織田信長は諦めず、何度も攻め続けた結果、ついに念願の美濃国を手に入れました。
勢いに乗った織田信長は、次なる目標に向かいます・・・。
一方、日本の政権の中心である京(京都府)にて、事件が起きました。
織田信長が美濃を治める、2年前の1565(永禄8)年・・・。
京で権勢を誇っていた三好(みよし)氏により、室町幕府・第13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)が殺害されました。
足利義輝の弟に、奈良の興福(こうふく)寺の仏門に入っていた「覚慶(かくけい)」がいます。
この覚慶がのちに、室町幕府・第15第将軍となる足利義昭(よしあき)です。
足利義昭は奈良を脱出し、近江国(滋賀県)、若狭国(福井県)を経て、越前(福井県)国に落ち延びます。
越前の国主・朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼りに、足利義昭は将軍になることを決めます・・・。
しかし、朝倉義景は隣国の情勢関係で、足利義昭を上洛させることができませんでした。
足利義昭は、頼りにならない朝倉の代わりに、尾張・美濃を制圧している織田信長に、上洛の助けを求めたのでした・・・。
目次
観音寺城(かんのんじじょう)の戦い 【京都上洛戦】
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1568(永禄11)年、近江国(滋賀県)で、「観音寺城(かんのんじじょう)の戦い」が起こります。
観音寺城の戦いは、箕作城(みつくりじょう)が主戦場であったため、「箕作城の戦い」とも言われます。
1568(永禄11)年、織田信長は美濃の立政寺(りゅうしょうじ)で、足利義昭と会見しました。
織田信長は室町幕府再興のため、足利義昭を伴い、京に上洛することを決めます。
近江(おうみ)国の情勢
北近江の京極(きょうごく)氏は、家臣である浅井(あざい)氏に追放されると、代わりに浅井氏が北近江で権勢を持ちます。
当主の浅井長政(ながまさ)は、近江国内で敵対する南近江の六角(ろっかく)氏との間で、領地争いが起きます。
そこに、美濃の攻略中の織田信長から同盟の誘いがあり、浅井長政はこれを承諾し、織田信長と同盟を組みます。
同盟の証として、浅井長政は信長の妹・お市(いち)を妻とし、信長の一字を拝領し、「長政」と名前を変えます。
それに対して、南近江の六角氏の当主・六角義賢(ろっかくよしかた)は、京で権勢を誇っている三好氏と手を組みます。
六角義賢は三好氏と共に、織田信長の上洛を阻止しようとしていました。
織田軍・浅井軍・足利義昭VS六角軍・三好軍の構造が出来上がります。
上洛のため織田信長は岐阜城を出陣し、近江国の佐和山(さわやま)城に着陣します。
織田信長は六角義賢とその嫡男・義治(よしはる)に、「足利義昭の上洛を助けるように」と使者を送ります。
しかし、六角親子は織田信長の誘いを拒否します。
協力を拒否された織田信長は、六角親子との戦いは避けられないとし、軍勢を率いて攻撃の準備をします。
同盟国の徳川家康の軍勢や浅井長政の軍勢も加わり、織田軍の兵数は5万から6万と膨れ上がります。
六角親子は観音寺城を本陣とし、和田山(わだやま)城に6千の兵を置きます。
箕作(みつくり)城には、3千の兵を配置します。
また、近辺の18の支城にも、兵をちりばめて、軍勢を整えます。
織田信長は、軍勢を3隊に分担します。
第1隊・稲葉良通の軍・・・和田山城を攻撃
第2隊 柴田勝家・森可成軍・・・観音寺城を攻撃
第3隊 織田信長・滝川一益・丹羽長秀・木下秀吉(豊臣秀吉)・・・箕作城を攻撃
織田信長率いる第3隊は、箕作城を攻撃し、両軍は激突しました。
箕作城の六角軍の守りは固く、織田軍は次第に追い崩されてしまいます。
