戦国時代

【荒木村重の謀反】織田信長ゆかりの地【戦い⑦】

織田信長は、西国の最大の敵・毛利氏が支配する中国地方の攻略を目指しました。

羽柴秀吉(はしばひでよし)を中心とした織田軍は、毛利軍と本格的に衝突することになります。

そんな中、織田家臣の荒木村重(あらきむらしげ)の謀反が起こりました。

 

毛利氏と連携する反織田勢力が活発に動き出します・・・。

また、次男の織田信雄(のぶかつ)を伊賀国に進軍させ、三男の織田信孝には高野山に進軍させます。

織田信長はこの戦いに、どのような采配を振るうのでしょうか。

 

上月城(こうづきじょう)の戦い 【尼子氏奮闘戦】

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1578(天正6)年、播磨(はりま)国【兵庫県】で、「上月城(こうづきじょう)の戦い」が起こります。

第一次上月城の戦い

1557(天正5)年、織田信長は羽柴秀吉に、中国地方の攻略を命じました。

播磨国に入った羽柴秀吉は、黒田孝高(くろだよしたか)の姫路(ひめじ)城を本拠地とします。

羽柴秀吉は、播磨国・但馬(たじま)国を転戦し、敵方の各城を撃破します。

 

上月(こうづき)の城主は、赤松政範(あかまつまさのり)でした。

赤松政範は、毛利方の宇喜多直家(うきたなおいえ)と連携を取り、織田軍を迎え撃ちます。

上月城は播磨・美作(みまさか)・備前(びぜん)の国境に位置するため、重要な拠点でした。

上月城に進軍した羽柴秀吉は、上月城を包囲し、救援に来た宇喜田軍を撃破します。

 

羽柴軍の猛攻により、上月城は落城し、城主の赤松政範は自害に追い込まれました。

上月城に織田方の尼子勝久(あまこかつひさ)、山中幸盛(やまなかゆきもり)が入城します。

 

毛利元就(もうりもとなり)の侵攻により、尼子氏は滅亡していました。

尼子勝久は当時、東福寺(とうふくじ)の僧侶になっていました。

しかし、尼子家の再興を図る山中幸盛らに擁立され、尼子氏再興を目指していました。

第二次上月城の戦い

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1578(天正6)年、別所長治(べっしょながはる)は、織田方から毛利方に寝返りました。

別所長治の離反により、東播磨の豪族たちの大半がその動きに同調し、三木城に立て籠ります。

この報を聞いた毛利輝元(もうりてるもと)は、吉田郡山(よしだこおりやま)城を出陣します。

 

それに合わせ、毛利氏の吉川春元(きっかわはるもと)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)らも出陣し、上月城に進軍しました。

海上からは毛利の村上水軍も参加し、毛利軍は総勢3万以上の軍勢で、上月城を包囲します。

上月城を守る尼子勝久の3千の軍勢は、籠城戦を構え、毛利軍と対峙します。

 

別所治長の裏切りに驚いた羽柴秀吉は、急ぎ、織田信長に援軍を要請します。

織田信長は、摂津(せっつ)国にいる荒木村重の軍勢を援軍として向かわせました。

さらに、総大将の織田信忠(おだのぶただ)、明智光秀、滝川一益(たきがわかずます)らの援軍が播磨国に到着します。

 

織田信長の方針は、上月城の救援ではなく、別所長治が籠る三木城の落城を優先させます。

羽柴秀吉は自ら京都に向かい、再度、織田信長に指示を仰ぎますが、織田信長の方針は変わりません。

これにより、上月城の尼子軍は、織田軍に見捨てられることになりました・・・。

 

羽柴秀吉は尼子軍に、上月城の放棄と脱出を勧める書状を送ります。

しかし、尼子勝久らはこれを黙殺し、毛利軍との戦いを選択しました。

羽柴・荒木軍は三木城を攻めるため、高倉(たかくら)山から書写(しょしゃ)山へ陣を移します。

 

その際、熊見(くまみ)川で毛利軍の攻撃に遭い、羽柴軍は大打撃を受けます。

上月城が包囲されてから70日後、尼子軍は城兵の命と引き換えに、毛利軍に降伏しました。

 

これにより、尼子勝久、尼子氏久(うじひさ)、尼子通久(みちひさ)、勝久の嫡男・豊若丸(とよわかまる)が自刃しました。

尼子家再興を目指した山中幸盛は、毛利輝元のもとへ連行される途中、備中国で謀殺されました。

上月城跡(こうづきじょうあと)

住所:兵庫県佐用郡佐用町上月

アクセス:JR姫新線「上月駅」から徒歩で20分

 

三木(みき)合戦 【三木の干殺(ひごろ)し】

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1578(天正6)年から1580年(天正8)年にかけて、播磨国【兵庫県】で「三木(みき)合戦」が起こります。

毛利軍は尼子軍が籠る上月城を包囲し、同調した三木城主・別所長治は、織田軍から離反しました。

東播磨の豪族たちの大半も同調し、約7500人が三木城に立て籠ります。

 

なぜ別所氏は離反したのか?

