敵対勢力は織田信長に対抗するため、各地で一斉に立ち上がります。
同盟国であった浅井長政が裏切り、それに協力する朝倉義景。
摂津国の三好三人衆と信長に反旗をひるがえした三好義継、松永久秀。
比叡山延暦寺に石山本願寺の一揆衆、伊勢長島では願証明寺の一揆衆。
それに加え、ついに戦国最強といわれた武田信玄が動き出します。
さらに、将軍・足利義昭までもが、信長に反旗をひるがえします。
織田信長は包囲されながらも、敵対勢力をひとつづつ、確実に倒していきます。
織田信長は、信長包囲網をどのように崩していくのでしょうか・・・。
目次
比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)焼き討ち
この投稿をInstagramで見る
1571(元亀2)年、近江国坂本で「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の焼き討ち」が起こります。
志賀(しが)の陣の和睦後、再び、織田信長は近江制圧に動き出します。
織田信長は、近江の横山城に居城する木下秀吉に、大坂・越前間の通路の封鎖を命じます。
これは大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)と近江の浅井氏と六角氏、越前の朝倉氏の連絡を遮断させるためでした。
これにより、浅井長政(あざいながまさ)の小谷城と浅井家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)の佐和山(さわやま)城が分断されます。
佐和山城は孤立状態になり、援軍が期待できない磯野員昌は、織田信長に降伏しました。
織田信長は、柴田勝家(しばたかついえ)と佐久間信盛(さくまのぶもり)に進軍させます。
柴田と佐久間は、近江の一向一揆の拠点である志村(しむら)城【新村城】の城主・志村忠資(しむらただすけ)を攻撃し、志村城を陥落させます。
また、近隣の小川(おがわ)城の小川祐正忠(おがわすけただ)を降伏させ、一向宗の拠点である金ヶ森(かねがもり)城も陥落させます。
織田信長は坂本に入り、三井寺(みいでら)【園城寺(おんじょうじ)】に進軍し、山岡景猶(やまおかかげなお)の屋敷に本陣を置きます。
そして、織田信長の大軍は、比叡山を包囲しました。
「甫庵(ほあん)信長記」では、佐久間信盛らが、「前代未聞の戦である」とし、比叡山への焼き討ちを止めようとしたと言います。
しかし、織田信長は比叡山延暦寺の総攻撃を決行しました。
織田軍は坂本(さかもと)、堅田(かただ)の地に火を放ち、比叡山延暦寺に一斉攻撃を仕掛けます。
「信長公記」には現場の悲惨さが語られています。
信長公記の記述
老若男女は、逃げまどい、裸足のまま八王山に逃げ、日吉大社(ひよしたいしゃ)の奥宮に逃げ込んだ。
僧・俗・児童・学僧・上人・すべての首を切り、数も知れぬほど捕らえ、許しを乞う者も決して許さず、首を打ち落とした。
数千の死体がころがり、目も当てられぬ有様だった。
この戦いでの延暦寺側の死者は、1500人~4000人と伝わります。
こうして、比叡山の延暦寺と麓にある日吉大社は消滅しました。
この延暦寺の寺領や社領は、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分されました。
この後、坂本の地で明智光秀は、坂本城を築城しています。
近年の発掘調査により、この時の焼失した建物は、根本中堂(こんぽんちゅうどう)と大講堂のみと考えられています。
比叡山にあった堂舎の数は少なく、この時に焼け落ちた建物も少なく、遺物の大半は平安時代の物であったと言います。
この時、僧侶は比叡山の山中を拠点としていなく、坂本周辺に下っていたと考えられています。
坂本周辺に住んでいた僧兵たちや住民は、日吉大社の奥宮の八王子山に立て籠り、大量殺戮されたと言われています。
織田信長が比叡山を焼き討ちした理由とは?
