史跡巡り

【本能寺・明智藪】京都史跡巡り⑥【織田信長・明智光秀】

どうも、うめたろうです。

京都史跡巡りの旅、第六弾です。

三日目、最終日の続きは、織田信長・明智光秀の二人の終焉の地を巡ります。

 

前回は、織田信忠の自刃の地である二条殿跡を訪れました。

二条殿跡から車で約5分、本能寺の変が起きた本能寺跡に向かいました。

 

本能寺跡(ほんのうじあと) 織田信長終焉の地 京都府京都市中京区

 

こちらは、本能寺跡の石碑です。

周辺にはコインパーキングがいくつかあり、そちらに車を停めました。

現在、本能寺跡の場所には、老人ホームが建っています。

 

Googleマップで、「本能特別養護老人ホーム」と入れると本能寺跡が出てきます。

本能寺跡の石碑は2つあり、こちらは油小路通りにある石碑です。

 

 

本能寺の変は、歴史に興味がない人でも知っている有名な事件です。

明智光秀が本能寺を襲撃し、織田信長を死に追い詰めました。

そう・・・、ここは織田信長終焉の地になります。

 

 

織田信長が本能寺に宿泊したのは、生涯たったの4回と言われています。

上洛の際、織田信長が定宿としていたのは妙覚寺でした。

しかし、この時、妙覚寺には息子の織田信忠が宿泊していました。

 

そのため、織田信長は、本能寺に宿泊することになります。

当時の本能寺は、30以上の塔頭があり、広大な敷地を持っていた大きなお寺でした。

 

 

こちらは、蛸薬師通りにあるもう一つの本能寺跡の石碑です。

近年では、織田信長が宿泊していたのは、寺の建物ではなく、小規模な専用御殿だと言われています。

大坂本願寺跡に築城中であった織田信長は、仮の宿泊地として本能寺に泊まった可能性があります。

 

 

明智光秀は、二条殿で織田信忠を襲撃し、本能寺では織田信長を襲撃しました。

「信長公記」では、織田信長が本能寺で自刃したと書かれています。

 

しかし、遺体は発見されず、誰も織田信長の死を目撃していません。

織田信長は、本能寺と共に跡形もなく、灰となったのです・・・。

 

本能寺(ほんのうじ) 織田信長の墓 京都府京都市中京区

 

本能寺跡から、現在の本能寺に到着しました。

駐車場はないので、近くのコインパーキングに車を停めました。

 

 

本能寺は、1591(天正19)年に豊臣秀吉の命で、現在の場所へ移転しました。

江戸時代には、幕府から40石を与えられ、90を越える末寺を持つ大寺院でした。

現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地だったようです。

 

 

こちらは、境内の地図です。

宝物館では、信長に危険を知らせた香炉「三足の蛙」、信長が所蔵していた茶器などを見ることができます。

 

境内のすぐ隣には、「ホテル本能寺」があります。

本能寺ホテル・・・、人生で一度は泊まってみたいですね。

 

 

こちらが、本能寺の本堂です。

本能寺では、度重なる大火により、本堂が焼失しています。

こちらの本堂は、1928(昭和3)年に建立されました。

 

 

こちらは、織田信長のお墓です。

このお墓は、信長の三男・織田信孝が建立しました。

 

織田信孝は、信長らの骨の取集作業をおこない、本能寺を父である信長の墓所と定めました。

また、この地に織田信長が所持をしていた刀を収めたと伝わります。

 

 

織田信長は、襲撃したのが明智光秀と知った時、どのような感情だったのでしょうか。

過去にも織田信長を裏切った武将たちは、数多くいました。

しかし、まさか自分の右腕である明智光秀が裏切るとは思わなかったでしょう・・・。

 

 

こちらは、本能寺の変で、織田信長と共に戦死した人たちのお墓です。

織田信長が襲撃を受けたことを知り、急いで駆けつけた家臣たちもいました。

 

 

こちらには、戦死者の一覧が書かれています。

戦死した中には、有名な森蘭丸のほかにも、名を轟かせた武将たちもいました。

 

早くから織田信長の家臣となり、行政手腕に長けた村井貞勝。

桶狭間の戦いで、今川義元の首を取った毛利良勝。

斎藤道三の末子と言われ、義兄の斎藤利三と戦った斎藤利治。

 