織田信長は一旦、軍議を開き、木下秀吉が夜襲を決行することになる・・・。
木下秀吉は数百本のたいまつを用意し、50箇所に一斉に火をつけ、火責めを開始します。
夜襲に驚いた六角軍は、軍が乱れ、次第に敗走し、箕作城は落城しました。
箕作城の落城を知った和田山城にいる六角軍も、戦わずに逃亡します。
たった一日足らずで、2つの城が落城したことは、六角義賢にとっては大誤算・・・。
六角義賢・義治親子は、防御に弱い観音寺城を捨て、甲賀へ逃走します。
六角氏の18の支城は、ほとんどが織田軍に降参ましたが、一つの支城だけは降伏をしませんでした。
日野(ひの)城を守備する六角家の家臣・蒲生堅秀(がもうかたひで)は、1千の兵で籠城し、抵抗を続けます。
織田信長は、蒲生堅秀の妹を妻にしていた神戸具盛(かんべとももり)を城に派遣し、蒲生堅秀を説得させます。
その結果、蒲生堅秀は城を開城し、人質を差し出し、織田信長に忠誠を誓います。
この人質こそが、息子である蒲生氏郷(うじさと)であり、のちに会津92万石を領し、大大名となります。
六角親子を追放した織田信長は、足利義昭と共に京に入ります。
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京に入った織田信長は、近辺の敵対勢力の城を次々と落城させます。
・山城国(京都府)
勝龍寺(かつりゅうじ)城・・・岩成友通(いわなりともみち)を逃亡させる。
・摂津国(大阪府)
芥川山(あくたがわやま)城・・・三好長逸(みよしながやす)を逃亡させる。
越水(こしみず)城・・・篠原長房(しのはらながふさ)を逃亡させる。
池田(いけだ)城・・・池田勝正(いけだかつまさ)を降伏させる。
三好三人衆の軍勢を追い払った織田信長は、畿内を支配下に置きました。
こうして足利義昭は、織田信長の協力のもと、室町幕府・第15第征夷大将軍に就任しました。
1569(永禄12)年、織田信長が美濃に帰還した隙に、足利義昭の仮御所である本圀寺(ほんこくじ)が襲撃されます。
この出来事を、「本圀寺の変」または、「六条合戦」と言われます。
足利義昭を襲撃したのは、三好三人衆と信長に敗れ、浪人だった斎藤龍興(さいとうたつおき)でした。
しかし、織田家の家臣・明智光秀などの活躍や、畿内各地の織田勢の援軍により、三好・斎藤軍は織田信長の到着を待たずに敗退しました。
織田信長はこれを機に、烏丸中御門第(からすまるなかみかどだい)【旧二条城】を整備し、大規模な城郭風としました。
これにより、室町幕府は完全に、再興されたことになりました。
観音寺城跡(かんのんじじょうあと)
住所:滋賀県近江八幡市安土町石寺
アクセス:JR琵琶湖線「安土駅」から徒歩約40分
本圀寺(ほんこくじ)
住所:京都府京都市山科区御陵大岩6
アクセス:京都市営地下鉄東西線「御陵」駅から徒歩約10分
大河内城(おかわちじょう)の戦い 【伊勢国侵攻】
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1569年、伊勢国(三重県)で、「大河内城(おかわちじょう)の戦い」が起こります。
織田信長は美濃の攻略と同時に、伊勢国を制圧するため、着々と行動をしていました。
伊勢国の情勢
伊勢国はこの時代、4つの勢力に分けられていました。
伊勢南部・・・北畠氏の当主・北畠具教(きたばたけとものり)が支配
伊勢中部の安濃(あのう)郡・・・長野一族と工藤一族が支配
伊勢中部の鈴鹿郡(すずか)郡・・・関一族が支配
伊勢北部の四日市(よっかいち)周辺・・・「北勢四十家」と呼ばれた各地の豪族たちが支配
1567(永禄10)年、織田信長は家臣の滝川一益(たきがわかずます)を大将とし、北伊勢を攻めていました。
織田信長は北勢四十家の豪族たちを、戦わずに降伏させます。