当時、比叡山の僧侶は一部の高僧を除いて、世間から恐れられていた存在でした。
「信長公記」では、延暦寺の僧をこのように表現しています。
「信長公記」の比叡山の僧侶
日常の行動や仏道から道をはずれ、天下の笑いものになっている。
それにもかかわらず、恥じず、色欲にふけり、生臭ものを食べ、金銀の欲に溺れ、浅井・朝倉に加担し、勝手な振る舞いをしていた。
小瀬甫庵(おぜほあん)も「太閤記」で「山門を亡ぼす者は山門なり」と延暦寺を批判しています。
現代では考えられませんが、当時の寺院は武装集団であり、領地の奪い合いを頻繁にしていました。
寺院の中でも延暦寺は、巨大な武力を持っており、物資の流通により財力もあり、天皇や幕府を無視できる独立国でした。
比叡山延暦寺は、同じ近江国にある園城寺(おんじょうじ)とは、ことあるごとに対立していました。
園城寺は比叡山宗徒により、焼き討ちをされています。
比叡山宗徒による焼き討ちは、大規模なものだけで10回、小規模なものまで合わせると50回にも上回ると言います。
過去には、室町幕府6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)と対立し、比叡山制圧を狙っていた足利義教は、延暦寺の有力僧を斬首しました。
反発した延暦寺の僧侶たちは根本中堂に立てこもり、足利義教を非難し、根本中堂に火を放ち、焼身自殺をしました。
この時にいくつかの寺院が全焼、あるいは半焼したと伝わります。
足利義教が死ぬと、延暦寺は再び武装し、僧兵軍を強大化させて独立状態に戻りました。
戦国時代に入ると、管領・細川政元(ほそかわまさもと)と対立し、比叡山延暦寺は細川政元により、根本中堂や数々の院を焼かれました。
巨大な権力や武力をもった比叡山延暦寺は、もはや戦国大名と変わらず、織田信長の巨大な反対勢力となっていました。
各勢力に囲まれた織田信長が、敵対する比叡山延暦寺を無力化することは、当然の戦略でした。
織田信長はいきなり、何も言わずに、比叡山を焼き討ちをした訳ではありません。
比叡山延暦寺には、警告をし、中立の立場も選択肢として与えていました。
織田信長の比叡山延暦寺に対する要求
こちらにつけば、信長の領国にある延暦寺領を元通り返還する。
出家の道理で中立を保つのならば、こちらの行動を妨害しないでもらいたい。
もしも、この二か条に反するなら、比叡山を焼き払う。
織田信長の延暦寺焼き討ちは、宗教の弾圧ではなく、敵対勢力を排除する行為でした。
織田信長は石山本願寺とも対立しますが、その後、宗教団体としての存続を認め、信者に対する弾圧はしていません。
また、織田信長はキリスト教の布教活動も許しています。
武力を持って権力を誇示する勢力に対しては、徹底的に戦い、殲滅させるのが織田信長でした。
もし、奈良の興福(こうふく)寺や園城寺が、延暦寺と同じ立場になっていたら、信長は比叡山と同じく殲滅させていたでしょう。
比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)
住所:滋賀県大津市坂本本町4220
アクセス:京阪石山坂本線「坂本比叡山口駅」からケーブル坂本駅からケーブルカーで約10分
日吉大社(ひよしたいしゃ)
住所:滋賀県大津市坂本5-1-1
アクセス:京阪石山坂本線「坂本比叡山口駅」から徒歩約10分
槇島城(まきしまじょう)の戦い 【室町幕府消滅】
この投稿をInstagramで見る
1573年(元亀4)年、山城国【京都府】で、「槇島城(まきしまじょう)の戦い」が起こります。
武田信玄(たけだしんげん)、ついに出動・・・。
甲斐(かい)国【山梨県】では、戦国最強騎馬隊と言われた武田信玄が、ついに動き出します・・・。
本願寺・顕如(けんにょ)の援助要請を受けた武田信玄は、西上作戦を決行します。
この時、武田信玄は、相模(さがみ)国の北条氏と同盟が成立します。
また、宿敵である越後(えちご)の上杉謙信(うえすぎけんしん)は、越中一揆のため、身動きがとれない状態でした。
武田信玄は浅井・朝倉氏に、信長への牽制を要請し、三河(みかわ)の徳川領国へ進軍を開始します。
