、室町時代から木曽川(きそがわ)上流域の唯一の商用港として発展しました。

 

 

戦国時代には、月に6回行われる定期市【六斎市(ろくさいいち)】などが開かれていました。

兼山湊は、東美濃の経済の中心地となっていました。

 

 

石畳と常夜灯は、1836(天保7)年の江戸時代に造られたと伝わります。

当時の雰囲気を、味わうことができます。

まるで秘密基地に来た感じで、とてもいい場所でした。

 

 

1993年にテレビ東京で放送された「森蘭丸~戦国を駆け抜けた若獅子~」の撮影が行われました。

森蘭丸が主人公のドラマのようです。

この自然の雰囲気が、ロケにはぴったりですね。

 

可成寺(かじょうじ) 森蘭丸・森長可・森可成の墓

 

兼山湊跡から10分ほど歩くと、可成寺(かじょうじ)があります。

可成寺には森氏一族の墓があり、森長可(ながよし)の脛当や肖像画を所蔵しています。

 

 

境内に入ると、ゲゲゲの鬼太郎のポストみたいなものを発見・・・。

「戦国の勇森一族物語」自動案内機と書いてあります。

お城などに昔あった自動音声機ですね。

 

お寺で見たのは初めてでした。

料金は100円です・・・。

うめたろうは、ゆっくりと100円玉を投入しました。

 

 

すると、拡張器から音声が流れ出します。

まるで、天国にいるかのようなメロディーが流れました・・・。

そのメロディーに乗せて、森一族の話が始まりました。

 

暑さで汗を流しながら自動音声を聞いていたうめたろうは、あることに気づきます。

森一族の墓が見当たらない・・・。

 

うめたろうがお墓を探していると、境内の奥に階段を発見しました。

階段を登ると、さらに山に登る石段を発見します。

さらに上か・・・。

 

 

汗だくになりながら、石段を登ると、そこに森一族の墓がありました。

ここには、森一族7人のお墓がありました。

 

森可成の父・森可行(よしゆき)

森可行は、美濃国の守護・土岐氏に仕えていました。

しかし、斎藤道三が土岐頼芸を追い出すと、尾張国の織田信秀に近づきます。

森可行は息子の森可成と共に、織田方に転じることになりました。

この頃、森可行は高齢であり、家督を可成に譲って、隠居していたと伝わります。

 

初代美濃金山城主・森可成(よしなり)

森可成は、美濃金山城の初代城主です。

森可成は織田信長の家臣として、いくつもの武功を挙げています。

織田信長と対立した清州織田家の城主・織田信友(のぶとも)を討ち取る。

長良川の戦いでは、肘を負傷しながらも、撤退する織田信長を守り抜いた。

桶狭間の戦い、美濃攻略戦で活躍し、恩賞として美濃金山城を与えられた。

織田信長の上洛戦である観音寺城の戦いや、浅井・朝倉軍との姉川の戦いなどにも参戦。

 

織田信長の歴史的な合戦には、いつも森可成がいました。

十文字槍の使い手であった森可成は、名前の三左衛門から、「攻めの三左」と呼ばれていました。

天下取りを目指す織田信長の成長する姿を、森可成は常に近くで見ていました。

 

1570(元亀元年)、「宇佐山(うさやま)城の戦い」【志賀の陣】が勃発します。

 

近江(おうみ)の宇佐山城にいた森可成は、上洛しようとする浅井・朝倉軍と激突します。

浅井・朝倉軍の大軍に攻められた森可成は、奮闘の末、討ち取られました。

織田信長は森可成の死を悲しみ、敵対した比叡山の焼き討ちをする原因の1つになったと言います。

 

森可成の墓は、戦死した周辺にある聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)にもあります。

聖衆来迎寺は、森可成を手厚く埋葬したため、織田信長の焼き討ちから逃れています。

このように、森可成は織田信長に非常に信頼された武将でした。

 

 

可成長男・森可隆(もりよしたか)

森長可、森蘭丸の兄弟であり、二人の兄であった森可隆。

父・可成と共に各地を転戦していた森可隆。

織田信長の命で朝倉方の城・敦賀の手筒山(てづつやま)城を攻めます。

 

1570(元亀元年)、手筒城を攻めた森可隆は、手筒山城を落城させました。

初陣だった森可隆は、さらに朝倉軍を追撃します。

 

しかし、深入りし過ぎたため、朝倉軍から反撃を受けて、討死をします。

享年19歳、早すぎる死でした。

 

可成次男・森長可(もりながよし)

森長可は、父同様に槍術に優れ、「鬼武蔵(おにむさし)」と呼ばれ、恐れられていました。

「人間無骨(にんげんむこつ)」という十文字槍を愛用し、この槍で27に及ぶ首級を挙げました。

織田信長は父の可成と共に、森長可も家臣として優遇します。

 

