戦国時代

【続・信長包囲網】織田信長ゆかりの地【戦い⑥】

1575(天正3)年、織田信長は嫡男・織田信忠(のぶただ)に、織田家の家督を譲りました。

家督を譲った織田信長ですが、織田政権の総指揮は引き続き、信長が行います。

その後、長篠の地で武田勝頼(たけだかつより)を破り、天王寺の戦いでは石山本願寺に勝利しました。

 

織田信長は石山本願寺の戦力を削るため、紀州(きしゅう)の鉄砲集団・雑賀(さいか)衆の討伐に動き出します。

毛利氏の庇護にある足利義昭(あしかがよしあき)は、幕府の再興をまだ諦めていませんでした。

足利義昭により、信長包囲網が再構築され、敵対勢力の動きが活発になります。

 

織田信長は軍神と言われた越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と、接触することになります。

果たして織田信長は、この状況を打破することができるのでしょうか・・・。

 

雑賀(さいか)攻め 【鉄砲最強集団・雑賀衆討伐戦】

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1577年(天正5)年、紀伊(きい)国【和歌山県】で、織田信長による「雑賀(さいか)攻め」が起こります。

 

紀伊国は、寺社勢力や国人が力を持ち、各々が領地を割拠している共和国のような状態でした。

室町期の紀伊国の守護は、畠山(はたけやま)氏でした。

しかし、畠山氏は国人衆との抗争が続いた結果、紀伊国を支配できませんでした。

 

このような守護の支配を排除し、自治をおこなう地域を「惣国(そうこく)」と呼びました。

 

紀伊国の主な勢力

高野山(こうやさん)、粉河寺(こかわでら)、根来寺(ねごろじ)、雑賀衆(さいかしゅう)

その他にも、熊野三山も勢力として存在していました。

 

石山本願寺に味方する雑賀衆の討伐を決めた織田信長は、その本拠地である紀伊国に進軍します。

織田信長は、雑賀衆を討伐すれば、石山本願寺の戦力は大きく減衰するだろうと考えました。

雑賀衆は高い軍事力を持った鉄砲の傭兵集団として、全国に名を轟かせていました。

 

雑賀衆は、紀伊国北西部の5つの地域の地侍たちにより構成されていました。

雑賀五組

「雑賀荘」、「十ヶ郷」、「中郷(中川郷)」、「南郷(三上郷)」、「宮郷(社家郷)」

 

雑賀衆には、石山本願寺の浄土真宗(じょうどしんしゅう)派の門徒と、それ以外の宗派を信じる門徒がいます。

天王寺の戦いでは、浄土真宗派と織田信長に反感を持つ非門徒が連携し、戦場に参加していました。

雑賀衆の中には、織田信長に敵対することに反対な意見を持つ門徒もいました。

 

織田信長はその一部の門徒に目をつけ、中郷、南郷、宮郷の雑賀三組を味方にします。

残りの2組、「雑賀荘」・「十ヶ郷」を討伐するため、織田信長は紀伊国に進軍します。

また、紀伊国の根来(ねごろ)衆は、織田信長に味方し、この戦いに参戦しています。

 

織田信長は安土から京都に上洛し、そのほかの織田軍も京都に集結します。

岐阜から織田信忠、伊勢から織田信雄(のぶかつ)の軍勢、その他の各地の織田軍が合流しました。

織田軍は和泉(いずみ)に入り、雑賀衆の前衛拠点である貝塚(かいづか)の攻撃を開始します。

 

織田信長は根来衆と合流し、志立(しだち)に本陣を移しました。

そして、軍勢を山手と浜手の二手に分けて進軍を開始します。

 

織田軍山手ルート

佐久間信盛、羽柴秀吉、堀秀政、荒木村重、別所長治、別所重宗

織田軍浜手ルート

滝川一益、明智光秀、細川藤孝、丹羽長秀、筒井順慶、織田信忠、織田信孝、織田信包

 

浜手の織田軍は淡輪(たんのわ)に入り、さらに三組に分かれます。

織田軍は孝子峠(きょうしとうげ)を越え、中野(なかの)城を包囲します。

織田信長は淡輪まで本陣を進め、中野城を調略により開城させました。

 

