戦国時代

織田信長ゆかりの地【出身地・生まれた場所・幼少期】

戦国時代、小さな国の尾張(愛知県)にて、ひとりの革命児が生まれます・・・。

 

彼の名は・・・、織田信長。

 

織田信長と言えば、一番好きな戦国武将ランキングで、いつも名前が挙がる人物です。

日本の歴史上の人物全体で見ても、トップ3に名前が挙がるほどの人気です。

 

織田信長は、桶狭間にて巨大勢力であった駿河の今川義元を打ち破ります。

織田信長の名は、瞬く間に全国に広がります。

美濃(岐阜県)、近江(滋賀県)と領土を拡大し、政治の中心であった京まで上洛します。

 

数々の合戦を繰り広げながら、各地の豪族を従属させていきます。

勢いに乗った織田信長は、時の将軍であった足利義昭でさえも追放します。

織田信長は、「天下に武を布く」ために、日本全国を治め、新政権樹立を目指します。

しかし、その夢は信頼していた家臣の裏切りにより、夢半ばで終わりました。

 

そんな織田信長の幼少期は、尾張国(愛知県)で過ごしていました。

 

・織田信長のいた尾張の国内情勢は、どうだったのか?

・織田信長の幼少期から青年期は、どんな人物だったのか?

 

「織田信長を知ることは、戦国時代を知ること」と言っても、過言ではありません。

今回は、織田信長の生い立ちから青年期について紹介したいと思います。

 

織田信長の出身地【尾張国(愛知県)・織田家の情勢】

織田信長について話すには、まず、尾張の情勢を知ることが重要です。

尾張国は、現在の愛知県に当たります。

 

この時代室町幕府は、各国に「守護(しゅご)」と呼ばれる役職を置いていました。

尾張の守護職を任されていたのは、、斯波(しば)氏でした。

 

尾張守護

・斯波(しば)氏

 

斯波氏は足利幕府から「管領(かんれい)」という将軍に次ぐ、最高の役職を任されていました。

斯波氏の家臣として、織田家がいました。

越前(福井県)国の守護であった斯波氏は、尾張(愛知県)守護と遠江(静岡県)守護を兼任します。

その関係で、斯波氏の家臣であった織田氏は、尾張守護代に就くことになります。

応仁の乱により、斯波氏では内紛が起き、家臣であった織田氏は二つの家柄に分裂します。

 

守護代

・清州(きよす)織田氏(大和守家)・・・尾張下4郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)を支配。

・岩倉(いわくら)織田氏(伊勢守家)・・・尾張上4郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)を支配。

 

清州織田氏は清洲城を本拠に、守護である斯波氏を奉じていました。

清州織田氏に清州三奉行(きよすさんぶぎょう)と呼ばれた家臣たちがいました。

 

清州三奉行

・因幡守家(いんばのかみけ)・・・織田信友(のぶとも)が、大和守の清州城主となる。

・藤左衛門家(とうざえもんけ)・・・織田寛故(とおもと)の代に織田信秀に従う。

・弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)・・・織田信秀・織田信長・織田信勝(信行)。

 

清州三奉行のひとつである弾正忠家から、織田信長は誕生します。

父である織田信秀は、メキメキと実力をつけ、主家をしのぐほどの力を持つようになりました。

 

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織田氏の発祥は、越前国(福井県)・織田荘にある、劔(つるぎ)神社の神官と伝わります。

織田氏は系図上では、平氏の出自と名乗っていますが、近年、この信憑性は薄いと言われています。

 

また、織田信長は平氏と名乗る以前、藤原氏と名乗っており、藤原氏の出自の説もあります。

越前の劔神社の神官の家柄が、忌部(いんべ)氏であるため、忌部氏説が濃厚とされています。

劔神社(つるぎじんじゃ)

住所:福井県丹生郡越前町織田113-1

アクセス:武生・鯖江ICより車で約20分

 

織田信長の父【織田信秀(おだのぶひで)】

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織田信長の父・織田信秀は、勝幡(しょばた)城の城主でした。

勝幡の地は、港である津島があり、町は繁栄し、都市化が進んでいました。

織田信秀は、今川氏から那古野(なごや)城を奪い取り、ここを居城として勢力を拡大します。

 