森長可は、長島一向一揆や槇島(まきしま)城の戦いなどに参戦します。

その後、信長の嫡男・織田信忠(のぶただ)配下の武将となります。

長篠の戦いや石山本願寺の戦い、三木合戦や甲州征伐などに参戦し、武功を挙げました。

 

父の死後、美濃金山城主となり、城下町の整備など、内政にも力を入れました。

織田信長の死後は羽柴秀吉に味方し、美濃での敵対勢力を駆逐し、東美濃全域を支配下に治めます。

1584(天正12)年、羽柴秀吉と徳川家康との間で、「小牧・長久手の戦い」が起こります。

 

森長可は、秀吉軍の第二部隊の大将として参戦しました。

長久手の地で、徳川家康本隊と井伊直政(なおまさ)隊に挟まれ、窮地に追い込まれた森長可。

井伊直政軍と激突した森長可は、火縄銃で眉間を撃ち抜かれ、即死しました。

 

享年27歳でした。

徳川家康は、森長可が戦死したことを知ると、大きく安堵したと伝わります。

 

可成三男・森蘭(乱)丸(もりらんまる)【森成利(もりなりとし)】

森蘭丸は織田信長の小姓として、信長の側近として活躍します。

森蘭丸もまた、兄弟の森長可同様、織田信長に優遇されました。

 

織田信長と森蘭丸の有名な逸話

織田信長は、「隣の座敷の障子が空いているから、閉めてくるように」と森蘭丸に命じます。

森蘭丸がその障子を見てみると、障子は閉まっていました。

森蘭丸は自ら障子を開け、音を立てて、再び障子を閉めました。

 

織田信長のもとに戻った森蘭丸は、「障子は閉まっていた」と報告します。

織田信長は、「ではなぜ音がしたのか」と蘭丸に聞きました。

 

すると蘭丸は、「信長様が開いていると言ったのに、障子は閉まっていた」

「このままでは、信長様に恥をかかせることになり、そのため障子を閉める音を聞かせた」と述べました。

森蘭丸の主君を立てる性格を表すエピソードです。

 

兄の長可が信濃川中島に領地替えとなったため、森蘭丸は美濃金山城主となりました。

また、美濃国の岩村城も与えられることになります。

しかし、1582(天正10)年、「本能寺の変」が起こります。

 

明智光秀の軍勢に囲まれた本能寺に、織田信長と共に森蘭丸もいました。

森蘭丸は、明智配下の安田国継(やすだくにつぐ)によって、討ち取られました。

享年18歳で、主君と共に、この世を去りました。

 

可成四男・森坊丸(もりぼうまる)【長隆(ながたか)】

森坊丸は、兄・蘭丸と共に、織田信長の小姓になっています。

本能寺の変で、最後まで織田信長に付き従い、本能寺で戦死しました。

享年、17歳でした。

 

可成五男・森力丸(もりりきまる)【長氏(もりながうじ)】

森力丸も、兄・蘭丸、坊丸と共に、織田信長の小姓になっています。

兄たち同様、本能寺の変で、織田信長に最後まで従い、本能寺で戦死しました。

享年、16歳でした。

 

森可成やその息子たちは、主君・織田信長と共に、戦国時代を駆け抜けました。

ほとんどの者が、戦いの中で討死しています・・・。

森一族の生き様は、まさに戦国武士の鏡と言えるでしょう。

 

その後の森氏は、森長可の弟・森忠政(ただまさ)が、家督を継承し、豊臣の世を生きます。

徳川時代では、美作国(みまさかのくに)の津山藩の初代藩主となりました。

 

可児市戦国山城ミュージアム

 

森一族に想いを馳せたうめたろうは、次の目的地に向かいます。

可成寺から次の目的地・戦国山城ミュージアムに向かう途中に、常照寺(じょうしょうじ)があります。

常照寺は、森可成の妻で、森蘭丸たち兄弟の母・妙向尼(みょうこうに)のお墓があります。

 

 

可成寺から10分ほどで、可児市戦国山城ミュージアムに着きました。

この建物は、明治18年に小学校として建てられました。

雰囲気が素敵な外観ですね。

 

 

可児市戦国山城ミュージアムの入場料は210円でした。

館内に入ると、久々のクーラーに感動するうめたろう。

 

 

森蘭丸たちの日本人形が、出迎えてくれました。

三兄弟、かわいい・・・。

 

 

森蘭丸の甲冑(複製品)が展示してありました。

兜の「南無阿弥陀仏」が特徴的です。

 

 

美濃金山城のジオラマです。

こんなに山の上に城があったら、攻めづらいだろうな~。

 

 

漫画「センゴク」の作者・宮下英樹先生の織田信長です。

渋くて、かっこいい。

 

