史跡巡り

【熊川宿・朽木陣屋】滋賀県の史跡巡り①【織田信長ゆかりの地】

どうも、うめたろうです。

今回の史跡巡りは、滋賀県に行ってきました。

前回の福井県に続き、GoToトラベルを使用しました。

 

滋賀県と言えば、戦国時代の史跡の宝庫です。

2泊3日で行ったのですが、史跡がありすぎて、本当は2泊3日では足りないぐらいです。

 

今回も、現在放送中の「麒麟がくる」に合わせて、明智光秀の史跡を中心に巡ってきました。

それでは、滋賀県の戦国史跡をご紹介していきます。

 

宝幢院(ほうどういん)若狭武田氏当主・武田元明の墓 滋賀県高島市

 

最初の目的地は、滋賀県高島市にある宝幢院(ほうどういん)です。

宝幢院には、若狭武田氏最後の当主・武田元明(たけだもとあき)のお墓があります。

周辺は畑に囲まれており、静寂な雰囲気が漂います。

 

 

こちらは、本堂です。

本堂の隣には、墓地が広がっていました。

 

 

本堂を通り過ぎると、武田元明の墓を発見。

武田元明は、父の跡目を継ぎ、若狭の守護職になります。

 

しかし、越前の朝倉氏の侵攻により、朝倉滅亡の間まで、幽閉の身となっていました。

本能寺の変が起おこり織田信長が倒れると、明智光秀に呼応し、勢力拡大を狙いました。

 

 

山崎の戦いにより明智光秀が倒れると、羽柴秀吉に降伏します。

しかし、秀吉の家臣・丹羽長秀がいる宝幢院に招かれて、謀殺されました。

 

うめたろうは未読ですが、作家・水上勉の「湖笛」によって、武田元明は広く知れ渡ったようです。

武田元明に「戦国の世は終わりました」と伝え、次の目的地に向かいました。

 

熊川宿(くまがわしゅく) 織田・明智・徳川が宿泊 福井県若狭町

 

滋賀県の旅ですが、早速、福井県に入ってしまいました。

熊川宿は、若狭国主・浅野長政により、宿場町として整備されます。

江戸時代には、旅籠屋や庄屋200戸が立ち並び、街道の要所として発展を遂げました。

 

 

朝倉討伐のため、織田信長率いる織田軍と徳川軍は、この熊川で一泊したと伝わります。

明智光秀も、先遣隊として熊川に入っています。

浅井長政が裏切った「金ヶ崎の退き口」では、信長は熊川から朽木を抜け、京都へ逃げ落ちました。

 

 

また、細川藤孝(幽斎)の妻・麝香(じゃこう)は、熊川城主・沼田光兼の娘であります。

麝香は細川忠興の母であり、明智光秀の娘・細川ガラシャの姑になります。

熊川城跡も登ることができるのですが、今回は時間的にパスしました。

 

 

こちらは得法寺です。

朝倉攻めの時、徳川家康は得法寺に宿泊しました。

翌朝、徳川家康は、境内にあった松に、腰かけたと伝わっています。

 

 

こちらは、家康腰掛の松の跡

この地に徳川家康が腰かけたという、松があったと伝わります。

松は朽ち果てたのだろうか、と思っていたら・・・。

 

 

入口の門近くに、古い立て看板と共に、朽ちた木を発見!

もしかして、これが家康が腰かけた松なのでしょうか・・・?

誰もいなかったため、確認できませんでした。

 

 

境内には、沼田氏の供養塔もありました。

沼田氏は足利尊氏により、若狭の地を与えられました。

 

それ以降、将軍直属の武士として奉公します。

沼田光長は「永禄の変」で、将軍・足利義輝と共に戦死しています。

 

 

織田信長を苦しめた本願寺の蓮如も、得法寺に逗留しました。

蓮如の掛軸が、得法寺に保管されています。

 

 

熊川宿には、名立たる歴史上の人物が訪れていて、歴史ファンにはたまらんですね・・・。

町はとても雰囲気があり、用水路がまた素敵で、歩くだけで気持ちが良いです。

うめたろうが訪れた時は、お店の開店前でしたが、お店を回りながら歩くのも楽しそうですね。

 

信長の隠れ岩 織田信長が隠れた岩 滋賀県高島市

 

熊川宿から車で約15分のところに、信長の隠れ岩があります。

車は一台ほどなら、停めるほどのスペースがあります。

織田信長は金ヶ崎の退き口で、絶体絶命のピンチを迎え、京都を目指しました。

 

