史跡巡り

【勝竜寺城公園・洞ヶ峠茶屋】京都府史跡巡り④【明智光秀・筒井順慶】

どうも、うめたろうです。

京都史跡巡りの旅、第四弾です。

 

前回は、山崎の戦いの史跡を堪能しました。

今回は、明智光秀の最期の城と言われる勝龍寺城跡に向かいます。

 

勝竜寺城公園(しょうりゅうじじょうこうえん) 明智光秀最期の城 京都府長岡京市

 

JR長岡京駅の近くにあるコインパーキングに車を停めました。

駅の広場に、江戸時代の勝龍寺城本丸跡の石碑があります。

この本丸跡は「神足(こうたり)館」とも呼ばれていました。

 

 

JR長岡京駅から15分ほど歩くと、勝竜寺城公園が見えてきました。

広大な水堀が、城跡を囲んでいます。

キレイな風景が目に移ります。

 

 

勝竜寺城公園には、無料駐車場があります。

無料駐車場は、10台ほど車を停めることができます。

 

当初、こちらに車を停めようとしたのですが・・・。

平日の昼に関わらず、全て埋まっていました。

 

 

勝龍寺城跡に着きました。

1571(元亀2年)、細川藤孝は織田信長から勝龍寺城を与えられます。

細川藤孝は、京都防衛の軍事拠点として、大規模な改修を行いました。

 

 

息子の細川忠興と明智光秀の娘・お玉は、勝龍寺城で結婚式を挙げています。

二人は、丹後国に移封されるまで、勝龍寺城で過ごしました。

 

 

入口付近に本丸跡の説明板がありました。

発掘調査によると、勝龍寺城は当時の最新技術を取り入れた城であることが判明しています。

さらに、文献から安土城に先行する数少ない天主が存在していたと言います。

 

 

1992(平成4)年に、勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建築されました。

平成に入ってからなので、比較的新しい建造物ですね。

 

 

公園内にある管理棟の2階では、展示を行っています。

細川藤孝、忠興、細川ガラシャ、明智光秀などの展示を見ることができます。

 

 

こちらは、本丸の井戸跡です。

城内には四カ所で井戸が発見されています。

井戸は、細川藤孝の改修時に作られたようです。

 

 

こちらは、細川忠興と細川ガラシャの銅像です。

細川忠興は、細川ガラシャに対する愛情がとても深かったことでも有名です。

細川ガラシャに対する驚愕なエピソードが残っています。

 

細川藤孝と細川ガラシャのエピソードはこちら

明智光秀の子供たちは、その後どうなったのか?【子供の名前】

続きを見る

 

 

こちらは、勝龍寺城の石造物です。

勝龍寺城からは、石垣に転用された石造物が数多く発見されました。

転用石は、前回訪れた福知山城でも多く見られました。

 

 

こちらは、「光秀出陣テラス」と名前がついた高台です。

山崎の戦いの合戦図がありました。

 

山崎の戦いにおいて、明智軍は羽柴軍の攻撃を受け、総崩れとなります。

明智光秀は、軍勢を勝龍寺城に退却させました。

明智軍は敗戦の影響で士気が低下し、兵の離脱や脱走が相次いで起こりました。

 

 

勝龍寺城には、当時の石垣が残っています。

写真の石垣の下段部分だけが、当時の石垣です。

 

 

こちらは、勝龍寺城の北門跡です。

当時の門は、二重になっており、高さは2メートル以上あったと伝わります。

 

 

この北門から明智光秀は、勝龍寺城を脱出しました。

明智光秀は再起を賭け、ここから大津の坂本城を目指したのでした・・・。

 

 

本丸跡を出ると、すぐ隣に沼田丸跡(ぬまたまるあと)があります。

本丸同様、周囲を土塁で囲み、外側に堀を巡らせていました。

当時は、本丸と沼田丸の間には、橋が架かっていたようです。

 

 

沼田丸は、細川藤孝の妻、麝香(じゃこう)の実家・越前沼田氏にちなんだ名前と言われています。

沼田丸には、沼田氏の屋敷があった場所だったと考えられます。

 

 

勝竜寺城公園の所要時間は、40分~1時間ぐらいあれば大丈夫です。

管理棟の展示をじっくり見るなら、1時間はかかりそうです。

 

神足神社(こうたりじんじゃ) 勝龍寺城の土塁と空堀跡 京都府長岡京市

 