加古川評定(かこがわひょうてい)での対立

播磨国の加古川城で羽柴秀吉は、播磨国内の城主を集め、毛利討伐の軍議をおこないました。

別所長治の代理で出席していた叔父の別所吉親(よしちか)は、羽柴秀吉を身分の低い出身と見下していました。

別所氏が名門出であることを強調する別所吉親は、羽柴秀吉を不快にさせます。

三木城に帰った別所吉親は、城主の別所長治を説き伏せ、織田信長からの離反を決意させたと言います。

 

羽柴秀吉による、第一次上月城の戦いでの虐殺への不信感

上月城の城主・赤松政範(あかまつまさのり)は、「自分の首を持って織田方に降伏せよ」と家臣に命じました。

家臣らは赤松政範の首を持参し、羽柴秀吉に城兵の助命を求めましたが、これを拒否されます。

羽柴秀吉の命により、上月城の城兵は磔にされ、皆殺しにされました。

また、「下村文書」によると、上月城の女・子供などの200人は、串刺しや磔にされ、晒し者にされたと言います。

 

姻戚関係にあった丹波国の波多野氏の離反

この時、丹波国では織田軍の明智光秀が、黒井城を攻めていました。

しかし、八上城主・波多野治秀(はたのはるひで)が織田方から離反したため、別所治長はその動きに同調したと言います。

 

 

羽柴秀吉は織田信長の方針により、上月城の救援を放棄し、三木城周辺の支城を攻略します。

援軍の織田信忠らの軍勢と共に、神吉(かんき)城・志方(しかた)城・魚住(うおづみ)城・高砂(たかさご)城を陥落させます。

羽柴秀吉は、三木城から近い平井(ひらい)山に本陣を構えます。

 

これにより、三木城は兵糧の補給が困難となります。

そんな中、またしても織田軍から離反者が出ます・・・。

摂津(せっつ)国の当主・荒木村重(あらきむらしげ)が、突如として織田方から離反します。

 

戦場から離脱した荒木村重は、有岡(ありおか)城に立て籠りました。

別所長治は兵糧の補給をするため、羽柴秀吉の本陣に兵を突撃させます。

しかし、織田軍の反撃に合い、弟の別所治定(はるさだ)が討死します。

 

丹生山(たんじょうさん)にある明要寺と淡河(おうご)城は、摂津国と三木城を結ぶ兵糧の輸送中継地点でした。

羽柴秀吉はそこに目をつけ、明要寺と淡河城に攻撃を仕掛け、陥落させます。

このとき、羽柴秀吉の軍師・竹中重治(たけなかしげはる)【竹中半兵衛】が、陣中で病死します。

 

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竹中重治は病気のため、京都で療養をしていましが、戦況を心配し、この地に戻ってきました。

竹中重治は「陣中で死ぬことこそ、武士の本望」と言い、この世を去りました。

別所軍は兵糧を運び込むため、毛利氏の補給部隊と共に平田陣地に突撃します。

 

この攻撃により、羽柴秀吉方の谷衛好(たにもりよし)を討ち取ります。

しかし、別所軍も淡河定範(おうごさだのり)が討ち死にし、多くの武将を失いました。

このとき、毛利軍が最も恐れていたことが、起こりました・・・。

 

備前(びぜん)国の宇喜多直家(うきたなおいえ)が、毛利氏を裏切り、織田方に味方しました。

これにより毛利氏は、本国と播磨・摂津が分断され、三木城の援助をすることが難しくなります。

さらに、荒木村重が籠る有岡城は、織田軍により陥落しました。

 

1580(天正8)年、三木城の城内の食糧はすでに底をつき、兵士の飢餓状態が続いていました。

後に、この羽柴秀吉の兵糧攻めは「三木の干殺(ひごろ)し」と語られました。

羽柴秀吉は、三木城に「別所一族の切腹で城兵は助命する」との条件を出します。

 