武田家臣・秋山虎繁(あきやまとらしげ)は、東美濃に進軍し、岩村(いわむら)城の戦いの末、織田方の岩村城を落城させました。
武田信玄の本隊は、遠江(とおとうみ)国に入り、徳川家臣・中根正照(なかねまさてる)が守る二俣(ふたまた)城を包囲します。
その報を聞いた織田信長は、すぐに佐久間信盛・平手汎秀(ひろひで)・水野信元(のぶもと)らを派遣しますが、すでに二俣城は落城していました。
武田信玄はさらに進軍し、浜松(はままつ)城の徳川家康を挑発し、城から誘い出します。
三方ヶ原(みかたがはら)の地で両軍は激突し、徳川軍は死者2000人を出し、大敗しました。
その後、武田信玄は三河国の野田(のだ)城を落城させますが、武田信玄の病状が悪化したため、進軍がストップしました。
将軍・足利義昭と織田信長の関係は、日に日に悪化していました。
足利義昭は1571(元亀2)年頃から、上杉謙信や毛利輝元(もうりてるもと)、本願寺・顕如や武田信玄、六角義賢らに御内書を書き始めます。
朝倉義景・浅井長政や延暦寺、三好三人衆が織田信長を包囲し、また、松永久秀と三好義継は、織田信長に反旗をひるがえしました。
1572年(元亀3)年、織田信長は足利義昭に対して、「17条の意見書」を突きつけます。
「17条の意見書」は、足利義昭の職務怠慢や内密な行動などを挙げ、足利義昭の行いを批判しています。
「17条の意見書」は、各地に写しが残っています。
織田信長が、将軍である足利義昭を追放するには大義名分が必要でした。
「17条の意見書」は、世間に宣伝する必要があったと言われています。
これにより、足利義昭と織田信長の対立は、明らかなものとなりました。
足利義昭は京の二条城に堀を新たに築き、弾薬などの武器を運び込み、戦の準備をします。
淀(よど)城では、三好三人衆の岩成友通(いわむらともみち)が足利義昭に味方し、織田信長に反抗を見せます。
近江の今堅田(いまかただ)城には、信長に備えて、甲賀武士の磯谷久次(いそがいひさつぐ)が入城します。
また、石山(いしやま)城には、山岡景友(やまおかかげとも)が入城しました。
織田信長は足利義昭に使者を送り、娘を人質にする条件で和睦をしようとしますが、足利義昭はこれを拒否します。
和睦を拒否された織田信長は、今堅田城と石山城を攻撃することを決めました。
今堅田(いまかただ)・石山(いしやま)の戦い
織田軍は柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆の四人の武将を派遣し、石山城を攻撃します。
他の兄弟たちは織田方に味方する中、石山城を守る山岡景友だけは、足利義昭に従いました。
石山城は柴田勝家の猛攻を受けます。
城主の山岡景友は兄の山岡景隆(かげたか)に説得され、開城します。
今堅田城では、明智光秀が湖上から船で襲い、丹羽長秀・蜂屋頼隆が陸路から攻撃し、今堅田城は落城しました。
二条城(にじょうじょう)の戦い
この状況に京では落首(匿名で世相を風刺した歌)が立てられます。
「かぞいろと 養ひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音」
(信長は父母のように将軍を守り立てた甲斐もなく、将軍を討つことになった。将軍の花の御所を雨が激しく打つ音がする)
織田信長は足利義昭を討伐するため、岐阜を出陣し、京の市外地に到着します。
逢坂(おうさか)にて、荒木村重(あらきむらしげ)と細川藤孝(ほそかわふじたか)が織田信長を出迎え、従属を誓います。
織田信長は1万5千の軍勢を率いて、東山の知恩院(ちおんいん)に布陣しました。
再び、織田信長は足利義昭に、人質を出すことを条件に和睦を求めます。
しかし、足利義昭は和睦を拒否し、信長方の村井貞勝(むらいさだかつ)の屋敷を焼き払いました。
織田信長は、幕臣や幕府を支持する者が多くいる、上京に限定し、焼き討ちを開始します。
二条城を包囲した織田信長は、足利義昭に圧力をかけます。
織田信長は再び和睦を朝廷に工作し、正親町(おおぎまち)天皇の勅命により、和睦は成立しました。
