史跡巡り

【八上城跡】京都府・兵庫県史跡巡り④【波多野秀治・明智光秀】

どうも、うめたろうです。

京都・兵庫の史跡巡り、三日目です。

最終日は、京都府を出て兵庫県に突入します。

 

明智光秀ゆかりの地である、丹波の山城を巡ります。

まだ、初日のダメージが残る中、山城を登りました。

 

八上城(やかみじょう) 波多野秀治の居城 兵庫県丹波篠山市

 

福知山のホテルから、車で約45分。

八上城跡の駐車場に、到着しました。

以前は駐車場がなかったようですが、「麒麟がくる」の放送に合わせて作ったようです。

 

 

八上城の説明版がありました。

右の説明版は、薄くなり消えかかっています。

 

 

高城山(たかしろやま)の登山道は、主に三カ所あります。

①春日神社口

②藤木坂口

③野々垣口

どうやら大雨の影響で、藤木坂口は崩れており、危険のようです。

 

 

すぐ隣に、骨董品屋さんがありました。

「丹波一安い」と書いてあります。

刀とか売っているのかな・・・。

 

 

八上城をテーマにしたポスターを発見。

八上城の城主・波多野秀治(はたのひではる)が、描かれています。

明智光秀の母・お牧の姿もあります。

 

 

ボロボロの塀がありました。

これは、今にも崩れそうです・・・。

奥の建物は、社務所か何かでしょうか。

 

 

こちらは春日神社です。

あまり手入れが、されていないように見えます。

 

 

由緒などの説明版はなく、詳細は分かりません。

とりあえず、登城の安全を祈願しました。

 

 

こちらが、登山道の入り口です。

頂上まで約45分、と書いてあります。

八上城の定番コースは、この春日神社口のようです。

 

 

こちらは、主膳屋敷跡です。

1602(慶長七)年、八上城に前田茂勝(まえだしげかつ)が入城しました。

豊臣政権の五奉行の一人、前田玄以(まえだげんい)の息子です。

この場所に、前田主膳茂勝の居館があったと伝わります。

 

 

屋敷跡のすぐ近くに、前田茂勝の供養塔がありました。

前田茂勝は自身の行いにより、幕府から改易をされます。

その後、松平康重(まつだいらやすしげ)が篠山城を築城。

そのため、八上城は廃城となりました。

 

 

山火事の注意の文字。

平日の朝8時なので、誰も人はいません。

 

 

山道は丸太で舗装されており、登りやすかったです。

ひたすら上を目指して、登ります。

 

 

「伝・鴻の巣」と書かれた看板があります。

敵に備えた番所があったようです。

 

 

先程の番所跡から少し登ると、「伝・下茶屋丸」の看板を発見。

こちらも、敵に備えた陣地だったようです。

 

 

この道には「伝・中の壇」と書かれた看板がありました。

少しだけ、平坦な道が続きます。

 

 

緩やかな傾斜を登ります。

まだまだ、道は続きそうです・・・。

 

 

「伝・上の茶屋丸」の看板がありました。

頂上まで、まだ26分かかる・・・。

 

 

あぁ・・・、丸太が延々と続く・・・。

結構、しんどくなってきました。

 

 

「右衛門丸跡」に到着しました。

城主の屋敷跡とあります。

波多野秀治も、ここにいたのでしょうか。

 

蕪丸(かぶらまる)とは、八上城以前に波多野氏が築城した蕪丸城のことです。

説明板の後ろに、石垣が見えますね。

 

 

おぉ・・・、ついに上が開けました。

朝日が、神々しい・・・。

 

 

「三の丸」に到着しました。

南側の谷間に対する陣地、と書いてあります。

雪が少しだけ、残ってますね。

 

 

こちらは「二の丸跡」です。

景色が見えるように、伐採してあります。

 

 

こちらは「岡田丸跡」です。

波多野氏の重臣・岡田某の居館跡と書かれています。

東方面と北方面の防備に当たった場所です。

 

 

こちらは、岡田丸からの景色です。

山々が、そびえ立っています。

 

 