別所長治はこの条件を受けて降伏し、別所一族は自刃しました。

この戦いの原因をつくった叔父の別所吉親は、降伏に反対したところ、城兵に殺害されました。

こうして、1年10ヶ月におよぶ籠城戦が終了しました。

三木城跡(みきじょうあと)

住所: 兵庫県三木市上の丸町

アクセス:神戸電鉄粟生線「三木上の丸」駅から徒歩で3分


平井山・秀吉本陣跡(ひらいやま・ひでよしほんじんあと)

住所:兵庫県三木市平井

アクセス:神戸電鉄粟生線「恵比須駅」から徒歩約35分

 

有岡城(ありおかじょう)の戦い 【荒木村重討伐戦】

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1578(天正6)年、摂津国【兵庫県】で、「有岡城(ありおかじょう)の戦い」が起こります。

1578(天正6)年、別所長治が織田方から離反したため、三木合戦が起こりました。

 

羽柴秀吉と共に参戦していた荒木村重は、突如として謀反を起こしました。

戦場から離れた荒木村重は、摂津国の居城・有岡城に立て籠ります。

 

なぜ、荒木村重は謀反をしたのでしょうか・・・。

荒木村重の謀反の理由は、はっきりと解明されていません。

そのため、謀反の理由として、様々な説が浮上しています。

 

荒木村重の謀反の理由とは?

石山本願寺と足利義昭の要請説

荒木村重は、石山本願寺と足利義昭とも親しかったこともあり、両者の要請を受けて謀反を起こしたと言われています。

羽柴秀吉が攻略をしている播磨国、明智光秀が攻略をしている丹波国、この2カ国にとって摂津国は重要拠点でありました。

荒木村重が謀反を起こした場合、両者は孤立し、織田軍に大打撃を与えることができます。

 

処罰を恐れた説

荒木村重の家臣・中川清秀(なかがわきよひで)は、密かに、石山本願寺に兵糧を流します。

この行為が織田信長に発覚しそうになり、処罰を恐れて謀反を起こしたと言われます。

 

怨恨(えんこん)説

「当代記」によると、織田信長の側近に長谷川秀一(はせがわひでかず)がいました。

長谷川秀一は、「荒木村重に対して小便をひっかけた」との記述があります。

荒木村重と織田信長の側近衆との間に、対立があったとされています。

 

「絵本太閤記」によると、荒木村重は近江国の瀬田(せた)で、織田信長を出迎えました。

この時、織田信長は刀の先に餅を突き刺し、それを荒木村重にくわえさせます。

餅を食べた荒木村重を見た織田信長は、声をあげ笑いました。

織田信長はその度胸を褒め、摂津国を荒木村重に任せたと言います。

荒木村重は大勢の前で、刀に刺さった餅を食べさせられるという侮辱を受けました。

 

摂津の国人や百姓から、担ぎ上げられた説

摂津国内は織田政権への反発が強まっており、国衆や百姓の不満が荒木村重に向けられました。

百姓たちの突き上げに追い込まれた荒木村重は、その支持を受けて、摂津国の支配を保てると判断し、謀反を起こしました。

 

 

毛利氏の上月城落城、別所長治の謀反、波多野氏の反乱など、織田軍に不利な状況が多発します。

荒木村重は、上記の理由とこれらの状況を見て、謀反を起こしたのではないでしょうか。

 

織田信長は、明智光秀、松井有閑(まついゆうかん)、万見重元(まんみしげもと)を使者として、有岡城に派遣します。

荒木村重は使者の説得を聞き入れ、母親を人質とし、織田信長に釈明するため安、土城に向かいます。

しかし、茨木(いばらき)城に立ち寄った際、中川清秀(なかがわきよひで)に引き止められます。

 

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中川清秀は、「織田信長は家臣に一度疑いを持てば、いつかは滅ぼそうとする」

「または、安土で切腹をさせられる」と進言をします。

荒木村重は、中川清秀の言葉に動揺し、伊丹(いたみ)に引き返しました。

 

有岡城に戻った荒木村重は、織田信長と対決することを決意します。

そして、足利義昭、毛利輝元、顕如(けんにょ)らに、人質と誓書を差し出し、同盟を誓いました。

羽柴秀吉に従属した黒田孝高(くろだよしたか)は、単身で有岡城に説得に行きます。

 