翌年、神戸城主・神戸具盛(かんべとももり)に、信長の三男・織田信孝(のぶたか)を養子とし、家督を譲ることで従属させます。
さらに、長野城主・長野具藤(ながのともふじ)に、信長の弟・織田信包(のぶかね)を養子とし、家督を譲ることで従属させます。
織田信長は北伊勢の八郡を手中に治め、南伊勢5郡を支配する北畠(きたばた)家と対決することになります。
北畠家の当主は、息子の北畠具房(ともふさ)ですが、実権は隠居した具房の父・北畠具教(とものり)が握っていました。
1569(永禄12)年、織田信長は7万の軍勢を率いて岐阜城を出陣し、木造(こつくり)城に着陣します。
対する北畠具教は、1万6千の軍勢を支城と大河内(おかわち)城に分散させ、籠城をします。
織田軍の木下秀吉軍は、阿坂(あざか)城を攻撃して落城させました。
織田信長は大河内城を包囲し、夜襲を計画します。
丹羽長秀、池田恒興、稲葉良通に命じますが、大雨の影響で鉄砲が使えなくなり、逆に北畠軍に返り討ちにされました。
滝川一益は3千の兵を率いて、「まむし谷」と呼ばれた城の裏手から攻撃をしかけます。
「マムシ谷」は、まむしを放ったことからその名が付いたと伝わります。
決死の覚悟の北畠軍の猛攻撃により、滝川一益軍は総崩れとなり撤退を余儀なくされます。
この戦いにより、兵士の血が川のように流れたことから、「まむし谷の血決戦」と呼ばれました。
織田信長は作戦を兵糧攻めに変更し、滝川一益に多芸(たげ)城【霧山城】を焼き討ちさせます。
伊勢国での戦いは50日におよび、織田信長は籠城を続ける北畠具教に和睦を提示します。
和睦の条件
織田信長の次男・茶筅丸(ちゃせんまる)【織田信雄】を養子とし、家督を継がせること。
大河内城を明け渡し、北畠親子は他の城へ退去すること。
北畠具教は和睦を受け入れ、織田信長は伊勢国を支配しました。
その後、三瀬(みせ)の館【三重県多気郡】に移った北畠具教は、隠居生活を送ります。
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北畠具教は、織田信長と和睦をしましたが、信長に心服していない様子でした。
そのため、密かに、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)が上洛の際、「船を出して協力する」という密約を結びました。
このことを知った織田信長は、激怒し、北畠一族の抹殺を実行します・・・。
「三瀬(みせ)の変」
織田勢は三瀬御所を包囲し、北畠具教を殺害します。
さらに北畠具教の四男・五男も殺害され、北畠家の家臣14人も殺害されました。
織田信雄の居城・田丸(たまる)城でも、北畠家の家臣を呼び出し、具教の次男・三男を殺害しました。
北畠具教の長男・具房は3年間幽閉され、幽閉を説かれた直後、死去したと伝わります。
こうして北畠家は滅亡し、戦国時代から名を消します。
大河内城跡(おかわちじょう跡)
住所:三重県松阪市大河内町
アクセス:JR松坂駅からバスで約20分
三瀬御所跡(みせごしょあと)
住所:三重県多気郡大台町上三瀬 大戸 地
アクセス:JR紀勢本線「三瀬谷駅」から徒歩約25分
金ヶ崎(かねがさき)の戦い(金ヶ崎の退(の)き口) 【信長最大の危機】
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1570(元亀元)年、越前国(福井県敦賀市)で「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」【金ヶ崎の退き口】が起こります。
越前の朝倉孝景(あさくらたかかげ)は、織田信長の再三の上洛要請を無視していました。
織田信長は、若狭(わかさ)国(福井県)の武藤友益(むとうともます)を攻める口実で、越前侵攻を決めます。
約3万の軍勢を率いた織田信長は、京都を出陣。