その後、鈴木孫一(すずきまごいち)の居館を攻撃し、紀ノ川を越え、雑賀に迫ります。

雑賀衆は雑賀(さいか)城に立て籠り、周辺に砦を築き、織田軍と対峙します。

堀秀政(ほりひでまさ)の軍勢は、雑賀川を渡り攻撃を仕掛けようとします。

 

しかし、雑賀の鉄砲隊は、二列に隊列を組み、頭上から堀秀政隊めがけて発砲を浴びせます。

鉄砲隊により狙い撃ちをされた堀秀政隊は、大きな損害を受け、退却します。

その後、両軍の戦いは膠着(こうちゃく)状態が続きます。

 

雑賀荘・十ヶ郷の雑賀衆を率いているのは、鈴木孫一と土橋守重(つちばしもりしげ)でした。

鈴木孫一らは、ここで織田信長に降伏の誓紙を差し出します。

織田信長は降伏を承諾し、軍勢を引き上げることにしました。

 

雑賀衆の再起に備えて、佐野(さの)砦に織田信張(おだのぶはる)を配置しました。

しかし、降伏した数か月後、雑賀荘・十ヶ郷の雑賀衆は再び、挙兵をします。

雑賀荘・十ヶ郷の衆たちは、先の戦いで織田信長に味方した三組の雑賀衆への攻撃を開始します。

 

織田信長は再び、紀伊国に佐久間信盛(さくまのぶもり)親子を進軍させますが、制圧に失敗します。

雑賀荘・十ヶ郷衆は、中郷・南郷衆を味方にし、宮郷の拠点地・太田城を攻撃し、城を包囲しました。

宮郷の雑賀衆は、その後、石山本願寺に謝罪し、再び織田軍と敵対しました。

雑賀城跡(さいかじょうあと)【城跡山公園】

住所:和歌山県和歌山市和歌浦中3丁目1−31

アクセス:JR紀伊本線「紀三井寺駅」から徒歩約30分

 

手取川(てどりがわ)の戦い 【軍神・上杉謙信との対決】

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1577(天正5)年、加賀(かが)国【石川県】で、「手取川(てどりがわ)の戦い」が起こります。

越後(えちご)国【新潟県】の国主・上杉謙信は、甲斐(かい)の武田氏と相模(さがみ)の北条氏との間で、領地争をしていました。

足利義昭は、毛利輝元(もうりてるもと)のもとで、反信長勢力の拡大を狙っていました。

 

そこに、上杉謙信にも、幕府再興の援助の要請が届きます。

足利義昭は甲斐、相模、越後の三国で同盟を組ませる計画を立てます。

さらに、上杉謙信は一向一揆で敵対関係にあった石山本願寺の顕如(けんにょ)と和睦を結びます。

 

足利義昭は上杉謙信の上洛に期待し、信長包囲網の再構築にとりかかります。

足利義昭の要請を受け、ついに上杉謙信は行動を開始します。

上杉謙信はまず、越後の隣国である越中(えっちゅう)【富山県】に侵攻します。

 

越中国の蓮沼(はすぬま)城主・椎名康胤(しいなやすたね)を討ち、越中国を支配下に置きます。

さらに、越中国の隣国である能登(のと)国【石川県】の制圧を、次の目標に決めました。

能登国の拠点である七尾(ななお)城を攻略するため、上杉謙信は進軍します。

 

七尾(ななお)城の戦い

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七尾城は、能登畠山氏の畠山義隆(はたけやまよしたか)が城主でした。

しかし、畠山義隆が急死したため、幼年の春王丸(はるおうまる)が城主となります。

当主が幼いため、七尾城の実権は、重臣の長続連(ちょうつぐつら)・綱連(つなつら)親子が握ることになります。

 

上杉謙信の進軍に、長親子は七尾城に籠城し、徹底抗戦をします。

上杉謙信は七尾城を孤立させるため、周辺の小城を次々と落とします。

しかし、難攻不落といわれた七尾城に、攻めあぐねていました。

 

七尾城を包囲中に、関東で北条氏政(ほうじょううじまさ)が進軍したとの報を受けます。

上杉謙信は、能登国から軍勢の一時撤退を決めます。

しかし、北条軍の侵攻は大規模なものでありませんでした。

 

上杉謙信は2万の軍勢を率いて再び、能登に進軍し、七尾城を囲みました。

この時、長続連は安土の織田信長に、援軍の要請の使者を送っていました。

織田信長は援軍の要請を了解し、柴田勝家を総大将とし、織田軍を能登に派遣させます。

 