その後、織田信長は、六角義賢が立て籠る鯰江城(なまずえじょう)を攻撃します。
柴田勝家、佐久間信盛らに鯰江城の攻撃を命じます。
織田信長は、城の周辺に砦を築き、攻撃を仕掛け、鯰江城を落城させます。
鯰江城の近くにある百済寺(ひゃくさいじ)は、六角氏を支援したため、焼き討ちにあいました。
その翌日、織田信長に幸運な出来事が訪れます。
三河国を侵攻中であった武田信玄は、信濃(しなの)の駒場(長野県下伊那郡)で病死しました。
武田信玄の死は内密にされ、武田軍は本国である甲斐に撤退します。
織田信長は、戦国最強と言われた武田信玄と戦わずして、勝ったのでした・・・。
槇島(まきしま)城の戦い
この投稿をInstagramで見る
足利義昭は織田信長との和睦を、再び破棄しました。
二条城を三淵藤英(みつぶちふじひで)ら幕臣に預けた義昭は、ついに挙兵をします。
幕府奉公衆の真木島昭光(まきしまあきみつ)を頼り、槇島(まきしま)城に移り、籠城をします。
その報を聞いた織田信長は、京に入り、妙覚寺(みょうかくじ)に布陣し、まず二条城を包囲します。
二条城を守る三淵藤英は、柴田勝家の説得により開城しました。
二条城を落とした織田信長は、槇島城へ進軍し、城を包囲します。
織田軍の猛攻によって、槇島城は破壊され、足利義昭は降伏します。
足利義昭は人質として、嫡男の義尋(ぎじん)を織田信長に差し出します。
その後、足利義昭は妹婿である三好義継の居城・若江(わかえ)城に追放されました。
淀古(よどこ)城には、三好三人衆のひとり・岩成友通(いわなりともみち)が立て籠っています。
織田信長は木下秀吉軍を派遣させ、勝龍寺(かつりゅうじ)城の細川藤孝にも出陣命令を出し、淀古城を攻めます。
淀古城は槇島城と並ぶ山城(やましろ)国、洛南の二大軍事拠点の一つでした。
木下秀吉は城内に内通者をつくり、籠城する岩成友通を城から出させます。
岩成友通は、城から出てきたところ、細川藤孝の家臣により討ち取られました。
こうして、足利義昭をトップとする、室町幕府政権は消滅しました。
槇島城(まきしまじょう)
住所:京都府宇治市槇島町29−92
アクセス:JR「宇治駅」から徒歩約30分
淀古城(よどこじょう)
住所:京都府京都市伏見区納所北城堀46
アクセス:京阪「淀駅」から徒歩約10分
一乗谷城(いちじょうだにじょう)の戦い 【朝倉家滅亡戦】
この投稿をInstagramで見る
1573(天正元)年、越前国(福井県)にて、「一乗谷城(いちじょうだにじょう)の戦い」が起こります。
越前の刀根坂が激戦地となったことから「刀根坂(とねざか)の戦い」とも呼ばれます。
槇島城の戦いにより、足利義昭を追放した織田信長は、ついに浅井・朝倉討伐に乗り出します。
織田信長は3万の軍勢を率いて、近江(おうみ)国に攻め込みました。
小谷(おだに)城の浅井長政(あざいながまさ)は、籠城を決行します。
浅井氏と同盟を結ぶ朝倉義景(あさくらよしかげ)は、家臣からの信頼を失いつつありました。
朝倉義景の直近の行動
織田信長の決戦の申し込みを、無視しつづけた。
織田信長と戦うために足利義昭が二条城で籠ったとき、義昭の援軍要請に動かなかった。
武田信玄が西上作戦を開始した時、武田信玄と連絡を取り合い、浅井と朝倉で織田を攻める作戦でした。
しかし、朝倉義景は木下秀吉に敗退し、そのまま軍を越前に引き上げ、武田信玄から非難を込めた文章を送られていた。
このような主君の行動を見た家臣たちは、士気が下がっていました。
朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)や魚住影固(うおずみかげかた)らは、朝倉義景の出陣命令を拒否します。
また、織田方の朝倉家の内部工作などがあり、朝倉家は徐々に崩壊しつつありました。
朝倉義景は仕方なく、みずから2万の軍勢を率いて出陣し、近江の余呉(よご)に本陣を置きます。
浅井家の重臣・山本山(やまもとやま)城の阿閉貞征(あつじさだゆき)は、浅井長政を裏切り、織田信長に寝返りました。