織田方の若狭武田氏の家臣・粟屋勝久(あわやかつひさ)の居城・国吉(くによし)城に入城します。
織田信長は、敦賀(つるが)にある寺田采女正(てらだうねめのしょう)の居城・天筒山(てづつやま)城に攻撃を開始。
天筒山城で両軍は激突し、信長軍の森可成(よしなり)の嫡男・森可隆(よしたか)が討死します。
織田軍は天筒山城を落城させると、金ヶ崎城に籠る朝倉景恒(あさくらかげつね)に降伏勧告を出します。
朝倉景恒は降伏を受け入れ、織田信長に金ヶ崎城を開け渡しました。
ここで織田信長に、信じられない情報が入ります・・・。
同盟国である北近江の「浅井長政(あざいながまさ)が裏切った」という情報でした。
浅井長政は、織田信長の妹・お市(いち)を妻としています。
織田信長は、この情報を信じようとしませんでしたが、次第に浅井長政の裏切りは真実だったと確信します。
このままでは、織田軍は北近江と越前国から、挟み撃ちをされ、潰される危険性があります。
織田信長はすぐさま、京の都へ、撤退を開始します。
「朝倉家記(あさくらけき」に、信長の妹・お市の逸話があります。
袋の小豆(あずき)
お市は兄の織田信長に手紙の代わりに、陣中見舞いとして「袋の小豆(あずき)」を送りました。
袋の中には小豆が入っており、袋の上下はひもで縛られています。
これは朝倉と浅井に「挟み撃ち」をされることを意味します。
これを知った織田信長は、事態を確信し、撤退を決意したと伝わります。
織田軍は撤退を開始し、撤退軍の殿(しんがり)には、木下秀吉が務めたと「信長公記」にあります。
近年の調査によると、池田勝正が殿軍を率いて追撃を撃退し、木下秀吉は殿の一武将として、功をあげたとされています。
殿(しんがり)とは?
本隊が撤退する際、敵の追撃を阻止し、本隊を守りつつ、後退しながら戦う任務。
最も危険な任務であり、信頼が高い武将や、優れた武将が任される大役。
織田信長は若狭(わかさ)街道を南下し、熊川(くまがわ)に出て、朽木(くつき)街道に入ります。
朽木領主・朽木元網(くつきもとつな)の手引きにより、朽木城に入ります。
翌日、朽木元網の護衛で朽木越えをし、京都へ逃げ延びることができました。
浅井長政、許すべからず・・・。
怒りに満ちた織田信長は、裏切った浅井長政の討伐をするため、戦の準備に取りかかります。
金ヶ崎城跡(かねがさきじょうあと)
住所: 福井県敦賀市金ケ崎
アクセス:JR敦賀駅からバスで15分
野洲河原(やすがわら)の戦い 【瓶(かめ)割り柴田】
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1570(元亀元)年、近江国の落窪(滋賀県野洲市)で「野洲河原(やすがわら)の戦い」が起こります。
野洲河原の戦いは、別名「落窪(おちくぼ)合戦」とも言います。
越前から撤退した織田信長は、京都に入り、体制を整えるため岐阜に向かいます。
しかし、六角義賢(ろっかくよしかた)・義治(よしはる)親子が、甲賀武士と共に、織田軍の前に立ちはだかりました。
観音寺城の戦いで織田信長に敗れた六角親子は、伊賀に逃れ、信長の隙をうかがっていました。
織田信長は近江一体に、各武将を配置していました。
宇佐山(うさやま)城・・・森可成(もりよしなり)が入城
永原(ながはら)城・・・佐久間信盛(さくまのぶもり)が入城
長光寺(ちょうこうじ)城・・・柴田勝家(しばたかついえ)が入城
安土(あづち)城・・・中川重政(なかがわしげまさ)が入城
織田軍の柴田勝家と佐久間信盛は、六角軍と野洲河原で激突します。
戦いの末、織田軍は780人を討ち取ったと言います。
柴田勝家が守る長光寺城でも戦いがあったと伝わり、「瓶(かめ)割り柴田」の逸話が残っています。
「瓶(かめ)割り柴田」の逸話
長光寺城は、城内からは水が出ず、背後の谷から水を引いている状態でした。
そのことを知った六角義賢は、家臣の平井甚助に水源を止めさせます。