上杉謙信は織田軍の進軍を知り、協力を求めます。

加賀一向一揆の指導者・七里頼周(しちりよりちか)に、織田軍の妨害を求める書状を送りました。

籠城が続く七尾城内では、疫病が発生し、疫病により亡くなる者が相次ぎました。

 

七尾城の当主・畠山春王丸も疫病により死去しました。

この時、上杉派であった畠山家臣・遊佐続光(ゆさつぐみつ)らは、上杉謙信に内通をします。

遊佐続光らは城内で反乱を起こし、城門を開け、上杉軍を招き入れました。

 

この反乱により、信長派であった長親子は殺害され、七尾城は上杉謙信の手に落ちました。

 

上杉謙信、襲撃

柴田勝家を総大将とした織田軍は、越前の北ノ庄(きたのしょう)城に集結し、越前国を出陣します。

織田軍は加賀国へ入って、一向一揆勢の妨害に合いながらも、軍を進めます。

しかし、ここで織田軍に問題が起こります。

 

以前から柴田勝家と不仲の関係だった羽柴秀吉が、意見の食い違いで、自軍を引き上げてしまいます。

羽柴秀吉は無断で軍を離脱したため、このあと、織田信長に咎められることになります。

織田軍は羽柴秀吉の離脱や、加賀一向一揆の妨害などにより、士気が上がらず、進軍がはどりません。

 

さらに、肝心の救援予定である七尾城はすでに落城しており、その事実を柴田勝家はまだ知りません。

織田軍の進軍に対して、上杉謙信は七尾城を出陣します。

上杉謙信は、手取川(てどりがわ)付近の松任(まっとう)城に入城します。

 

柴田勝家は軍勢を進め、手取川を越えます。

しかし、ここで初めて七尾城落城と上杉謙信が松任城に居ることを知り、早急に軍の撤退を決めます。

上杉謙信は撤退する織田軍を追撃し、猛攻を仕掛けます。

 

織田軍は上杉軍の攻撃により、鯰江貞利(なまずえさだとし)が討ち取らます。

増水した手取川で溺死する者もおり、織田軍は千人余りの使者を出し、大敗をしました。

 

その後、柴田勝家は御幸塚(みゆきづか)の砦に佐久間盛政(さくまもりまさ)を配置します。

さらに、大聖寺(だいしょうじ)城に兵を残し、加賀国から撤退しました。

 

この合戦についての落首が残されています。

「上杉に逢ふては 織田も名取川(手取川) はねる謙信 逃ぐるとぶ長」

(手取川で勢いに乗った上杉軍に出会った信長軍は、飛ぶように逃げ帰った)

 

また、上杉謙信は戦いの感想を書状に書いています。

「織田信長と雌雄を決する覚悟で戦に臨んだが、案外弱く、この分なら天下統一することは簡単だ。」

 

織田信長は、奥州の伊達輝宗(だててるむ)や越後の本庄繁長(ほんじょうしげなが)と手を組み、上杉謙信を討つことを計画していました。

実は、この時、織田信長は本隊を率いて、北陸侵攻を計画していました。

しかし、突然の松永久秀(まつながひさひで)の謀反によって、計画を中止したと言います。

 

上杉謙信は手取川の戦いから一年後に、春日山(かすがやま)城内で倒れ、この世を去ります。

その後、上杉家は家督相続をめぐり、お家騒動が発生した結果、勢力が衰えます。

武田信玄に続き、上杉謙信までもが病気で亡くなりました・・・。

 

その後、能登国は織田軍によって、信長の支配下に置かれました。

織田信長は武田信玄同様、上杉謙信と戦わずして、勝ったのでした・・・。

七尾城跡(ななおじょうあと)

住所:石川県七尾市古府町

アクセス:JR七尾線「七尾駅」から市内巡回バスで約13分 「城史資料館前」下車 本丸まで徒歩1時間


手取川古戦場(てどりがわこせんじょう)

住所:石川県白山市湊町154

アクセス:JR北陸本線「小舞子駅」より徒歩で約10分

 

信貴山城(しぎさんじょう)の戦い 【二度の裏切者・松永久秀討伐戦】

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1577(天正5)年、大和(やまと)国【奈良県】で、「信貴山城(しぎさんじょう)の戦い」が起こります。