同盟関係にある小寺政職(こでらまさもと)に考慮した荒木村重は、黒田孝高を牢獄に幽閉します。

荒木村重は織田軍の襲撃に備え、対石山本願寺用に築城した城を使い、各城を家臣たちに守らせました。

5万の軍勢を率いた織田信長は、山崎(やまざき)に進軍し、荒木村重の討伐準備をします。

 

織田信長は、高槻(たかつき)城の高山右近(たかやまうこん)、茨木城の中川清秀を調略します。

それに同調し、大和田(おおわだ)城、多田(ただ)城、三田(みた)城が、織田方に寝返りました。

そのため、荒木軍は兵士の逃亡が相次ぎ、1万5千いた軍勢は、5千ほどに減少しました。

 

荒木村重は仲間に裏切られ、完全に孤立状態になります。

織田信長は池田(いけだ)城に本陣を移動し、有岡城を取り囲みました。

しかし、荒木軍の猛攻により織田軍は2千の兵を失い、作戦を兵糧攻めに切り替えます。

 

荒木軍は織田信忠隊がいる加茂(かも)砦を攻撃し、砦を炎上させ、馬や兵糧を奪いました。

この一戦で、荒木村重軍の強さは、京の町まで伝わったと言います。

 

備前(びぜん)国の宇喜多直家(うきたなおいえ)は、毛利氏を裏切り、織田方に着きます。

これにより毛利氏は、三木城や有岡城に援軍を派遣することが困難になりました。

有岡城跡(ありおかじょうあと)

住所:兵庫県伊丹市伊丹1丁目12

アクセス:JR福知山線「伊丹駅」から徒歩で約5分


茨木城跡(いばらきじょうあと)

住所:大阪府茨木市片桐町8

アクセス:阪急京都線「茨木市駅」から徒歩で10分

 

荒木村重、逃亡

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有岡城では兵糧も尽き始め、期待していた毛利の援軍も現れないという状況に追い込まれます。

荒木村重は、嫡男・荒木村次(むらつぐ)が守る尼崎(あまがさき)城に移りました。

荒木村重の行動は、自ら、安芸(あき)に出向き、毛利の援軍の交渉をするためと言われています。

 

荒木村重の逃亡に気づいた織田信忠は、有岡城と尼崎城に対峙するため、軍勢を二つに分けました。

織田軍の滝川一益(たきがわかずます)は、二つの城に調略を行い、織田方への離反を誘います。

この調略により、有岡城の城内から離反者が続出します。

 

有岡城は、織田軍の総攻撃により落城寸前となり、城を守る荒木久左衛門は開城を決意しました。

織田信長は、荒木久左衛門に講和の条件を提示します。

講和の条件は「荒木村重が尼崎城と花隈(はなくま)城を明け渡せば、有岡城の家族と家臣一同の命は助ける」というものでした。

 

荒木久左衛門は、尼崎城にいる荒木村重を説得しようとしますが、説得は失敗に終わります。

このとき尼崎城には、毛利氏、石山本願寺、雑賀衆が主導権を握っていました。

そのため、荒木村重の意見は、通らなくなっていたと言います。

 

織田信長との約束を破ることになった荒木久左衛門は、そのまま失踪してしまいました。

約束を放棄された織田信長は、有岡城の人質を全て処刑することを決断しました。

家臣の妻子などの人質は、磔にされ、鉄砲で殺害されたり、家屋に入れられ、火で焼き殺されました。

 

荒木一族と家臣たちは、京都の市中引き回しのあと、六条河原で首を刎ねられました。

この死者の数は、約670人となり、荒木村重の一人の行動により、多くの人の命が奪われました。

 

「信長公記」には、この処刑の様子が書かれ、荒木方を非難しています。

「目も当てられないほど悲惨であり、これほど多数の処刑は、歴史が始まって以来、初であろう」

「荒木方の武士は、人質を見捨て、自分だけ助かろうとする行いは、前代未聞の行為である」

 

尼崎城跡(あまがさきじょうあと)

住所:兵庫県尼崎市北城内27番地

アクセス:阪神電鉄本線「尼崎駅」から徒歩約5分

花隈(はなくま)城の戦い

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荒木村重は尼崎城を抜け出し、荒木元清(もときよ)が守る花隈(はなくま)城に移動しました。

1580(天正8)年、織田信長と石山本願寺の顕如(けんにょ)は和睦をしています。

顕如の長男・教如(きょうにょ)は、この和睦に反対していました。

 