柴田勝家は、城内に残った水を入れた瓶(かめ)を三つ並べ、家臣に言います。
「このままでは渇いて死ぬだろう・・・。」
「力があるうちに戦いをしよう!!」
柴田勝家は家臣に水を飲ませると、三つの水瓶を打ち割ります。
水の貯えがなくなった柴田軍は、背水の陣となり、城外に打って出てます。
その勢いで、六角氏の旗本を切り崩し、六角勢を討ち取ったと伝わります。
長光寺城跡(ちょうこうじじょうあと)
住所:滋賀県近江八幡市長光寺町
アクセス:近江鉄道八日市線「武佐駅」から徒歩約5分
姉川(あねがわ)の戦い 【浅井・朝倉連合軍VS織田・徳川軍】
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1570(元亀元)年、近江国の姉川河原(滋賀県長浜市)で、「姉川(あねがわ)の戦い」が起こります。
浅井・朝倉軍の挟撃から逃げ延びた織田信長は、岐阜に戻り、体制を整えていました。
織田信長は軍勢を揃え、岐阜を出発し、近江の虎御前山(とらごぜやま)に布陣します。
小谷城の城下町に火をかけ、一旦、軍勢を後退します。
浅井軍が守る姉川の南に位置する横山(よこやま)城を包囲し、織田信長は竜ヶ鼻に布陣しました。
その後、徳川軍が合流し、徳川家康も竜ヶ鼻に布陣します。
浅井軍にも朝倉景健(あさくらかげたけ)の援軍が到着し、大依山(おおよりやま)に布陣します。
浅井長政軍は野村、朝倉軍は三田村へと軍を進めました。
そして、両軍は姉川を挟んで、激突しました。
朝倉軍と徳川軍の衝突で戦いは始まり、徳川軍に猛攻をしかけた朝倉軍が優勢となります。
しかし、「徳川四天王」と呼ばれた榊原康政(さかきばらやすまさ)が朝倉軍の側面を突いたことで、形勢が逆転します。
浅井軍と織田軍の間でも衝突がはじまり、浅井軍が優勢となり、攻撃を続けます。
しかし、織田軍の西美濃三人衆の側面からの攻撃や、徳川軍の加勢により浅井軍は敗走します。
織田・徳川軍が1100余りの連合軍を討ち取り、戦いに勝利しました。
兵士たちの血で染まった川や野原は、「血川」や「血原」という地名が付くほどの、激しい戦いがあったことを示しています。
織田信長は深追いせずに、横山城下へ後退し、横山城を落城させます。
横山城の城番として、木下秀吉を配置しました。
浅井長政はこの戦いで、重臣の遠藤直経(えんどうなおつね)や弟の浅井政之(あざいまさゆき)をはじめ、多く武将が戦死しました。
朝倉軍もまた、真柄直隆(まがらなおたか)、息子の隆基(たかもと)、弟の直澄(なおすみ)が戦死しました。
織田軍では、先鋒を務めた坂井 政尚(さかいまさひさ)の息子・坂井尚恒(ひさつね)が戦死しています。
姉川の戦いには、逸話が残っています。
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員昌の姉川十一段崩し 【浅井三代記(あさいさんだいき)】
磯野員昌(いそのかずまさ)は、浅井軍の先鋒を務めた精鋭部隊の一員でした。
織田軍は縦に段を重ねた布陣をとっていました。
磯野員昌は織田軍に突撃し、織田軍の先鋒・坂井正尚を打ち破り、二段目の池田恒興の陣も打ち破ります。
さらに、三段目の木下秀吉を打ち破り、四段目の柴田勝家の陣も突破しました。
勢いは止まらず、最終的には13段の構えの内、11段まで打ち破る猛攻を見せたと言います。
のちに、「員昌の姉川十一段崩し」と言われるようになりました。
北国の豪傑・真柄直隆(まがらなおたか) 【甫庵信長記(ほあんしんちょうき)】
朝倉家の家臣に真柄直隆(まがらなおたか)という人物がいました。
真柄直隆は、5尺3寸(約175cm)の刀「太郎太刀(たろうたち)」を振り回して、戦場を駆け巡っていました。
朝倉軍が敗戦濃厚となると、味方を逃がすため、単騎で徳川軍に突入します。
