戦国時代

織田信長ゆかりの地【織田信長のお城】

戦国時代、全国各地の大名たちは、数多くのお城を築きました。

お城は自らの力を誇示するためや、合戦に使用され、とても重要なものでした。

織田信長は、数々のお城を築城し、各地で合戦を繰り広げます。

 

織田信長の拠点としたお城は、どんなお城だったのでしょうか・・・。

今回は織田信長のゆかりのお城を紹介します。

 

勝幡城(しょばたじょう)【信長が生まれたお城】

この投稿をInstagramで見る

Sana(@sana4927)がシェアした投稿 -

愛知県稲沢市に、勝幡城(しょばたじょう)跡はあります。

1534(天文3年)の5月28日に、織田信長は勝幡城で誕生しました。

勝幡城についてはこちら

織田信長ゆかりの地【出身地・生まれた場所・幼少期】

続きを見る

 

勝幡城跡(しょばたじょうあと)

現在地:愛知県稲沢市平和町城之内105

アクセス:名古屋鉄道津島線「勝幡駅」下車 徒歩約10分

 

那古野城(なごやじょう)【信長幼少期のお城】

この投稿をInstagramで見る

S2T17(@s2t17)がシェアした投稿 -

愛知県名古屋市に那古野(なごや)城跡があります。

現在の名古屋城の二の丸跡に、那古野城跡の石碑が建っています。

当時、那古野は今川氏の一族・今川那古野家(いまがわなごやけ)の領地でした。

 

尾張の守護であった斯波義達(しばよしたつ)は、今川氏との戦いに敗れます。

那古野は、戦いに勝った今川氏の領地になります。

遠江(とおとうみ)守護・今川氏親(いまがわうじちか)は、那古野城の前身の「柳ノ丸」を築城します。

 

今川氏親は、今川那古野家の養子に入った今川氏豊(いまがわうじとよ)を那古野城主としました。

1532年(1538年説も)に、信長の父・織田信秀の計略により、今川氏豊は逃亡し、城を落とされます。

織田信秀はこの時に、お城の名前を「那古野城」と名付けたと伝わります。

 

昔から織田信長は、那古野城で生まれた説が有力でした。

しかし、近年では、勝幡城で生まれた説が有力になっています。

現在の名古屋城の三の丸跡に、那古野神社(亀尾天王社)がありました。

 

境内には安養寺(天王坊)という寺があったとされ、織田信長はここで学問を学んだと言います。

また、安養寺には、尾張人質時代の徳川家康もいたと言います。

織田信秀は、那古野城を息子の信長に譲り、古渡(ゆるわたり)城に移りました。

 

織田信長は清州城を奪い獲るまで、この那古野城を拠点に合戦をしていました。

ちなみに、那古野は地名として残っていますが、現在での読み方は「なごの」と読みます。

那古野城跡(なごやじょうあと)

住所:愛知県名古屋市中区本丸1-1 (名古屋城の敷地内)

アクセス:市営地下鉄名城線「市役所駅」から徒歩約5分

 

清洲城(きよすじょう)【織田氏本家のお城】

この投稿をInstagramで見る

風龍(Furyu)(@20.kumokaze.15)がシェアした投稿 -

愛知県清須市に、清洲城(きよすじょう)はあります。

尾張の守護・斯波義重(しばよししげ)は、守護所として清洲城を築城しました。

清州城は、守護である斯波氏の居城であり、尾張を代表するお城になります。

 

斯波氏の家臣である尾張守護代・織田大和守(おだやまとのかみ)家の居城でもありました。

清洲城と清洲の城下町は、尾張の中心地になり、発展を遂げます。

織田信秀が古渡(ふるわたり)城に拠点を移した時、清洲城の城主は、織田信友(のぶとも)でした。

 

織田信秀の死後、尾張の覇権争いは激しく動きます。

織田信長は、叔父の織田信光(のぶみつ)と共謀し、清洲城主の織田信友を調略により謀殺します。

それ以後、織田信長は清洲城を拠点とし、約10年間、清洲城を居城としました。

 

1562(永禄5)年には、清洲城で織田信長と徳川家康の間で同盟が結ばれ、これを「清州同盟」と言います。

この同盟により、織田信長は隣国である美濃を攻めることに、専念をできるようになりました。

徳川家康は今川・武田・北条などの強敵から、信長の力を借りることで、自国の三河を守ることができます。

 