教如を支持する本願寺衆は、荒木村重と合流し、花隈城に立て籠ります。

荒木軍を追撃する池田恒興(いけだつねおき)は、紀伊雑賀衆の援軍と共に、花隈城を囲みます。

1580(天正8)年、池田恒興軍と荒木軍が激突し、激しい戦いが起きます。

 

荒木軍は生田(いくた)神社にいた池田恒興の次男、池田輝政(いけだてるまさ)に攻撃をします。

それと同時に、池田恒興は花隈城へ攻撃をしますが、両軍の勝敗はつかず、兵を一旦引き下げました。

池田恒興は長男の池田元助(もとすけ)と共に、花隈城に総攻撃をしかけ、城内の侵入に成功します。

 

大手門を守る守備隊を背後から襲い、雑賀衆の援軍も加わり、花隈城を落城させました。

荒木村重は毛利氏のもとへ亡命し、花隈城はその後、廃城となりました。

後年、荒木村重は織田信長が死去すると、堺に戻り、居住します。

 

豊臣秀吉が天下を獲ると、大坂で茶人として厚遇されました。

その後、出家をして、荒木道薫(あらきどうくん)と名乗っています。

花隈城跡(はなくまじょうあと)

住所:兵庫県神戸市中央区花隈町1

アクセス:JR/阪神電鉄「元町駅」から徒歩約5分

 

天正伊賀(てんしょういが)の乱 【伊賀衆討伐戦】

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1578(天正6)年と1581(天正9)年に、伊賀(いが)国【三重県】で「天正伊賀(てんしょういが)の乱」が起こります。

第一次天正伊賀の乱

1578(天正6)年、織田信長は、次男・織田信雄(おだのぶかつ)を北畠氏の養子とします。

その後、北畠一族を暗殺し、伊勢(いせ)国を掌握し、支配していました。

織田信雄は隣国である伊賀(いが)国の領地を狙います。

 

そのため、家臣の滝川雄利(たきがわかつとし)に、丸山(まるやま)城の修築を命じました。

これを知った伊賀国郷士11名は平楽寺(へいらくじ)に集ました。

伊賀衆たちは、丸山城が完成するまでに攻撃をすることを決め、総攻撃を開始します。

 

不意を突かれた丸山城にいた滝川雄利は、伊勢国に敗走しました。

翌年、織田信雄は、父である信長に相談せず、単独で8千の軍勢を率いて、伊賀国に侵攻します。

伊賀衆は地形を活かした奇襲攻撃をし、織田軍を襲います。

 

これにより、織田信雄の重臣・柘植保重(つげやすしげ)が討死しました。

織田軍は大きな損害を受け、伊賀から撤退し、伊勢国に敗走します。

これを知った織田信長は激怒します。

 

無断で伊賀に侵攻し敗戦までした織田信雄に対し、「親子の縁を切る」と書いた書状を送っています。

織田信長は石山本願寺との抗争が激化していたため、伊賀国の平定は後回しになりました。

丸山城跡(まるやまじょうあと)

住所:三重県伊賀市枅川

アクセス:伊賀鉄道伊賀線「丸山駅」から徒歩約10分

 

第二次天正伊賀の乱

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1581(天正9)年、織田信長は次男・織田信雄を総大将とし、5万の軍勢で伊賀国に侵攻します。

織田軍の侵攻に対し、伊賀衆は比自山(ひじやま)城、平楽(へいらく)寺に籠城をします。

伊賀衆は河原に布陣していた織田軍の陣地に夜襲を仕掛けます。

 

これにより蒲生氏郷(がもううじさと)隊、筒井順慶(つついじゅんけい)隊が敗走しました。

蒲生氏郷は滝川一益(たきがわかずます)の援軍と共に、平楽寺に猛攻を仕掛け陥落させました。

丹羽長秀(にわながひで)隊は比自山城を攻撃します。

 

しかし、「比自山の七本槍」と呼ばれる伊賀衆の反撃に合い、苦戦を強いられます。

織田軍の総攻撃の前に比自山城の兵は、柏原(かしはら)城に入城しました。

織田軍の調略により、連携を欠いた伊賀衆は、各地で撃破され、敗退します。

 

村や寺院は焼き払われ、平楽寺では僧侶700人が斬首され、約3万の伊賀衆が殺害されました。

伊賀衆の大将・滝野吉政(たきのよしまさ)が守る柏原城は、城兵の助命を条件に和睦を行い、開城しました。

こうして、織田信長は伊賀国を支配しました。

柏原城跡(かしはらじょうあと)