 

可憐な光秀の正妻・煕子(ひろこ)です・・・。

カワイイの一言です。

今年中には、煕子の実家である妻木(つまき)城跡にも行きたいです。

 

 

昔使われていた名古屋鉄道の看板でしょうか。

鉄道系の展示もあったので、鉄道好きな人にもおすすめです。

 

 

施設前には、当時使用していたと思われる線路もありました。

 

江戸時代以降も商業の町と栄えた兼山地区。

館内にはその資料も、いくつか展示してありました。

 

美濃金山城跡(みのかねやまじょうあと)

 

今回のメインである、美濃金山城跡に向かいました。

美濃金山城跡は、観光交流館から車で10分ほどです。

途中まで車で登ることができます。

 

車で行く方は、車道がかなり狭くなるので気をつけてください。

うめたろうが行ったときは、平日の午前中だったので、対向車がいませんでした。

対向車が来たら、結構すれ違うのが大変そうな道でした。

 

 

出丸跡に駐車場があるので、そこに車を止めて登城します。

駐車場は結構広くて、トイレもありました。

 

 

こちらから登ります。

この箱の中には、パンフレットはありませんでした。

 

 

二の丸跡に到着。

イノシシ注意の看板がありました。

イノシシが来たら、どうやって避けようと考えていました・・・・。

 

 

こちらは、桝形虎口(ますがたこぐち)です。

桝の形に造られた虎口で、お城の出入り口でした。

 

 

登城した武士は、この場所で呼吸を整えていました。

本丸へ上るために、衣服の乱れを整える場所でもあったようです。

 

 

こちらは、本丸虎口です。

本丸跡までもう少し・・・。

 

 

当時の石垣が、雰囲気を醸し出しています。

すでに汗だくのうめたろう・・・。

 

 

やっと、本丸跡に到着です。

ここまで、「ぜぇぜぇ」しか言わなかったな・・・。

出丸跡の駐車場から、約30分ほどかかりました。

 

 

1600(慶長5)年、美濃金山城の三代城主は、森忠政(ただまさ)でした。

 

森忠政は徳川家康の命により、信州海津(かいづ)城に移封になります。

その後、兼山領は、犬山城主・石川光吉(いしかわみつよし)の領地となりました。

美濃金山城は廃城となり、城の一部を犬山城郭の増築に使用されたと言います。

 

 

本丸跡から、可児市の町を一望することができます。

森可成や森長可、森蘭丸もこの景色を見たのでしょうか・・・。

 

蘭丸亭(らんまるてい) 野戦なべを食す

 

美濃金山城で汗だくになったうめたろうは、お腹が空いています。

「腹が減っては、戦ができぬ」と言うことで、昼食をとることにします。

うめたろうが以前から気になっていた、「蘭丸亭(らんまるてい)」です。

 

 

美濃金山城から、車で10分ほどに蘭丸亭はあります。

以前から、TVなどで取り上げられていたお店です。

 

 

11時半ぐらいにお店に入ったのですが、この時間はまだ空いていました。

そのため、お店の方に「好きな席に座ってください」と言っていただきました。

うめたろうは、一人なのに景色が見える特等席に座ります。

 

 

いい景色ですね~、自然がいっぱいです。

料理を待っている間は、景色を楽しめました。

 

 

こちらは、メニュー表です。

うめたろうは事前に決めていた、「野戦なべ定食」を注文しました。

この裏には、他のメニューも書いてありました。

 

 

こちらは、前菜です。

お上品でした。

 

 

野戦なべの登場です。

戦国の荒々しさが、表現されています。

「鬼武蔵」って感じですね!!

 

 

ごはんとみそ汁と漬物付きです。

しっかりとした味付けに、食べ応えがあり、とてもおいしかったです。

 

この後の明智城跡巡りを前に、完全回復したうめたろうでした。

皆さんも兼山地区にきたら、ぜひ蘭丸亭に行ってみてください。

 

おわりに・・・

尾張・美濃を支配した織田信長は、天下統一を目指しました。

そんな、織田信長を支えた森一族。

 

織田信長の前半戦を支えた森可成(よしなり)。

織田信長の後半戦を支えた森長可(ながよし)。

織田信長の身の回りの世話をした森蘭丸(らんまる)。

 

そんな彼らが住んだ兼山地区を今回は巡りました。

とても内容が濃く、充実した史跡巡りとなりました。

全部の史跡が近いので、歩いて巡れるところがよかったです。

 

町全体で、森一族を盛り上げてるのが伝わってきました。

皆さんも、織田信長に愛された森一族ゆかりの地を巡ってみてはいかがでしょうか。

明智光秀ゆかりの地とセットで、可児市を巡るのもおススメです。

 

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