織田信長が小牧山城に本拠を移すと、清洲城は番城となりました。

「番城(ばんじろ)」とは、城主を置かず、侍大将などを派遣して守備をさせる城のことです。

その後、信長の嫡男・織田信忠(のぶただ)が清州城の城主となります。

 

清洲会議(きよすかいぎ)

1582(天正10)年、織田信長と嫡男の信忠は、明智光秀によって殺害されます。

その後、清州城にて、織田家の家督や領地をどうするかの話し合いが行われました。

この話し合いを「清州会議(きよすかいぎ)」と言います。

 

織田信長の家臣・羽柴秀吉や柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が中心となり、織田家の今後の方針を決めます。

会議の結果、織田信長の嫡孫である「三法師(さんほうし)」が家督を継ぐことになりました。

しかし、三法師はまだ幼いため、後見人が必要になります。

 

後見人は、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)と信長の三男・織田信孝(のぶたか)になりました。

清州城は、尾張国を相続した信長の次男・織田信雄が城主となります。

織田信雄によって清州城は、2重の堀、大天守・小天守・書院などの造営がおこなわれました。

 

その後、清州城は、織田信雄→豊臣秀次(とよとみひでつぐ)→福島正則(ふくしままさのり)と城主を変えます。

1600(慶長5)年、関ケ原の戦いが勃発すると、清州城は東軍の後方拠点として使用されます。

戦後、安芸(あき)国に転封した福島正則の代わりに、徳川家康の四男・松平忠吉(まつだいらただよし)が入城しました。

 

松平忠吉が病気で亡くなると、徳川家康の9男・徳川義直(とくがわよしなお)が入城し、清洲藩の本拠とします。

徳川義直は江戸期の尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖となります。

尾張国の中心は、長らく清州城とその城下町でした。

 

清洲越し(きよすごし)

徳川家康は、大坂の豊臣家が最大のライバルであり、清洲城は豊臣家対抗の拠点のひとつと考えています。

その清州の町には、水害が多く、水攻めをされると兵糧を欠く恐れがあります。

清州城は天正地震で、液状化したことや、城郭が小規模の為、大量の兵を駐屯できない欠点がありました。

 

徳川家康の支持のもと、熱田台地の上に新たに城を築き、都市を開発することになります。

1610(慶長15)年から、清州の町から中心地が移動し、名古屋城の築城もはじまります。

これを「清州越し(きよすごし)」と言います。

清州城の一部は、名古屋城の築城の資材として利用されます。

名古屋城の完成と共に、清州城は廃城となりました。

 

現在の清州城は、1989(平成元年)年に、鉄筋コンクリートで造られた模造天守です。

清洲城跡には、JRの東海道本線と東海道新幹線が通っているため、敷地跡が2つに分断されています。

清洲公園には、織田信長の銅像と妻・帰蝶(きちょう)の銅像があり、清洲古城跡公園には、清州城跡の顕彰碑が建っています。

ちなみに、「清洲」と「清須」の漢字表記があります。

「信長公記」では「清洲」、「三河物語」では「清須」と記載されており、どちらも正しいようです。

清洲城(きよすじょう)

住所:愛知県清須市朝日城屋敷1番地1

アクセス:JR東海道本線「清洲駅」、名鉄本線「新清洲駅」徒歩約15分

 

小牧山城(こまきやまじょう)【美濃攻略拠点のお城】

この投稿をInstagramで見る

daiki(@d_castle_in_japan)がシェアした投稿 -

愛知県小牧市の小牧山に、小牧山城(こまきやまじょう)跡があります。

1563(永禄6)年、小牧山城は尾張の隣国・美濃を攻める拠点の城として築城されました。

織田信長は桶狭間の戦いに勝利したあと、清洲城にて、徳川家康と清洲同盟を結びます。

 

同盟を結んだことで信長は、尾張の東側の脅威に目を向けなくてもよくなりました。

織田信長は父・織田信秀も欲しがっていた美濃国を奪う為に、本格的に動き出します。

小牧山からは美濃方面を一望することができ、織田信長は美濃を常に見ることができました。

 