住所:三重県名張市赤目町柏原558

アクセス:近鉄大阪線「赤目口駅」から徒歩約15分

 

高野山(こうやさん)攻め 【高野山討伐戦】

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1581(天正9)年、紀伊(きい)国【和歌山県】で「高野山(こうやさん)攻め」が起こります。

高野山は真言宗の本山であり、比叡山と並ぶ、信仰の中心地であり、紀伊国の一大勢力でした。

織田信長と戦った荒木村重の残党5人が、高野山に逃げ込みました。

 

織田信長は前田利家(まえだとしいえ)、不破光治(ふわみつはる)を高野山に派遣します。

しかし、高野山側は使者の受け入れを拒否します。

拒否された織田信長は、松井有閑(まついゆうかん)配下の足軽32人を高野山へ向かわせます。

 

織田の足軽は荒木残党の探索を行っていたところ、高野山側により、全員殺害されてしまいます。

この行為に織田信長は激怒し、一揆に加わった高野聖(こうやひじり)らを捕縛し、殺害しました。

このため、高野山は根来寺(ねごろじ)と協力し、織田信長に徹底抗戦を決意します。

 

織田信長は三男・織田信孝(おだのぶたか)を総大将とし、13万の軍勢で高野山に進軍します。

織田軍は紀ノ川筋に岡田重孝(おかだしげたか)・松山重治(まつやましげはる)を布陣します。

大和口には筒井順慶(つついじゅんけい)、定次(さだつぐ)を配置し、高野山七口を塞ぎます。

 

高野山は伊都(いと)郡・那賀(なが)郡・有田(ありだ)郡の領内の武士を総動員しました。

そして、「高野七砦」を築き、織田軍を迎え撃ちます。

麻生津(おうづ)口の南蓮上院弁仙(なんれんじょういんべんせん)、学文路(かむろ)口の花王院快応(けおういんかいおう)を大将として配置しました。

 

また、高野山の僧侶は護摩(ごま)を焚き、織田信長の降伏の祈祷(きとう)をしたと伝わります。

織田信孝は鉢伏山城に本陣を構え、紀ノ川を挟んで高野山勢と対峙しました。

織田軍の松山重治は、多和(たわ)城を築城し、九度山(くどやま)方面に攻撃を仕掛けます。

 

このとき、織田信長は甲斐の武田を攻めるため、甲州討伐に向かいました。

筒井順慶の大和衆を出陣させ、大和衆と河内衆は高野山の抑えとして、残留するように命じています。

高野山勢は、多和城、筒井勢が守る大和口の砦を攻撃し、岡田重孝軍を撃退します。

 

織田軍は寺尾壇の砦に攻撃をしかけ、城将・医王院(いおういん)を討ち取ります。

織田信孝は四国攻めの大将に任命されたため、戦場を離れます。

織田方の竹田藤内らが麻生津口の飯盛山(いいもりやま)城を攻撃します。

 

高野山勢はこの攻撃を防ぎ、返り討ちをし、竹田ら四将を討ち取りました。

そして、6月2日、高野山に本能寺の変の情報が届きます。

 

当主を失った織田軍は撤退を開始しますが、高野山勢は織田軍を追撃し、勝利しました。

こうして、織田信長の死により、高野山は危機を脱しました。

高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)

住所:和歌山県伊都郡高野町高野山132

アクセス:高野山駅からバスで約10分「本山前バス停」下車すぐ

 

おわりに・・・。

播磨国、伊賀国、摂津国を治めた織田信長は、東国に目を向けます。

長篠の戦いで撃破した武田勝頼(たけだかつより)を殲滅するため、甲斐(かい)国に進軍します。

織田信長に従属する各地の大名も増え、織田信長が掲げる天下布武は徐々に完成しようとしています。

 

しかし、織田信長のもとで、葛藤している一人の武将がいました・・・。

その武将は羽柴秀吉の援軍の命を受け、亀山城で戦の準備をしていました。

進軍した場所は、毛利がいる備中(びっちゅう)国ではなく、京の本能寺でした・・・。

 

天下統一を目前とした織田信長にとって、最期の戦いが迫ります。

織田信長の最後の敵は、長曾我部氏でも島津氏でもなく・・・、最も身近な存在でした・・・。

 

-戦国時代

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