このように本能寺の変では、多くの織田信長に仕えた者たちが亡くなりました。

 

明智光秀の首塚 明智光秀の首を祀る祠 京都府京都市東山区

 

本能寺から車で10分、東山区にある明智光秀の首塚に到着しました。

白川沿いから細い道に入ると、明智光秀の首塚があります。

 

 

明智光秀は、小栗栖の竹藪で襲われ、重傷を負いました。

「自分の首を知恩院まで届け、そのあと灰にせよ」と、家臣の溝尾茂朝に命じます。

 

溝尾茂朝は光秀を介錯し、知恩院のそばまで着いたところで、夜が明けたため、その場に首を埋葬しました。

溝尾茂朝は主君のあとを追い、その場で自害したと伝わります。

 

 

「兼見卿記」によると、明智光秀の首は発見され、粟田口で重臣の首と共に晒されました。

その数日後には首は埋められ、首塚が築かれたと記されています。

その塚が、この場所に移ったのではないかとの説もあります。

 

 

江戸時代には、この場所が多くの書物に記されていました。

この首塚は、当時よく知られた名所だったと伝わります。

当時の人たちも、明智光秀を深く慕っていたのでしょう。

 

 

祠には、明智光秀の木像が本尊として祀られ、遺骨が納められています。

こちらは、明智光秀の木像の写真です。

祠の隣には、首塚についての資料が貼られていました。

 

 

こちらは、江戸時代の首塚の写真です。

幕末頃の写真でしょうか・・・?

 

餅寅(もちとら) 光秀饅頭 京都府京都市東山区

 

こちらは、明智光秀の首塚の近くにある和菓子屋「餅寅(もちとら)」です。

明智光秀の首塚は、餅寅の店主さんが管理をしています。

お店の方が代々、明智光秀の首塚を守ってきました。

 

 

店構えは、とても雰囲気が良く、どこか懐かしさを感じます。

目の前には白川が流れ、京都らしい趣を感じました。

 

 

こちらが餅寅さんの名物、光秀饅頭です。

光秀饅頭と明智光秀ブレンド茶を購入しました。

光秀饅頭は、抹茶生地の白みそあんと黒糖生地のつぶあんがあります。

 

つぶあんもおいしかったんですが、白みそあんがとても好みの味でおいしかったです。

店主の方に光秀の首塚について伺ったら、首塚の資料を頂きました。

 

本経寺(ほんきょうじ) 明智光秀の供養塔 京都府京都市伏見区

 

明智光秀の首塚から車で約20分、小栗栖(おぐりす)のコインパーキング(名鉄協商)に到着しました。

コインパーキングから徒歩5分ほどで、本経寺(ほんきょうじ)に着きます。

 

本経寺には、参拝用の駐車場がありました。

しかし、この周辺は道がとても細いので、コインパーキングに停めた方が無難かも・・・。

 

 

こちらが、本経寺の本堂です。

本経寺には、明治時代まで僧の学問所があったようです。

 

 

こちらは、明智光秀の供養塔です。

明智光秀の終焉の地である明智藪は、本経寺の寺領でした。

 

 

「明智日向守光秀公供養塔」と記されています。

明智光秀の魂が、ここに眠ります。

 

 

説明板には、明智光秀について記されています。

平成10年と書いてあるので、比較的新しい説明板のようです。

 

明智藪(あけちやぶ) 明智光秀終焉の地 京都府京都市伏見区

 

本経寺から、歩いてすぐの場所に明智藪(あけちやぶ)があります。

こちらは、明智藪の石碑です。

 

この石碑には、明智光秀が近臣十数名と共に、坂本城を目指したとあります。

そして、信長の近臣・小栗栖館の武士集団、飯田一党の襲撃にあったと書かれていました。

 

 

こちらが、明智藪です。

大河ドラマ「麒麟がくる」のPRするのぼりが立っていました。

福知山と岐阜の可児市ののぼりがありました。

 

 

明智光秀は、再起を賭け、坂本城を目指します。

しかし、この竹藪で襲撃され、命を落としました。

 

武士として、最期は自らの城で死にたかったでしょう・・・。

明智光秀にとって、無念の死だったと思います。

 

 

こちらは、明智光秀が竹槍で刺されるシーンです。

竹槍がわき腹の辺りに突き刺さっています。

 