勝竜寺城公園から駅方面に戻ります。

5分程歩くと、勝龍寺城の土塁と空堀跡に到着します。

勝龍寺城の土塁と空堀は、城下町を囲うように作られていました。

 

 

空堀に架かっていた土橋は、幅が1メートルしかなかったようです。

勢の敵が一度に城内に入ることができないようになっていました。

 

 

細川藤孝は、織田信長の築城技術を取り入れたものと考えられています。

キレイに整備されていて、とても見やすいです。

 

 

城外から攻めてくる敵は、深い堀と高い土塁に阻まれます。

細い土橋を渡る集中する敵兵を、側面から射撃で狙うことができます。

 

 

側面攻撃を意識して、折れ曲げた防御線の事を「横矢掛かり」と言います。

足軽兵はたまったもんじゃないですね・・・。

 

 

空堀跡のすぐ隣には、神足神社(こうたりじんじゃ)があります。

神足神社は、桓武天皇の命により建立されました。

 

 

神足神社は、神の足と書きます。

それにあやかって、陸上選手やサッカー選手などのスポーツ選手が多く訪れると言います。

うめたろうも、逃げ足が速くなるようにお参りしました・・・。

 

筒井順慶陣所跡(つついじゅんけいじんしょあと) 洞ヶ峠 京都府八幡市

 

勝竜寺城公園から車で約20分、京都府八幡市と大阪府枚方市の境にある洞ヶ峠に来ました。

ここには、筒井順慶陣所跡の石碑があります。

 

織田政権の時、筒井順慶は明智光秀の寄騎(よりき)として、光秀と共に行動をしていました。

山崎の戦い直前、明智光秀は、筒井順慶に味方につくよう誘いの使者を派遣しました。

 

 

「増補筒井家記」には、筒井順慶が洞ヶ峠まで出陣し、戦況の有利な方に味方をしようと観望していたと書かれています。

そのことから、日和見(有利な方につくこと)をすることを「洞ヶ峠を決め込む」と言います。

石碑は、大学の看板に挟まれ、ポツリと建っていました。

 

洞ヶ峠茶屋(ほらがとうげちゃや) 人気のぼたもち 京都府八幡市

 

筒井順慶陣所跡から、徒歩3分ほどの場所に洞ヶ峠茶屋があります。

茅葺屋根が良い味だしてますね~。

洞ヶ峠茶屋の入口の前に、洞ヶ峠についての説明板がありました。

 

 

洞ヶ峠で日和見をしたと言われる筒井順慶ですが・・・。

通説では、筒井順慶は居城である郡山城に引きこもり、静観の態度を貫いたと言います。

それを知った明智光秀は、筒井順慶の出陣を催促するため、洞ヶ峠に兵を進めました。

 

どちらが勝ってもいいように、静観していたのは確かのようです。

後に筒井順慶は、秀吉に参陣するのが遅いと怒られたようです・・・。

 

 

洞ヶ峠茶屋は、ぼたもちが有名です。

看板にも大きく、ぼたもちの文字がありました。

 

 

ぼたもちだけでなく、普通にお食事もできるようです。

昭和の香りを醸し出している食品サンプルが並んでいました。

メニューを見てみると・・・、順慶、峠、がっちん?

 

 

お店の方に許可を頂き、店内を撮らせていただきました。

店内も外観に合った和風の作りになっていました。

 

 

そして・・・、ぼたもちを買いましたっー!!

ぼたもちは2つからと言うことで、2つ買いました。

お値段は、2つで453円でした。

 

 

そして中身がこちら・・・。

で、で、で、でかいっ・・・!!

自分のげんこつほどある大きさです・・・。

 

ホテルに着いてから、ぼたもちをいただきました。

味は、ちょうどいい甘さで、ぺろりといけちゃいました。

 

おわりに・・・

今回は、勝竜寺城公園と筒井順慶陣所跡、洞ヶ峠茶屋を巡りました。

勝竜寺城公園は、とてもキレイに整備されていましたね。

無料の駐車場に停めるのは、相当なタイミングが必要だと思います。

 

神足神社となりの土塁や空堀は、はっきりと遺構が残っており、お城好きには必見です。

距離的に、山崎合戦古戦場とセットで訪れると良いですね。

 

洞ヶ峠茶屋は、前から一度行ってみたかったお店でした。

ぼたもちは、とても大きくて、本当においしかったです。

また近くに寄ることがあったら、必ず食べたいと思いました。

 

京都史跡巡りの旅の二日目が終了しました。

三日目の最終日は、大坂に向かってから、京都市内を巡ります。

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