一旦、本丸跡を置いて、はりつけ松跡を見るため、少し下ります。

この看板を見るために、往復30分使いました・・・。

 

 

こちらが「はりつけ松跡」です。

八上城には、明智光秀の母にまつわる逸話があります。

明智光秀は、自分の母親・お牧を、波多野氏に人質として出していました。

 

波多野秀治、秀尚兄弟の生け捕りに成功します。

その後、波多野兄弟は、信長の命により、はりつけにされ殺害されました。

 

主君を討たれた波多野氏の家臣たちは、仕返しとして、母親をはりつけにして殺害したと言います。

しかし、現在では、この逸話の信憑性は低いと言われています・・・。

 

 

はりつけ松跡から15分ほど登ると、本丸跡です。

ついに、本丸跡に到着。

 

 

こちらは、本丸跡の全体の写真です。

休憩できるベンチがありました。

 

 

大きい石碑と、小さな石碑があります。

全く文字が見えません・・・。

 

 

波多野治秀の慰霊碑です。

八上城主・波多野治秀は、織田方につき、明智光秀の丹波攻略に協力します。

明智光秀は、丹波で最大の勢力を持つ黒井城主・赤井直正に攻撃を開始。

 

明智光秀が黒井城を攻めると、突如、波多野秀治は織田軍を裏切ります。

波多野秀治は、明智光秀を丹波から追い払うことに成功しました。

 

 

明智光秀は、再び丹波攻略に動き、黒井城と八上城の連絡を分断します。

波多野秀治の八上城は、明智軍により完全に包囲されました。

八上城は長期の籠城戦により、兵糧が尽き、餓死者が続出。

 

波多野治秀・秀尚兄弟は、明智光秀に降伏します。

の後、波多野兄弟は安土に送られ、磔にされたのち、処刑されました。

 

 

波多野秀治の慰霊碑の後ろに、八上城の説明板があります。

100年余り続いた八上城は、篠山城の築城により、その姿を消しました。

 

 

こちらは、本丸跡からの景色です。

山が多いので、家が密集していますね。

 

 

山が入り組んでいます・・・。

この地を攻めるのは、相当大変だったことがわかります。

 

波多野秀治(はたのひではる)の墓 兵庫県丹波篠山市

 

八上城跡から、車で約20分ほどのところに、波多野治秀の墓があります。

途中から、車が一台しか通れない、細い道を通ります。

駐車場はないので、目の前のスペースに車を停めました。

 

 

お地蔵さんが並んでいます。

50メートル先に、お墓があるようです。

 

 

「開放厳禁」と書かれた柵を発見。

動物対策の柵でしょうか。

 

 

こちらが、波多野秀治のお墓です。

立派なお墓です。

 

 

波多野秀治の子孫の方たちにより、お墓が建てられました。

八上城がある高城山が見渡せる、この地に波多野秀治は眠っています。

 

 

そのまま、織田方についていれば、命は助かったでしょう。

しかし、当時、織田方からの離反者が続出していました。

播磨国の三木城主・別所長治も、織田方から離反します。

 

別所長治の妻は、波多野秀治の娘、妹とも言われています。

別所の離反と同時に、波多野秀治も織田方を裏切りました。

その他の反信長勢力と結託し、織田信長を倒そうとしたのではないでしょうか。

 

 

波多野秀治の辞世の句がありました。

「よわりける 心の闇に迷わねば いで物見せん 後の世にこそ」

 

おわりに・・・

丹波の城の一発目は、八上城跡に登りました。

このあと、金山城跡と黒井城跡にも上りました。

3つのお城の中で八上城が、一番きつかったですね・・・。

 

さすが、「丹波の富士」と言われる高城山でした。

周辺は見事に山ばかりで、明智光秀の苦労が想像できました。

丹波を攻略した明智光秀は、やはりすごい武将だったのでしょう。

 

波多野治秀のお墓を出たうめたろうは、次の山城に向かいます・・・。

其の五に続く・・・。

 

明智光秀の丹波攻略はこちら

【続・信長包囲網】織田信長ゆかりの地【戦い⑥】

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