この時、尾張の隣国には、美濃の斎藤道三や駿河の今川義元などの、列強な大名たちが存在していました。

隣国との領土争いは、いつも絶えず、織田信秀は数々の合戦を繰り広げてきました。

隣国だけではなく、尾張国内にも敵がいるため、合戦は絶えません。

 

織田信秀は戦乱に明け暮れ、晩年を過ごし、のちに織田信長に家督を譲ります。

その後、流行りの病にかかり、享年42歳で、この世を去りました。

墓所は、名古屋市中区の万松寺にあります。

 

織田信長の生まれた場所【勝幡城跡(しょばたじょうあと)】

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愛知県稲沢市に、勝幡城(しょばたじょう)跡があります。

織田信長は、1534(天文3年)の5月28日に、勝幡城で誕生します。

幼名は、吉法師(きっぽうし)と言いました。

 

織田信秀の父である織田信定(のぶさだ)は、尾張国の海西郡を治めた際に、勝幡城を築城した。

織田信定の後を継いだ、織田信秀(信長の父)は、今川氏がいた那古野城を攻め落とします。

その後、織田信秀は、那古野城を居城とします。

 

これまで、織田信長が生まれた場所は、那古野城(現在の名古屋城)説が有力でした。

しかし、近年では勝幡城で生まれた説が有力となっています。

織田信長は、主家の清州織田家を滅ぼし、清州城を手に入れます。

その後、拠点を清州に移すと、次第に勝幡の地は衰退し、勝幡城は廃城になりました。

 

現在、勝幡城跡には、城跡の石碑と案内看板、勝幡城復元図があります。

また、近くの名鉄勝幡駅には、織田信秀と土田御前に抱かれた幼少期の織田信長の銅像が建っています。

ちなみに、勝幡城は愛知県稲沢市にあり、勝幡駅は愛知県愛西市の住所になります。

勝幡城跡は、稲沢市と愛西市の境にあることになります。

勝幡城(しょばたじょう)跡

現在地:愛知県稲沢市平和町城之内105

アクセス:名古屋鉄道津島線「勝幡駅」下車 徒歩約10分

 

織田信長の生い立ち 【幼名・幼少期のエピソード】

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織田信長に関する書物に「信長公記(しんちょうこう)」があります。

織田信長の側近に太田牛一(おおたぎゅういち)という武士がいました。

この太田牛一が江戸時代初期(1600年ごろ)に、「信長公記」を書いたと言われています。

太田牛一は、信長の死後、丹羽長秀に右筆として仕え、その後、豊臣秀吉に仕えています。

 

織田信長は、父・織田信秀から那古野城を譲りうけ、信秀は古渡(ふるわたり)城に移っています。

幼少期には、津島(つしま)神社に通い学問を勉強したと伝わります。

 

また、叔父の織田信光(のぶみつ)がいた稲葉地(いなばじ)城の近くに、凌雲寺(りょううんじ)があります。

織田信長は、この凌雲寺で手習いをしたと言われ、草履を枝にかけて遊んだと言う「草掛けの松」が残っています。

少年期には奇妙な行動が多く、「おおうつけ」と呼ばれていました。

 

「うつけ」・・・まぬけ、ぼんやり、奇人などの意味。

 

1546(天文15)年、織田信長は13歳のときに、古渡城で元服(げんぷく)し、「三郎信長」と名乗ります。

翌年には、今川との戦いで、初陣を果たしています。

 

「信長公記」では、様々な織田信長の日常が記されいます。

 

・町中を歩きながら、栗や柿、瓜を食べ、立ったまま、餅を食べていた。

・人に寄りかかったり、人の肩にぶら下がって歩いていた。

 

当時の武士の子供のふるまいとして、行儀が悪いと思われていたでしょう。

 

織田信長の身なりの様子

・湯帷子(ゆかたびら)【現在の浴衣】を袖脱ぎ(肩脱ぎ)にしていた。

・はかまは、半袴(くるぶしまでの丈の袴)を履いていた。

・腰の周りに火打ち袋(現代のきんちゃく袋)を付けていた。

・髪は茶筅(ちゃせん)髷(茶道の茶筅に似た髪型)に、紅色や萌黄色の糸で巻いて縛っていた。

・朱鞘(しゅざや)の大刀を腰に差していた。

 

身なりも武士の子とは、思えないほど奇抜でした。

一方で、信長は弓の稽古や鉄砲の稽古、兵法の稽古、鷹狩りなどをしていました。

武士としての稽古は日々欠かさず、鍛錬していました。

 