徳川軍の12段構えの布陣のうち、8段まで打ち破ったと言います。
徳川軍の匂坂(さぎさか)三兄弟が立ち塞がり、真柄直隆の攻撃を食い止めます。
三人の攻撃により真柄直隆は力尽き、「我の首を取り、御家の手柄にせよ」と言い、首を献上したと言います。
真柄直隆を討ち取った刀は、「真柄斬り」と名付けられ、名刀の一つになったと伝わります。
真柄直隆の刀「太郎太刀」は、現在、名古屋市にある熱田神宮(あつたじんぐう)の宝物館に奉納されています。
また、石川県の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)に、奉納されている説もあります。
忠臣・遠藤直経(えんどうなおつね) 【浅井三代記】
織田軍に総崩れにされた浅井軍は退却します。
浅井政長の重臣・遠藤直経は、「せめて信長の首だけでも獲ってやる」と、信長の暗殺を謀ります。
遠藤直経は、戦死した浅井軍の三田村佐衛門の首級を持ち、織田軍の武将に見せかけ、信長本陣に入り込みます。
信長の数十メートルまで近づきますが、竹中半兵衛の弟・竹中重矩(たけなかしげのり)に見破られ、捕まり斬首されました。
竹中重矩は以前、兄と共に浅井家の客分として家中にいた時期がありました。
浅井家の重臣・遠藤直経の顔を知っていたため、見破ることができたと言います。
あと一歩のところで遠藤直経は、無念の死を遂げました。
姉川古戦場(あねがわこせんじょう)
住所:滋賀県長浜市野村町
アクセス:JR北陸本線「長浜駅」からバスで15分
遠藤直経の墓(えんどうなおつねのはか)
住所:滋賀県長浜市垣籠町565
アクセス:姉川古戦場から徒歩約20分
野田(のだ)城・福島(ふくしま)城の戦い 【三好三人衆との戦い】
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1570(元亀元年)、摂津(せっつ)国の中嶋(大阪府大阪市)で、「野田(のだ)城・福島(ふくしま)城の戦い」が起こります。
野田城・福島城の戦いは、別名「第一次石山(いしやま)合戦」とも言います。
織田信長によって、京から追われた三好三人衆は、織田信長への反撃を狙っていました。
三好(みよし)氏の情勢
三好慶長(よしなが)は、主君であった細川晴元(ほそかわはるもと)を京から追放し、幕政の実権を握ります。
三好氏全盛期には、京や畿内を支配下に置き、10か国以上の領地を持っていました。
三好慶長の死後、甥の三好義継(よしつぐ)が家督を継ぎますが、若年だったことから、後見役をつけることになります。
後見役に選ばれたのが、慶長の重臣・松永久秀(まつながひさひで)と三好三人衆でした。
三好三人衆(みよしさんにんしゅう)
三好長逸(みよしながやす)
三好三人衆の筆頭格であり、慶長時代からの重臣で、慶長の従叔父にあたる。
初期の三好政権では、慶長に最も頼りにされていた。
三好宗渭(みよしそうい)【政康・政勝・政生】
父である三好政長(まさなが)は、江口の戦いで慶長によって討死しますが、後年、慶長の家臣となり勢力拡大に貢献した。
旧細川氏の家臣団とのパイプ役でもある。
岩成友通(いわなりともみち)
長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を任された。
松永久秀と並ぶ、家臣団の代表にあたる。
1565年(永禄8)年、三好三人衆は13第将軍・足利義輝(よしてる)を謀殺しました。【永禄の変】
三好三人衆は、足利義輝の弟・義栄(よしひで)を次期将軍に就かせるように計画します。
また、三好政権の実権を握る松永久秀を、三好家から排除しました。
三好三人衆は、三好家の家督を継いだ三好義継の扱いをないがしろにしたため、義継は松永久秀のもとに脱出をします。
筒井(つつい)氏と同盟を組んだ三好三人衆は、松永久秀との間で「東大寺大仏殿の戦い」を起こします。