 

金ヶ崎から熊川を通り、今津町保坂から大津市葛川へ抜ける道を駆け抜けます。

織田信長が通ったルートを「朽木越え」と言います。

領主・朽木元網(くつきもとつな)は、甲冑姿で織田信長の前に現れました。

 

 

敵か味方かわからない朽木元網に、松永久秀と森可成が真意を確かめにいきました。

朽木元網に敵意がないことを確認できるまで、織田信長がこの岩窟に隠れていたと伝わります。

 

 

信長の隠れ岩がある場所まで、約5分ほど登ります。

5分とは言え、かなりの危険地帯でした。

通り道は、草がぼうぼうに茂っており、土は湿っています。

 

 

道中には倒木があり、木で作られた手すりは、グラグラで不安定でした。

看板にもありましたが、ヘビやヒルが出そうな雰囲気が、ガンガン感じました・・・。

 

 

11月に訪れたので、まだよかったですが、夏は虫が絶対ヤバそう・・・。

体力的にと言うか、精神的に疲れました(笑)

織田信長は、生きるか死ぬかの瀬戸際の場面を、ここで迎えたと思うと貴重な場所ですね。

 

朽木陣屋跡(くつきじんやあと)朽木氏館跡 滋賀県高島市

 

戦国の大名・朽木氏は、この地に居館を構えていました。

朽木家15代・朽木元網は、関ヶ原の戦いで、西軍に属します。

しかし、小早川秀秋の裏切りに呼応し、東軍に寝返ったことでも有名ですね。

 

 

その後、徳川幕府により、9590石の領地を与えられます。

譜代大名格の待遇を受けた交代寄合として、この地に陣屋を構えました。

 

 

現在は堀・土居・石垣・井戸が、遺構として残っています。

敷地内には、茅葺(かやぶき)屋根の民家がありました。

こちらの民家は、江戸末期の建築物とのことです。

 

 

陣屋跡の隣には、朽木資料館もあります。

資料館を見学には、一週間前からの予約が必要と記載がありました。

 

 

朽木陣屋跡から徒歩で約7分ほどで、旧圓満堂(きゅうえんまんどう)跡に着きます。

朽木元網は、織田信長が領内を通ることを認め、道中の案内役もしました。

圓満堂は、朽木家臣・長谷川茂政が、お茶とお菓子で織田信長をもてなした場所です。

 

 

織田信長は朽木家の対応に感激し、履いていた革袴と銀箸を与えたと伝わります。

このとき、織田信長を生かすも殺すも、朽木元網の気分次第・・・

そうゆう意味では、朽木元網は歴史のキーマンだった訳です。

 

徳川家康で言うところの、伊賀越えを手伝った服部半蔵みたいですよね。

その割には朽木元網の待遇は、いまいちな感じがしますね・・・。

 

「金ヶ崎の退き口」についてはこちら

【信長包囲網】織田信長ゆかりの地【戦い③】

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朽木旭屋(くつきあさひや) 鯖寿司とお蕎麦 滋賀県高島市

 

朽木は、古くから鯖街道と呼ばれていました。

若狭の小浜から京都まで、鯖を運ぶ街道として有名でした。

ということで、鯖を食べなければ!

 

 

鯖寿司を食べるため、朽木旭屋さんを訪れました。

開店前に着きましたが、駐車場で待っている間、続々と車が入ってきます。

 

 

選んだのは、特上鯖ずしセット 1750円です。

鯖ずしが、昆布で巻かれています。

 

 

臭みもなく、身もしっかりしていて、おいしい・・・。

お蕎麦も、おいしくいただきました。

 

おわりに・・・

宝幢院は、奥まった場所にあり、とても静かな場所でした。

武田元明もあそこなら、静かに眠れることでしょう。

 

熊川宿は雰囲気抜群で、今度はお店を回りながら、巡りたいと思いました。

長野県の妻籠・馬籠に似た雰囲気ですね。

 

信長の隠れ岩に行かれる方は、十分に気を付けてください。

事前に先人たちのブログを読んだとき、ヒルに噛まれたという記事を見ました・・・。

夏なら同じ目にあってたかも・・・。

 

朽木は自然が豊かで、素敵な場所でした。

鯖って、意外と高いことに、びっくりしました。

 

滋賀県史跡巡り第二弾につづく・・・。

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