松永久秀(まつながひさひで)は、三好長慶(みよしながよし)のもとで頭角を表します。

三好家の家臣として活躍をし、数々の合戦に参加し、三好家の繁栄に貢献をしてきました。

 

その後、三好家を離れ、三好三人衆と抗争を繰り返していました。

織田信長が足利義昭と共に上洛すると、三好義継(みよしよしつぐ)と共に信長に従属します。

足利義昭が織田信長と対立すると、足利義昭の信長包囲網に加わり、織田信長と敵対しました。

 

織田信長によって、足利義昭は追放、三好義継は自刃に追い込まれました。

松永久秀は織田信長に許されますが、大和(やまと)国の領地は没収されます。

大和(やまと)の支配権は塙直政(ばんなおまさ)に変わりました。

 

天王寺の戦いで本願寺の講義気により、塙直政が戦死します。

すると大和の支配権は、松永久秀の宿敵であった筒井順慶(つついじゅんけい)に与えられます。

松永久秀と筒井順慶は同格でしたが、筒井順慶が大和の守護になり、二人の立場は変化しました。

 

筒井順慶は、松永久秀のかつての拠点・多聞(たもん)城を破棄します。

松永久秀は織田政権に対し、不満をつのらせていました。

そんな中ついに、松永久秀は織田信長に対して、二度目の裏切りを行います。

 

松永久秀は、石山本願寺と対峙していた天王寺砦を焼き払い、勝手に戦場を離脱します。

織田信長の命令に背き、息子の松永久通(ひさみち)と、信貴山(しぎさん)城に立て籠もりました。

 

織田信長は理由を聞くため、松井有閑(まついゆうかん)を使者とし、信貴山城に派遣します。

しかし、松永久秀は使者とは会わずに、そのまま追い返しました。

 

なぜ、松永久秀は再び、裏切ったのか?

一回目の裏切りは、信長包囲網に加わり、諸国の大名と共に、織田信長に敵対しました。

二回目の裏切りの背景には、再び、信長包囲網が構築されようとしていたことでした。

 

石山本願寺の顕如(けんにょ)は、織田信長に抵抗し続けいる。

西国の毛利氏も織田信長の敵となり、山陰道、山陽道では毛利方が羽柴秀吉と戦っている。

越後の上杉謙信が足利義昭の要請で上洛を決めている。

丹後国では、織田信長に敵対する豪族たちが明智光秀と戦っている。

甲斐国には、長篠の戦いで敗れたが、武田勝頼(たけだかつより)が健在している。

 

織田信長に敵対する勢力は、まだ各地に残っていました。

反信長勢力がうまく連携すれば、織田信長を潰す可能性はまだあったのです。

同時に、筒井順慶を優遇する信長に対する不満も重なり、謀反を起こしたとされています。

 

ついに織田信長は、松永久秀の討伐を決行します。

筒井順慶、明智光秀、細川藤孝を出陣させ、織田軍は支城である片岡(かたおか)城に攻撃をします。

織田軍の猛攻により、片岡城は落城しました。

 

この戦いで、片岡城を守備していた松永軍の海老名勝正(えびなかつまさ)、森秀光(もりひでみつ)を含む、150人が戦死しました。

織田軍は織田信忠(のぶたただ)らの援軍が加わり、4万の大軍となって、信貴山城に攻め込みます。

信貴山城の四層の天守櫓は、安土城の天守のモデルになったと伝わっています。

 

松永軍の決死の猛攻により、織田軍は苦戦し、戦いは持久戦に持ち込まれました。

そこで、松永久秀は石山本願寺の顕如に援軍を要請することを決めます。

松永久秀の家臣である森好久(もりよしひさ)を使者とし、本願寺に送りこみます。

 

森好久は、本願寺から鉄砲隊200名を引き連れて、無事、信貴山城に帰還しました。

しかし、森好久は元筒井順慶の家臣であったことで、松永久秀を裏切りました。

森好久は筒井順慶の家臣・松倉重信(まつくらしげのぶ)の陣に駆け込みます。

 

そして、織田軍の筒井順慶に、信貴山城の内情を報告しました。

これを機に、筒井順慶は前線に立ち、信貴山城に猛攻撃を仕掛けます。

同時に、森好久が信貴山城に入れた鉄砲隊200名が、城内で反乱を起こし、松永軍を崩壊させます。

 