織田軍により、浅井方の月ヶ瀬(つきがせ)城は落城し、織田軍は小谷城の西側に包囲を広げます。
朝倉軍は小谷城の背後に位置する田上山に砦を築き、小谷山には大嶽(おおづく)城を築きます。
対する織田軍は、山田山に陣取り、小谷城周辺に砦を築き、小谷城を包囲します。
織田軍の砦により、朝倉義景の2万の軍勢は、小谷城に近づくことができません。。
この日、近江国一帯に激しい暴風雨が襲いました。
織田信長は暴風雨に乗じて、油断した敵に奇襲攻撃をかけます。
奇襲を受けた大嶽城は落城し、城を守っていた越前衆は降伏しました。
織田信長は、朝倉義景に大嶽城が落ちたことを気づかせたい・・・。
そのため、降伏した越前兵は討ち取らず、朝倉本陣に追い返しました。
大嶽城の落城を知った朝倉義景は、必ず撤退すると織田信長は予測をしていました。
刀根坂(とねざか)の戦い
大獄城の落城の知らせを聞いた朝倉義景は、織田信長の予想通り、撤退を開始しました。
朝倉義景の撤退を見た織田信長は、自ら先頭を指揮し、朝倉軍を追撃します。
近江出兵に対し、元々士気が下がっていた朝倉軍は、織田軍の猛攻を受け、壊滅状態に陥ります。
朝倉義景は、疋田(ひきだ)城への入城を目指し、余呉から刀根坂(とねざか)を渡ります。
ここでも織田軍の猛攻撃を受け、戦死者が続出し、3000人以上の死者を出したと伝わります。
この戦いで、朝倉家の中心人物たちが戦死しました。
朝倉軍の主要な戦死者
朝倉家の一門衆、朝倉景行(かげゆき)や朝倉道景(みちかげ)
朝倉家で数々の軍功をあげてきた山崎吉家(やまざきよしいえ)
朝倉家臣団最高位とされた河合吉統(かわいよしむね)
元美濃の国主である斎藤龍興(さいとうたつおき)【生存説もあり】
朝倉義景は疋田城に入城しますが、織田軍の追撃により、疋田城は落城します。
軍が壊滅状態になった朝倉義景は、手勢のみで、本拠地の一乗谷に逃げ込みました。
一乗谷城(いちじょうだにじょう)の戦い
この投稿をInstagramで見る
一乗谷城になんとか着いた朝倉義景は、軍勢を整えようとしますが、兵が集まりません。
一乗谷の将兵たちは、刀根坂での朝倉軍の壊滅を知り、大半の兵が逃走していました。
朝倉義景は、ここで自害をしようとします。
しかし、近臣の鳥居景近(とりいかげちか)・高橋景業(たかはしかげあきら)により制止されます。
朝倉景鏡(かげあきら)の勧めにより、朝倉義景は東雲寺(とううんじ)に移動します。
朝倉義景は、大野郡の平泉寺(へいせんじ)の僧兵に援軍を求めます。
しかし、平泉寺は信長の調略済みであり、義景の要請に応じるどころか、東雲寺を襲撃します。
朝倉義景は、またも朝倉景鏡の勧めで、六坊賢松寺(ろくぼうけんしょうじ)に逃れます。
一乗谷に攻め込んだ織田軍は、柴田勝家を先鋒に配置し、一乗谷の城下町を放火しました。
一乗谷の火は三日三晩、燃え続けたと言います。
六坊賢松寺に到着した朝倉義景でしたが、200の兵により包囲されます。
六坊賢松寺にいる朝倉義景を包囲したのは、なんと家臣の朝倉景鏡でした。
家臣の裏切りにあった朝倉義景は、もはやこれまでとし、自刃しました。
近臣の鳥居・高橋は、朝倉景鏡と応戦し、朝倉義景の介錯をした後、自らも自害しました。
織田方についた朝倉景鏡は、朝倉義景の首を織田信長に渡します。
義景の嫡男・愛王丸(あいおうまる)や側室の小少将(こしょうしょう)など、義景の近親者は捕らえられました。
しかし、捕らえられた者たちは、織田信長の命を受けた丹羽長秀によって、護送中に殺害されました。
こうして、11代続いた名門朝倉家は滅亡したのでした・・・。
義景公園(福井県大野市)には、朝倉義景の墓があります。
嫡男・愛王丸や母の高徳院と近臣の鳥居景近と高橋景業と共に、この地に眠っています・・・。
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき)
住所:福井県福井市城戸ノ内町
アクセス:JR越美北線「一乗谷駅」から徒歩約20分
義景公園(よしかげこうえん)
住所:福井県大野市泉町10
アクセス:JR越美北線「越前大野駅」から徒歩約15分