松永久秀と三好義継は、三好三人衆を京から追い出すために、織田信長の上洛に協力しました。
織田信長が上洛すると、三好三人衆は、阿波国へ逃亡しました。
浅井長政、朝倉義景と対峙している織田信長の隙をつき、三好三人衆は摂津国に進軍します。
摂津国の荒木村重(あらきむらしげ)と池田知正(いけだともまさ)は、三好三人衆と結託しました。
三好三人衆は、摂津国中嶋に進軍し、野田城と福島城を築城しました。
三好三人衆のもとには、細川昭元(あきもと)や、紀伊国の鈴木孫一(まごいち)率いる雑賀衆の援軍も加わり、総勢1万5千の軍勢となります。
それに対し、織田勢の松永久秀・久通(ひさみち)親子は、三好三人衆の進軍に備えます。
また、足利義昭は畠山昭高(はたけやまあきたか)を出陣させ、紀伊・和泉国の兵を集結し、三好三人衆と対峙しました。
三好三人衆は、三好義継の居城であった古橋(ふるはし)城や、榎並(えなみ)城を落城させます。
この報を受けた織田信長は、岐阜城を出発し、京都経由で、天王寺(てんのうじ)に着陣しました。
三好三人衆のもとに、阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・淡路(あわじ)から、援軍が到着します。
織田信長は、天満が森(大阪市)に摂津の地理に詳しい、三好義継・松永久秀・和田惟政(わだこれまさ)を主力軍として配置します。
三好政勝(まさかつ)、香西長信(こうざいながのぶ)を調略した織田信長は、細川藤腎(ふじかた)のいる中嶋城へ着陣しました。
織田軍は野田城・福島城の対岸に、桜岸砦と川口砦を築き、浦江(うらえ)城を落城させ、これも砦とします。
織田軍に、雑賀(さいか)衆と根来(ねごろ)衆の2万の軍勢が援軍に加わり、激しい銃撃戦がおこなわれました。
織田軍は、畠中(はたけなか)城を落城させ、劣勢に立たされた三好三人衆は、和平を申し込むが、織田信長はこれを拒否し、徹底攻撃を続けます。
しかし、ここで状況は一変します・・・。
中立を保っていた顕如(けんにょ)率いる石山本願寺(いしやまほんがんじ)の僧兵が、織田軍に襲いかかります。
織田軍は顕如軍により、せき止めていた防堤を打ち破られ、砦が海水に浸り、身動きが取れなくなります。
さらに、織田信長に不運が続きます・・・。
近江国で浅井・朝倉連合軍、顕如の要請を受けた延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵たちが、織田信長の背後を突くため、進軍を開始しました。
織田信長が去った跡、三好三人衆の軍は、阿波・讃岐から援軍が到着し、野田城・福島城に入城していました。
野田城跡(のだじょうあと)
住所:大阪府大阪市福島区玉川4丁目11
アクセス:大阪市営地下鉄千日前線「玉川駅」から徒歩約5分
志賀(しが)の陣 【信長包囲網発動】
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宇佐山城の戦い
浅井・朝倉連合軍は、摂津で交戦中の織田信長の背後をとるため、近江から進軍します。
近江周辺の織田軍は、浅井・朝倉連合軍の進軍を防ぐため、近江の坂本を占領しました。
・連合軍の進軍を阻む織田軍
宇佐山(うさやま)城主・森可成(もりよしなり)
織田信長の弟・織田信治(おだのぶはる)
織田家臣・青地茂綱(あおちしげつな)
両軍は、近江・坂本の地で激突しました。
兵数では圧倒的不利な織田軍でしたが、森可成を筆頭に決死の戦いを繰り広げます。
しかし、石山本願寺の顕如の要請で、比叡山延暦寺の僧兵たちが参戦し、織田軍は総崩れになります。
この攻撃により、森可成、織田信治、青地茂綱は戦死しました。
宇佐山城は、森可成の重臣・各務 元正(かかみもとまさ)たちが奮闘し、守り切りました。