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松永久秀の最期 ~「角川太閤記」の逸話~

織田軍の佐久間信盛は名器・古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)を城外へ出すよう、松永久秀に言いました。

松永久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首2つは、信長公に渡さない。鉄砲の火薬で粉々に打ち壊す」と返答します。

松永久秀は平蜘蛛を叩き割り、天守に火をかけ、息子の久通と共に自害しました。

 

また、松永久秀の首と平蜘蛛は、鉄砲の火薬によって砕けました。

この逸話が膨張したため、「松永久秀は爆死した」という逸話が広まりました。

 

また、「多聞院(たもんいん)日記」では、「4つの首が安土城に運ばれた」と書かれています。

松永久秀の銅体は筒井順慶により手厚く埋葬され、奈良県の達磨(だるま)寺に葬られました。

松永久秀の墓は、京都市下京区にある松永久秀の屋敷跡につくられた妙恵会(みょうえかい)総墓地にあります。

信貴山城跡(しぎさんじょうあと)

住所:奈良県生駒郡平群町信貴山

アクセス:近鉄生駒線「信貴山下駅」からバスで約15分「信貴山門」下車 徒歩約15分


達磨寺(だるまじ)

住所:奈良県北葛城郡王寺町本町2丁目1−40

アクセス:JR王寺駅から徒歩約15分

 

月岡野(つきおか)の戦い 【越中国制圧戦】

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1578(天正6)年、越中(えっちゅう)国【富山県】で、「月岡野(つきおかの)の戦い」が起こります。

越後の上杉謙信は、春日山城で倒れ、病気によりこの世を去りました。

上杉家では後継者争いの「御館の乱(おたてのらん)」が勃発し、上杉家の勢力は減衰します。

 

織田信長は、その隙をつき、上杉家の勢力下である越中国の攻略に動きます。

越中国の攻略に、越中の守護代でもあった神保長住(じんぼうながずみ)に命じました。

神保長住は、佐々長穐(さっさながあき)の兵と共に、飛騨(ひだ)国【岐阜県】から侵攻します。

織田信長は、義弟である斎藤利治(さいとうとしはる)率いる美濃・尾張の兵を援軍として送ります。

 

斎藤利治率いる織田軍は、姉小路頼綱(あねこうじよりつな)の援助を受け、越中南部に進軍します。

飛騨国・桜洞(さくらぼら)城主・姉小路頼綱は、妻に斎藤道三の娘を持ち、信長とは相婿関係でした。

越中国に進軍した織田軍は、津毛(つげ)城を落城させ、神保長住が入城します。

 

織田軍は太田本郷(おおたほんごう)城を経由して、今泉(いまいずみ)城を攻撃します。

今泉城の守りは固く、上杉氏家臣・河田長親(かわだながちか)と長尾景直(ながおかげなお)の反撃に合い、軍を撤退させます。

斎藤利治は、河田長親が追撃して来たところ、複雑な地形である月岡野(つきおかの)に上杉軍を誘い込みます。

 

斎藤利治は追撃して来た上杉軍を逆襲し、360の首級をあげました。

その後、織田軍は姉小路頼綱が飛騨から到着し、今泉城や富山(とやま)城を奪還し、上杉軍に勝利しました。

越中国の平定を目指す織田軍は、その後、北陸方面軍の柴田勝家に引き継ぎます。

 

織田信長は上杉軍に勝利したことで、織田軍の強さが日本全国に知れ渡ることになります。

織田信長はこの勝利を宣伝するために、全国の大名に手紙を送ったと言います。

今泉城跡(いまいずみじょうあと)

住所:富山県富山市今泉257−4

アクセス:富山地方鉄道「南富山駅」から徒歩約11分

 

丹波(たんば)侵攻 【明智光秀、赤井・阿波野討伐戦】

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1575(天正3年)、織田信長は、丹波(たんば)侵攻を本格的に開始します。

家臣の明智光秀(あけちみつひで)は、丹波侵攻の総大将に任命されました。

丹波国・黒井(くろい)城の城主・赤井直正(あかいなおまさ)は、丹波で最大の勢力を持った大名でした。

 

織田軍の侵攻に対して、赤井直正は黒井城で明智光秀を迎え撃ちます。

この時、織田信長は丹波の国人衆に朱印状を送っています。

八上(やがみ)城の波多野秀治(はたのひではる)をはじめ、丹波の国人衆の大半を味方に取り込んでいました。

 