小谷城(おだにじょう)の戦い 【浅井氏滅亡戦】
この投稿をInstagramで見る
1573(天正元)年、近江国(滋賀県)にて、「小谷城(おだにじょう)の戦い」が起こります。
朝倉氏を滅ぼした織田信長は、近江に引き返し、虎御前山(とらごぜやま)の本陣に入ります。
織田軍は再び、浅井長政(あざいながまさ)が籠る小谷城を包囲します。
この間、小谷城に使者を送り降伏を勧めますが、浅井長政は使者を追い返し、徹底抗戦を貫きます。
織田信長はついに、全軍に小谷城の総攻撃を命じました。
木下秀吉が指揮する3000の軍勢は、小谷城の京極丸(きょうごくまる)に攻撃を仕掛けます。
浅井長政が籠る本丸と長政の父・浅井久政(あざいひさまさ)が籠る小丸を分断するためでした。
戦闘の末、木下秀吉は京極丸を落とし、占領に成功します。
木下秀吉の攻撃により、浅井軍の三田村定頼(みたむらさだより)と海北綱親(かいほうつなちか)が討死します。
海北綱親は浅井三将と称され、浅井家3代にわたり、浅井家に仕えてきた重臣でした。
京極丸を落とした木下秀吉に、浅井久政が籠る小丸に猛攻を仕掛けます。
激しい攻撃に追い詰められた浅井久政は、浅井惟安(あざいこれやす)と共に自害しました。
浅井長政は隙をついて、嫡男の万福丸(まんぷくまる)を家臣に預け、城外に逃がします。
また、妻のお市を3人の娘(茶々・初・江)と共に、織田軍に引き渡しました。
赤尾屋敷にいた浅井長政は、赤尾清綱(あかおきよつな)と弟の浅井政元(まさもと)と共に、自害を果たします。
こうして小谷城は織田軍の手により、落城しました。
小谷城から脱出した万福丸は、秀吉の軍勢に見つかり、関ケ原の地で処刑されたと言います。
この投稿をInstagramで見る
浅井家の残りの親族や家臣たちも残らず、織田信長により処刑されました。
こうして、朝倉家同様、浅井家も滅亡したのでした・・・。
その後、小谷城は廃城になり、戦功をあげた木下秀吉にこの地が与えられ、長浜城を築きました。
「信長公記」に有名な逸話があります。
浅井長政と浅井久政、朝倉義景の頭蓋骨は薄濃(はくだみ)にされました。
薄濃(はくだみ)・・・漆で固め、金などで彩色したもの。
薄濃にされた頭蓋骨は、酒の肴として、宴会の場に置かれたと言います。
また、「浅井三代記」では、三人の頭蓋骨をお酒の杯にしたと言います。
長浜市にある浅井氏の菩提寺・徳勝寺(とくしょうじ)には、浅井亮政・浅井久政・浅井長政のお墓があります。
小谷城(おだにじょう)
住所:滋賀県長浜市湖北町伊部
アクセス:JR北陸線「河毛駅」から徒歩約30分
徳勝寺(とくしょうじ)
住所:滋賀県長浜市平方町872
アクセス:JR「長浜駅」から徒歩約15分
若江(わかえ)城の戦い 【三好義継討伐戦】
この投稿をInstagramで見る
1573(天正元)年、河内国(大阪府)で「若江(わかえ)城の戦い」が起こります。
浅井・朝倉氏を滅ぼした織田信長は、三好氏当主の三好義継(みよしよしつぐ)の討伐に向かいます。
15代将軍・足利義昭は、槇島(まきしま)城の戦いで、織田信長により、京から追放されました。
織田信長に敗れた足利義昭でしたが、諸国の大名に対し、信長討伐の書状を送っていました。
若江城主である三好義継も、足利義昭に協力する動きを見せていました。
以前、三好義継は松永久秀と共に、三好三人衆と対峙するため、織田家の配下にいました。
しかし、信長包囲網が構築しだすと、三好義継は松永久秀と共に織田信長に反逆します。
織田信長は三好義継の討伐のため、上洛し、京の妙覚寺(みょうかくじ)に入ります。
三好義継の家臣には、「若江三人衆」と呼ばれる者たちがいました。
若江三人衆(わかえさんにんしゅう)
池田教正(いけだのりまさ)
多羅尾綱知(たらおつなとも)
野間長前(のまながさき)
若江三人衆は、織田信長の力を恐れ、三好義継に信長への従属を勧めていました。
三好義継は若江三人衆を遠ざけ、家臣の金山武春(かなやまたけはる)を家老に置きます。
織田信長は佐久間信盛の軍勢を、若江城に差し向けました。
若江城にいた足利義昭は身の危険を感じ、近臣を連れて、堺に逃亡してしまいます。