 

明智藪の周辺は、竹藪が伐採されていました。

大きな道路でもできるのでしょうか。

 

小栗栖八幡宮(おぐりすはちまんぐう) 小栗栖城跡 京都府京都市伏見区

 

明智藪から徒歩5分、小栗栖八幡宮(おぐりすはちまんぐう)に到着しました。

小栗栖八幡宮のある場所に、小栗栖城があったとされています。

 

小栗栖城の城主・飯田氏は、この地に土着していました。

明智藪の石碑に書かれていた武士集団・飯田一党は、この飯田氏を指しています。

 

 

小栗栖八幡宮の創建は、平安時代と書かれています。

お城は、鎌倉時代に築城されたようです。

 

 

境内に、石垣を発見しました。

これはいつの時代の石垣なのでしょうか・・・。

 

 

こちらが社殿です。

瓦の上にシートが覆っています・・・、雨除けでしょうか。

多くの絵馬が飾られており、地元の人に愛されているのが伺えます。

 

明智光秀の胴塚 続・明智光秀終焉の地 京都府京都市山科区

 

明智藪から車で約5分、明智光秀の胴塚に到着しました。

この胴塚は、車で走っていると、見落としてしまう位置に建っています。

胴塚の隣には、コイン精米機があるので、それが目印です。

 

 

こちらが、明智光秀の胴塚です。

お茶やお酒のお供え物がありました。

今でも、多くの方が訪れているのでしょうか。

 

 

小栗栖の竹藪で深手を負った明智光秀は、この辺りまで来て力尽きたと伝わります。

明智光秀の家臣が、光秀の遺体をこの地に埋葬しました。

 

 

「明智軍記」には、小栗栖の竹藪から少し進んで自害したと記されています。

その伝承をもとに、この地に明智光秀の胴塚が建立されたようです。

 

おわり・・・

京都史跡巡りの旅はこれにて終了です。

全6回に渡り、京都史跡巡りの旅をお送り致しました。

 

明智光秀のゆかりの城・・・、丹波亀山城、勝竜寺城。

明智光秀の戦いの場所・・・、山崎の戦い、本能寺の変。

明智光秀の終焉の地・・・、明智藪。

明智光秀の魂が宿る・・・、明智光秀の首塚と胴塚

 

今回の京都史跡巡りでは、明智光秀の人生の終盤に関する土地を巡りました。

そして、今回をもって、明智光秀を追っかける史跡旅も終了です。

 

大河ドラマ「麒麟がくる」の放送開始にあたり、明智光秀の史跡を巡ることを決めた史跡旅・・・。

明智光秀の故郷、岐阜県から始まり、福井県、滋賀県、そして終焉の地である京都を巡りました。

 

斎藤道三の意志を継ぎ、朝倉義景のもとで耐え抜き、足利義昭の側近となる・・・。

織田信長のもとで活躍し、坂本、亀山、福知山にお城を築いた・・・。

織田信長を襲撃した本能寺の変、羽柴秀吉との最終決戦である山崎の戦い・・・。

 

そして・・・、京都の小栗栖で落ち武者狩りに遭い、生涯を閉じた・・・。

しかし、小栗栖では死んでおらず、その後、生き延びたという伝説がある・・・。

明智光秀を慕う人々が、生きていてほしいと願う気持ちが、光秀生存伝説を作り上げたのかもしれません。

 

各県を巡って、明智光秀の史跡が多く残っていることに感心しました。

その分、スケジュールが大変だったけど・・・。

それだけ明智光秀が、地元の人達に愛されているのがわかりました。

 

明智光秀が残した功績は、この先もずっと語り継がれていくでしょう。

スケジュールの都合で、周れなかった光秀関連の史跡もまだまだありました。

また別の機会があれば、周りたいと思います。

 

「麒麟がくる」を見て、明智光秀が気になった方も多くいると思います。

ぜひ、明智光秀の史跡を訪ねてみてはいかがでしょうか。

この記事が、少しでも史跡巡りの参考になれば幸いです。

 

それでは、次の史跡巡りで、またお会いしましょう。

いやぁー・・・、歴史って本当にいいもんですね~。

 

明智光秀の伝説はこちら

明智光秀は天海だったのか?

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