「定光寺(じょうこうじ)年代記」では、小牧山城は「火車輪城(かしゃりんじょう)」と記されています。

近年の発掘調査で、城郭を取り巻く、三重の石段が発見されました。

車輪を何重にも重ねたような城造りだったので、そう呼ばれたのでしょうか。

 

「信長公記」に清洲から小牧山の移転エピソードが記載されています。

 

小牧山移転エピソード

織田信長は、「清州から二ノ宮山(現犬山市)に城を移転しよう」と家臣たちに言いだします。

しかし、家臣たちは山中に家を建てることに不満をもち、迷惑だと思いました。

織田信長は家臣たちの不満を聞くと、今度は「小牧山に移ろう」と言います。

すると、家臣たちは二ノ宮山より小牧山のほうが、家財道具を運ぶのに便利な土地であるため喜びました。

織田信長は、人間の心理を理解して、うまく利用したというエピソードです。

これは、心理学用語で「ドア・イン・ザ・フェイス」とし、有名な法則としてあります。

 

織田信長が小牧山城を使用したのは、たったの4年間だけでした。

後世では、小牧城は、美濃攻略のための簡易的な城と考えられていました。

しかし、近年の発掘調査により、城の本丸を石垣で囲んだ本格的な城であったことが判明しました。

 

織田信長は美濃を落とすには、相当な時間がかかると考えていたと思います。

実際は、調略や戦いを繰り返し、思った以上に早く美濃が手に入った。

そのため、小牧山城に居城した期間が短くなったと思われます。

 

美濃の稲葉山城を手に入れた織田信長は、城下町を美濃に移転させたため、小牧城は廃城となりました。

織田信長死後のあと、1584(天正12)年、羽柴秀吉VS徳川家康により「小牧・長久手の戦い」が起きます。

徳川家康は小牧山城を本陣として使用し、羽柴秀吉を悔しがらせたと伝わります。

 

現在、小牧山城跡には「小牧市歴史館」として、小牧城が建っています。

この小牧城は、1962(昭和42)年に、実業家の平松茂氏が自らのお金で建設し、小牧市に寄贈しました。

この小牧城のモデルは、西本願寺の国宝・飛雲閣(ひうんかく)をモデルにして作られました。

小牧山城(こまきやまじょう)

住所:愛知県小牧市堀の内一丁目1番地

アクセス:名鉄小牧線「小牧駅」から徒歩約20分

 

岐阜城(ぎふじょう)【天下布武を掲げたお城】

この投稿をInstagramで見る

いもちゃん(@imoko78)がシェアした投稿 -

岐阜県岐阜市に岐阜城(ぎふじょう)があります。

「美濃を制する者は、天下を制す・・・」

これは、司馬遼太郎の「国盗り物語」の一文です。

 

美濃国は、東海道、中山道、伊勢街道、北国街道が交わる交通の要衝にあたります。

政治の中心の京都にも近く、木曽川・長良川・揖斐川が流れています。

 

また、濃尾平野は水郷地帯となっており、農業の豊かな土地でした。

織田信長は、この豊かな地である美濃を手に欲しかったのです。

 

斎藤氏時代

織田信長時代の以前の岐阜城は、「稲葉山城(いなばやまじょう)」という名前でした。

稲葉山城は、戦国大名・斎藤道三(さいとうどうさん)の城として有名でした。

織田信長の父・織田信秀は、何度か斎藤道三と戦い、負けています。

 

斎藤道三は長良川(ながらがわ)の戦いで、息子の斎藤義龍(さいとうよしたつ)に討たれます。

斎藤義龍も急死すると、その息子・斎藤龍興(さいとうたつおき)が稲葉山城の城主となりました。

 

斎藤龍興が城主の時、一度稲葉山城は竹中半兵衛(たけなかはんべえ)と安藤守就(あんどうもりなり)により占領されます。

竹中半兵衛は、のちに羽柴秀吉の軍師として有名になりました。

 

織田信長時代

織田信長にとっては、稲葉山城の城主が斎藤龍興になったことは幸運でした。

1567(永禄7)年、織田信長は「稲葉山城の戦い」で西美濃三人衆を調略し、斎藤龍興を逃亡させます。

織田信長は、念願の美濃を攻略し、稲葉山城を手に入れました。

 