三好義継は若江城で籠城し、織田軍を迎え撃ちます。
織田信長と内通していた若江三人衆は、家老の金山武春を殺害し、佐久間軍を城門に招き入れます。
足利義昭に逃亡され、家臣に裏切られた三好義継に、勝ち目はありませんでした。
三好義継は妻子を自ら殺害し、城の外へ繰り出して、多くの敵をなぎ倒します。
最後は腹を十文字に切り裂き、切腹してその場で果てたと言います。
「信長公記」の著者・太田牛一は、三好義継を「比類なき活躍をした」と記述しています。
三好義継と共に行動した松永久秀は、織田信長により、多聞(たもん)城を攻められ、降伏します。
三好義継の死により、父・三好慶長(よしなが)が築き上げた三好本家も滅亡しました。
三好義継のお墓は、大阪府八尾市にある真観寺(しんがんじ)に、三好慶長の墓と共にあります。
若江城跡(わかえじょうあと)
住所:大阪府東大阪市若江南町2-9-2
アクセス:近鉄奈良線「若江岩田駅」から徒歩で15分
長島一向一揆(ながしまいっこういっき)
この投稿をInstagramで見る
1570(元亀元)年~1574(天正2)年にかけて、伊勢長島(三重県)で、「長島一向一揆(ながしまいっこういっき)」が起こります。
長島の地は本願寺の一族寺院である願証寺(がんしょうじ)の領域でした。
願証寺の領地は、大名や領主の権力の及ばない、治外法権を持った土地でした。
1570(元亀元)年、摂津(せっつ)国【大阪府】の石山本願寺が織田信長に対して挙兵をします。
本願寺宗主・顕如(けんにょ)は各地の門徒衆に檄文を送り、織田信長に対抗するため、門徒宗の蜂起を促します。
長島にある願証寺の住持・証意(しょうい)を筆頭に、門下衆が一斉に蜂起します。
願証寺の蜂起に、北勢四十家と呼ばれた小豪族の一部が、織田家に反旗をひるがえしました。
顕如は、本願寺から下間頼旦(しもつまらいたん)を願証寺に派遣させ、長島の一揆衆の数は膨れ上がります。
一揆衆は伊藤氏が城主である長島(ながしま)城を襲い、落城させます。
信長の弟・織田信興(おだのぶおき)が城主である小木江(こきえ)城も陥落し、織田信興は自害に追い込まれました。
さらに、桑名(くわな)城に居た滝川一益(たきがわかずます)も、一揆衆に襲われ、敗走しています。
第一次長島侵攻(だいいちじながしましんこう)
1571(元亀2)年、織田信長は浅井・朝倉氏と停戦中に、長島侵攻を決めます。
織田信長は5万の大軍を引き連れ、長島の一揆衆と対峙しました。
織田信長は、佐久間信盛隊と柴田勝家隊、信長本隊と軍を3つに分けます。
長島に入った織田軍は、周辺の村を焼いたのち、軍を撤退させます。
一揆勢は織田軍の撤退を狙い、一斉に襲い掛かります。
弓兵や鉄砲隊の伏兵を潜ませていた一揆衆の攻撃により、織田軍は苦戦します。
撤退の殿(しんがり)をつとめた柴田勝家が負傷、殿は氏家卜全(うじいえぼくぜん)が任されます。
氏家卜全は、六角一族の佐々木祐成(ささきすけなり)に襲われ、数名の家臣とともに討死します。
この後、願証寺の4世だった証意(しょうい)が急死し、嫡男の顕忍(けんにん)が跡を継ぎます。
第二次長島侵攻(だいにじながしましんこう)
1573(天正元)年、浅井・朝倉を滅亡させた織田信長は、二度目の長島侵攻を開始します。
織田信長率いる数万の軍勢が、北伊勢に出陣します。
織田信長は、反旗を翻した北伊勢の小豪族たちの城を、次々と陥落させます。
小豪族たちは織田信長に人質を送り、あいついで降伏しました。
織田信長は、矢田(やだ)城に滝川一益を入城させ、美濃へ軍を撤退させます。
長島の一揆衆は、織田信長が退路に通る多芸山(たげやま)【養老山】に伏兵を配置し、弓で一斉に攻撃を仕掛けました。
一揆衆の中には、甲賀や伊賀の兵も参加しており、織田軍の兵を次々と倒していきます。
織田方の殿をつとめていた林通政(はやしみちまさ)は一揆衆の攻撃により、討ち死にします。
越前衆の毛屋猪介(けやいのすけ)の活躍もあり、織田信長は美濃の大垣(おおがき)城へと到着し、岐阜に帰還しました。
第三次長島侵攻(だいさんじながしましんこう)