第一次黒井城の戦い

織田軍は丹波国に進軍し、赤井直正がいる黒井城を包囲します。

明智光秀は、「黒井城は兵糧が持たず、春までには落城するだろう」と考えていました。

そんな中、織田方だった八上城主・波多野秀治が織田軍を裏切りました。

 

それに合わせ、大路(おおじ)城主・波多野秀香(ひでたか)、霧山(きりやま)城主・波多野秀尚(ひでなお)も織田軍を裏切ります。

波多野軍は、西と東から挟み撃ちをし、明智軍を追い込みます。

明智光秀軍は柏原方面に退却しますが、そこでも敵軍と遭遇します。

 

高見(たかみ)城主・赤井忠家(あかいただいえ)は、退却した明智光秀軍を待ち伏せしていました。

明智光秀軍は、なんとかピンチを切り抜け、京都に逃げ込みます。

織田軍を追い返した赤井直正は、毛利氏、武田氏、石山本願寺と連携し、信長包囲網の一部を担うことになりました。

 

第二次黒井城の戦い

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1577(天正5)年、明智光秀は再び、丹波侵攻を開始します。

明智光秀は前回の失敗をいかし、黒井城の周りにある支城から攻め落とす作戦をとります。

籾井(もみい)城と亀山(かめやま)城を落城させた明智光秀は、この2城を丹波攻略の拠点と決めました。

 

織田信長は明智軍の援軍として、細川藤孝(ふじたか)、忠興(ただおき)親子を送ります。

援軍としてきた細川親子は、八上城と氷上(ひかみ)城の包囲を開始します。

この時、黒井城で赤井直正が病死し、弟の赤井幸家(よしいえ)が総指揮をとることになります。

 

しかし、赤井直正の死は丹波国人衆に、大きな影響を与えました。

丹波の国人衆の多くは、赤井直正の死の直後、織田軍の味方につくことを決めます。

織田信長はさらに援軍を増やし、羽柴秀長(はしばひでなが)軍と、明智秀満(あけちひでみつ)軍を丹波に送り込みます。

 

明智光秀は黒井城と八上城の中継地点である大山(おおやま)城を落城させました。

八上城と黒井城の分断のために、大山城の跡地に金山(きんざん)城を築城します。

勢いに乗る織田軍は、氷上(ひかみ)城を落城させ、八上城に迫ります。

 

八上城では長期の籠城戦により、兵糧が尽き、兵士たちは飢餓状態に陥りました。

もはやここまでと思った八上城主の波多野治秀と弟の波多野秀尚は、明智光秀に降伏しました。

その後、波多野治秀・秀尚の二人は安土城に護送されます。

 

そして、織田信長の命令により、浄巌院(じょうごんいん)で磔にされたのち、処刑されました。

兄たちを殺害された波多野秀香は大路(おおじ)城に火を放ち、八上城に兵を集めます。

しかし、明智光秀の猛攻により波多野秀香は討死し、これにより、波多野宗家は全滅しました。

 

八上城を落城させた明智光秀は、孤立した黒井城も落城させ、任務を完了させました。

この戦いにより織田信長は、丹波の地を明智光秀に与え、丹後の地を細川藤孝に与えました。

黒井城跡(くろいじょうあと)

住所:兵庫県丹波市春日町多田

アクセス:JR福知山線「黒井駅」から徒歩約15分


八上城跡(がみじょうあと)

住所:兵庫県丹波篠山市八上上字高城山

アクセス:JR福知山線「篠山口駅」からバス「八上本町」下車 春日神社登山口から本丸まで徒歩約45分

 

おわりに・・・

織田信長は越中国にて上杉軍を破り、北陸地方を支配しつつあります。

丹波侵攻では明智光秀を総大将とし、丹波国の平定に成功しました。

同時に織田信長は、毛利氏の勢力下にある中国地方の攻略を、羽柴秀吉に命じていました。

 

毛利氏との戦い、播磨(はりま)国の別所長治(べっしょながはる)の裏切りが発生します。

播磨での戦いに苦戦する羽柴秀吉・・・。

そんな中、突如として、織田信長の家臣・荒木村重(あらきむらしげ)が謀反を起こします。

 

織田信長は、毛利氏と連携する勢力を制圧するために、軍勢を進軍させるのでした。

 

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