その他にも、「信長公記」には幼少期のエピソードがあります。

 

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蛇替え(へびかえ)

織田信長は村人から、「あまが池という池に、大蛇が現れた」と聞きます。

自分で確かめるべく、あまが池の水をすべて汲み上げようとしました。

汲んでも水は一向に無くならず、織田信長は自ら池に潜り、大蛇を探します。

 

しかし、大蛇は発見することができず、諦めて帰ってしまいます。

その後、この池は、蛇池(じゃいけ)と呼ばれるようになりました。

 

実はこの池の近くには、佐々成政(さっさなりまさ)の居城・比良(ひら)城がありました。

佐々成政は、織田信長に逆心を抱いてるとの噂があり、織田信長はこれを確認するために来たと言われています。

信長を恐れた佐々成政は、仮病を使い、城に閉じこもっていました。

 

比良城では、佐々氏の家老・井口太郎左衛門が、城に入った信長を暗殺しようと企てていました。

しかし、織田信長は、比良城に寄らずに、清州にさっさと帰ります。

このエピソードは、窮地を逃れた信長が強運の持ち主として、記されています。

蛇池公園(じゃいけこうえん)

住所:愛知県名古屋市西区山田町大字比良

アクセス:JR比良駅から徒歩約6分

 

火起請(ひぎしょう)

火起請(ひぎしょう)とは、中世・近世の日本で行われた神判(裁判)の一種です。

赤く焼けた鉄を手に持ち、歩いて神棚の上まで持ち運びます。

それを実行できるかどうかの結果で、主張の当否を判断しました。

 

織田信長は、偶然、裁判の場に遭遇し、状況を問いただします。

被告の左介という人物が鉄片を取り損じ、本来なら有罪が判決されるところでした。

しかし、左介は池田恒興の被官であり、左介を庇おうと、不正が行われようとしていました。

 

織田信長は、「自分が火起請を取って成功すれば、左介を成敗する」と宣言します。

焼いた手斧をてのひらに乗せ、三歩先の棚に乗せるとことに成功した信長は、左介を成敗しました。

織田信長の、何でも自分で確かめる性格がわかります。

 

結婚

1548(天文17)年、織田信長15歳の頃、美濃国の大名・斎藤道三の娘である「帰蝶」と結婚します。

父・織田信秀は、美濃国である斎藤道三と和睦をし、政略結婚をさせました。

1551(天文20)年に、父である織田信秀が死去すると、信長は織田弾正忠家の家督を継ぐことになります。

 

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父・信秀の葬儀

織田信秀の葬儀は、織田家の菩提寺である万松寺(ばんしょうじ)で行われました。

尾張国中の僧侶を集めて、300人ほどの僧侶が参列し、大規模に葬儀は行われました。

しかし、葬儀が始まっても、織田信長の姿が見当たりません。

 

信長の弟である織田信行(信勝)は、正装をし、すでに参列しています。

喪主である信長は時間になっても全く現れなかったが、しばらくすると葬儀に現れました。

その姿は正装とは程遠い、茶筅髷で髪は乱れ、刀はしめ縄で巻き、袴も履はいていません。

 

突然、信長は焼香を掴んで、仏前に向かって、焼香(しょうこう)を投げつけました。

 

周囲の大人たちは、信長のとった行動に唖然とします。

この噂が広まり、信長の「おおうつけ」の評判は、各地に大きくなります。

信長が焼香を投げた理由については、明確になっていません。

 

一説には、父親の織田信秀に対して、「相続問題を解決してから逝け」という気持ちがあったとか。

「国内外に敵がいるのに、父の死を盛大な葬儀で宣伝している場合か」と怒りの気持ちがあったとか。

どちらの理由にせよ、織田家の行く末を思う強い心が、織田信長にはあったのではないでしょうか。

万松寺(ばんしょうじ)

住所:愛知県名古屋市中区大須3-29-12

アクセス:市営地下鉄名城線「上前津駅」から徒歩約5分

 

おわりに・・・

織田信長は、家督を相続した機に「上総守信長」を称するようになります。(のち「上総介信長」に変更)

ここから、織田信長の合戦の日々が始まります。

実力こそがすべての戦国時代では、負けることは許されません。

 

織田信長の最初の目標は、尾張国統一・・・。

 

織田信長は、尾張国内の敵である清州織田、岩倉織田との戦に挑むことになります。

 

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