この投稿をInstagramで見る
1574(天正2)年、織田信長は長島一揆衆との戦いに終止符を打ちます。
尾張の津島に着いた織田信長は、織田領の全域から兵を集め、陸と海から長島に総攻撃を仕掛けます。
長島攻めの織田部隊
東口 市江(いちえ)方面 (愛知県弥富市・愛西市)から織田信忠隊 池田恒興、森長可、他数名。
西口 賀鳥(かとり)方面(三重県多度市香取町)から柴田勝家隊 稲葉良通、佐久間信盛、他数名。
中央口 早尾(はやお)方面(愛知県愛西市早尾町)から織田信長本隊 丹羽秀長、前田利家、佐々成政、他数名。
水軍 九鬼嘉隆、滝川一益、織田信雄、他数名。
明智光秀は畿内で政務のため不参加、羽柴秀吉は越前方面の抑えに残され不参加。
各地から織田家臣の主要な武将が続々と集結し、その数は7~8万と言われています。
織田信長は、この戦いで一揆衆との決着をつける意志が伝わってきます・・・。
織田軍の各部隊の猛攻により、次々と一揆衆の砦が陥落していきます。
翌日には、九鬼嘉隆の安宅船(あたけぶね)を先頭に、尾張から集めた兵を乗せた船が到着。
織田信雄の伊勢から集めた兵を乗せた船も到着し、長島の大河は織田軍の船で埋め尽くされました。
一揆衆は、長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城に立てこもります。
織田信長は、各城を包囲し、兵糧攻めを開始します。
大鳥居城と篠橋城が織田軍の砲撃をうけると、一揆衆は降伏を申し出ます。
しかし、織田信長は降伏を許さず、攻撃を続けました。
大鳥居城の一揆衆が城から逃げ出すが、織田軍により、1000人程の一揆衆が殺害されました。
篠橋城立てこもった一揆衆は、長島城へと追いやられます。
この時、各城では兵糧が尽き、餓死者が続出します。
長島城の一揆衆は、織田信長に再び、降伏を申し出ます。
本願寺から派遣された下間頼旦(しもつまらいたん)は、長島城にいる者の助命を条件に、城を明け渡すことを願い出ます。
織田信長は一旦、この条件を受け入れました。
しかし、長島城から下間頼旦や門徒が出てきたところ、織田信長は一斉射撃を命じ、下間頼旦たちは射殺されました。
もはや、降伏はできないと悟った一揆衆たちは、織田軍の手薄な陣へ、捨て身の攻撃を仕掛けます。
一揆衆の決死の攻撃により、織田信長の母違いの兄、織田信広(のぶひろ)をはじめ、多くの織田一族が討死します。
一揆衆で生き残った者たちは、そのまま北伊勢方面へ逃亡しました。
一揆衆が籠る残りの城は、中江城と屋長島城になりました。
織田信長は、中江城・屋長島城の周りを柵で囲み、四方から城を燃やし尽くします。
これにより、城内にいた男女約2万人が、焼き殺されたと言います。
願証寺の証意の跡を継いだ顕忍(けんにん)は、ここで自刃したと伝わります。
織田信長は、この戦いで、多くの近親者や家臣を亡くしました。
織田信長の怒りが、長島一向一揆衆を抹殺したのでした・・・。
願證(証)寺(がんしょうじ)
住所:三重県桑名市長島町又木181−3
アクセス:近鉄「長島駅」から徒歩約20分
長島城跡(ながしまじょうあと)
住所:三重県桑名市長島町西外面
アクセス:近鉄「長島駅」から徒歩約10分
おわりに・・・
織田信長は、信長包囲網を完全に突破しました。
比叡山延暦寺を無力化し、足利義昭を京から追放しました。
浅井氏・朝倉氏、三好本家を滅亡させ、伊勢長島の願証寺を殲滅しました。
さらに武田信玄が病死したことで、東の脅威が収まりました。
運までもが織田信長に味方をしたのでした・・・。
織田信長に敵対する勢力は、信長の巨大な力の前に散っていきました。
しかし、天下に武を布くには、まだ、倒さなければならない勢力がいます。
・粘り強く抵抗を見せる石山本願寺(いしやまほんがんじ)。
・信玄亡き後、家督を継いだ武田勝頼(たけだかつより)。
・中国地方で巨大な力を持つ毛利氏
・武田信玄と対等の力をもつ越後の龍、上杉謙信(うえすぎけんしん)。
織田信長は、これらの強大な勢力とどう立ち向かうのでしょうか。
織田信長の戦いは、まだまだ続きます・・・。