城攻めを諦めた浅井・朝倉連合軍は、京都の山科(やましな)方面まで進軍します。
織田信長は、摂津国から全部隊に撤退命令を発動し、足利義昭と共に京に入ります。
それを知った浅井・朝倉連合軍は、一旦、比叡山に後退します。
織田信長は京都を出陣し、近江の坂本に到着し、比叡山を包囲します。
比叡山延暦寺に対して織田信長は、「浅井・朝倉方につくならば、焼き討ちにする」と通告しますが、延暦寺からの返事はありません。
織田信長が比叡山の包囲のため、動きがとれないことが各地に伝わると、反織田信長勢力が立ち上がります。
六角義賢、再び挙兵
織田信長に敗れた六角義賢は、近江の一向宗の門徒と共に、南近江で挙兵をします。
横山城を守備していた木下秀吉、丹羽長秀は六角軍と戦い、援軍に来た徳川軍も六角軍と戦闘を繰り返します。
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願証寺(がんしょうじ)の一向一揆
伊勢国の伊勢長島(いせながしま)では、本願寺顕如に触発され、願証寺(がんしょうじ)の門徒が一向一揆をおこします。
尾張国にある古木江城(こきえじょう)の城主であり、信長の弟でもある織田信興(のぶおき)は、願証寺門徒の猛攻撃を受けていました。
織田信興は桑名城の滝川一益に援軍を要請しますが、滝川一益も一向宗に攻められ、籠城で身動きが取れません。
援軍を待っていた古木江城は陥落し、織田信興は自害に追い込まれました。
若狭国に朝倉軍侵攻
織田の勢力下である若狭(わかさ)国にも、朝倉軍が進軍し、武藤友益らが朝倉方へ寝返ります。
朝倉軍と織田勢力との激しい戦いが、繰り広げられていました。
堅田(かただ)の戦い
近江の堅田(かただ)では、浅井氏に属していた猪飼昇貞(いかいのぶさだ)らが、織田信長に内通します。
織田信長は、琵琶湖の要衝である堅田に、坂井正尚(さかいまさなお)らを堅田の砦に配置し、防備を固めます。
比叡山から下った朝倉景鏡(あさくら かげあきら)・前波景当(まえば かげまさ)は、坂井正尚軍に猛攻を仕掛けます。
坂井正尚は前波景当を討ち取り奮闘しますが、朝倉軍の猛攻を受け、坂井正尚は戦死しました。
三好三人衆・石山本願寺・浅井長政・朝倉義景・六角義賢・延暦寺・願証寺と敵に囲まれた織田信長。
この状況に織田信長は朝廷を工作し、正親町(おおぎまち)天皇に講和の斡旋を求めます。
織田信長と敵対軍の和睦は成立し、両軍は軍勢を撤退しました。
織田信長は絶体絶命のピンチを、回避することができたのでした・・・。
宇佐山城跡(うさやまじょうあと)
住所:滋賀県大津市南滋賀町
アクセス:京阪石山坂本線「近江神宮前駅」から徒歩約20分
古木江城跡(こきえじょう跡)
住所:愛知県愛西市森川町村仲
アクセス:名鉄尾西線「五ノ三駅」から徒歩約15分
おわりに・・・
織田信長は上洛を果たし、足利義昭に協力し、室町幕府の再興を成し遂げました。
しかし、気づけば、周囲は敵ばかり・・・。
金ヶ崎の退き口では、一歩間違えれば命を落とす状況でした。
いわゆる、「第一次信長包囲網」が構築され、織田信長は窮地に追い込まれました。
反勢力と和睦は成立しましたが、いつ攻めてくるか分からない状況です。
そんな中、将軍・足利義昭との関係が不仲になりつつあり、さらなる敵対勢力が登場します。
織田信長に対して、「第二次信長包囲網」が完成しようとしていました・・・。
しかし、織田信長は着実にひとつづつ、反勢力を潰していきます。
伊勢国の北畠家は、織田信長に下ったにも関わらず、信長によって一族郎党が抹殺されました・・・。
それでも、あなたはまだ、織田信長に逆らいますか・・・?
いいえ・・・、うめたろうは・・・、絶対服従です!!
織田信長の次なるターゲットは、浅井・朝倉連合軍の味方に付いた比叡山延暦寺でした。
信長の怒りを買った比叡山延暦寺が、火の海になろうとしていました・・・。