この年、織田信長は中国の周(しゅう)王朝にちなんで、城と町の名前を「岐阜」と改めました。

織田信長は岐阜城を拠点とし、さらなる領地拡大に向けて、戦いを繰り広げます。

1576(天正4)年、織田信長は、長男である織田信忠(のぶただ)に家督を譲ります。

 

その際、織田信忠に美濃・尾張の2か国を譲り、岐阜城も信忠のものとなりました。

岐阜城の天守は、信長時代、高層建築ではなく、平屋の建物だったと言います。

岐阜城の高層建築の天守が作られたのは、織田信忠時代との説があります。

 

羽柴秀吉時代

「本能寺の変」で明智光秀により、信長と信忠が討たれます。

岐阜城は、留守居役であった斎藤道三の子・斎藤 利堯(さいとう としたか)によって奪われます。

しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れたため、斎藤 利堯は信長の次男・織田信孝(のぶたか)らに服従しました。

 

その後、織田信孝は岐阜城主となりましたが、羽柴秀吉により自害させられます。

織田信孝のあと、池田恒興(いけだつねおき)の息子・池田大助(だいすけ)が岐阜城主となります。

「小牧・長久手の戦い」で、池田親子が戦死すると、岐阜城の城主は、池田恒興の次男・池田輝政(てるまさ)となります。

 

織田秀信時代

その後、岐阜城は池田輝政から、豊臣秀勝(とよとみひでかつ)→織田秀信(ひでのぶ)と城主が変わります。

織田秀信は、信長の甥で、信忠の嫡男です。(清洲会議では、「三法師」と呼ばれていた)

1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いの前哨戦として、「岐阜城の戦い」が起こります。

 

織田秀信は、石田三成(いしだみつなり)率いる西軍に味方しました。

東軍の福島正則(ふくしままさのり)や池田輝政に攻められ、岐阜城は落城します。

織田秀信は、弟の秀則(ひでのり)と共に自刃しようとしたが、池田輝政の説得により降伏します。

 

 

その後、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌(おくだいらのぶまさ)に加納(かのう)城を築城させました。

加納城の築城の際には、岐阜城の天守や櫓、石垣などが使われました。

加納城ができたことにより、岐阜城は役目を終え、廃城となりました。

 

現在の岐阜城は、1956(昭和31)年に、鉄筋コンクリート建築の3層4階建てとして建てられました。

岐阜城には、岐阜公園内から山頂まで出ているロープウェーで行くことができます。

また、いくつかの登山口もあり、登山を楽しめます。

七曲登山道(大手道)は、ルイス・フロイスや公家の山科 言継(やましなときつぐ)が登った道でもあります。

岐阜城(ぎふじょう)

住所:岐阜県岐阜市金華山天守閣18

アクセス:JR岐阜駅からバスで15分「岐阜公園歴史博物館前」下車すぐ

 

安土城(あづちじょう)【信長終焉のお城】

この投稿をInstagramで見る

さこ(@y_sakotch)がシェアした投稿 -

滋賀県近江八幡市に安土城跡(あづちじょう)があります。

1576(天正4)年、織田信長は、総普請奉行(そうふしんぶぎょう)に丹羽長秀に命じ、安土山に築城を開始します。

安土城は、約3年間かけて築城し、1579(天正7)年に完成しました。

 

織田信長がこの地を選んだ理由は、政治の中心である京都が近いことが大きいと思われます。

また、近江は交通の要衝として重要な拠点であり、琵琶湖(びわこ)が近く、水運などの輸送にも便利でした。

「信長公記(しんちょうこうき)」の著者・太田牛一(おおたじゅういち)は、安土城の感想を書いています。

 

「この光り輝くほどの栄華は、言い尽くせない」と言葉にしています。

安土城は、絢爛豪華(けんらんごうか)な様子であり、まさに信長の天下布武を象徴するお城でした。

また、イエズス会の宣教師のルイス・フロイスは、「ヨーロッパでも見たことがないほどの壮大さである」と語っています。

 

安土城の山頂の天守には城主である信長が起居し、家族も本丸付近で生活していました。

また、山腹や城下には、信長の家臣たちの屋敷がありました。

その姿は、5層7階(地上6階・地下1階)であり、天主は金色に輝き、下階は朱色の八角堂の造りでした。

 

天主の内部は、黒のうるし塗りで、華麗な障壁画(しょうへきが)が飾られていました。

天主から少し下にある本丸御殿(ほんまるごてん)跡には、天皇を招くための施設があったと言います。

「信長公記」には、「御幸(みゆき)の間」「皇居の間」と書かれています。

調査の結果、京都御所内にある天皇の住居「清涼殿(せいりょうでん)」と、酷似した構造になっていたことが判明しました。

 

また、織田信長は城郭内に、摠見寺(そうけんじ)を建立し、自らの菩提寺としました。

そんな絢爛豪華な安土城でしたが、わずか6年間で焼失します。

この焼失の原因はいくつかの説があります。

 

焼失の原因

山崎の戦いの時、明智光秀の家臣・明智秀満(あけちひでみつ)が、敗走の際に放火した説。

(出火があった日に、明智秀満は坂本城にいたと「兼見卿記(かねみきょうき)」にある)

織田信雄(おだのぶかつ)が、明智秀満の残党を追い出すために火を放ったとの説。

(焼失しているのは、天主、本丸付近だけであり、城下からの焼失は、考えにくい)

野盗や土民が略奪目的で侵入し、放火した説。

落雷によって焼失した説。

 

どの説が正しいかは、明らかになっていませんが、絢爛豪華な安土城を失ったのは、とても残念なことです。

 

安土城は、山崎の戦い後、信長の嫡孫・織田信秀が清州会議のあとに入城するなど、二の丸を中心に使用されました。

その後、豊臣秀吉の養子・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)が近江に、八幡山(はちまんやま)城を築城します、

そのため、安土城は廃城されたと言います。

 

もし、安土城が現代に残っていたら、日本を代表するお城になっていたでしょう。

安土城跡の近くには、「信長の館」という施設があり、館内では安土城の復元天守を観ることができます。

安土城跡(あづちじょうあと)

住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦

アクセス:JR琵琶湖線「安土駅」から徒歩約 25分

 

おわりに・・・

今回は、織田信長ゆかりのお城を紹介しました。

尾張から始まり、美濃を経由し、最後は近江の安土で終焉を迎えました。

これまでの戦国大名は、拠点となるお城、居城を変えませんでした。

 

織田信長は、他の戦国大名とは違い、居城をいくつも移り変えました。

織田信長の土地を見極める能力や、目的遂行のための俊敏な行動力が結果を生み出しました。

このような戦略を持った織田信長だったからこそ、各地の大名を撃破できたのではないでしょうか。

 

しかし、織田信長は天下統一を目の前にして、この世を去ります・・・。

 

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまえば、世を治めることは出来ない)

 

これは武田信玄の有名な言葉です。

織田信長は、安土城という日本一の豪華なお城をつくりました。

しかし、家臣である明智光秀の心は、織田信長から離れていました。

 

その結果、織田信長は世を治めることができませんでした・・・。

織田信長は謀反に遭い、信長の弟や孫たちは、当時の織田家の栄光から没落します。

織田信長は武田家を滅ぼしましたが、皮肉にも武田信玄の言葉通りになってしまいました。

 

この投稿をInstagramで見る

庄田修(@asumo727)がシェアした投稿 -

みなさん、三重県伊勢市に「安土城」があることをご存じでしょうか・・・。

三重県伊勢市にある「旧・伊勢戦国時代村」には、安土城がそびえ建っています。

東海三県の人には、お馴染の施設です・・・。

 

伊勢戦国時代村から「伊勢・安土桃山文化村」と名前を変え、現在では「伊勢忍者キングダム」と名称を変更しています。

伊勢忍者キングダム・・・、全く馴染みがない名前になってしまった・・・。

名前からして、完全に外国人をターゲットに変更ですね(笑)。

 

どうやら現在、経営の会社が変わり、大幅なリニューアルをしているとのことです。

リニューアルの目玉は、安土城を泊まれる宿泊施設に改築するとのこと。

しかし、その値段はなんと・・・、1泊500万円!!

500万ルビーではないですよ・・・。

あなたも500万円で織田信長になって、天下布武を掲げよう!!

 

-戦国時代

© 2024 歴史の未来ブログ Powered by AFFINGER5