史跡巡り

【天王山・山崎の戦い】京都府史跡巡り③【明智光秀・羽柴秀吉】

どうも、うめたろうです。

京都史跡巡りの旅、第三弾です。

二日目は、京都府乙訓郡(おとくにぐん)の大山崎町に向かいます。

 

大山崎と言えば、羽柴秀吉と明智光秀の合戦、「山崎の戦い」の古戦場があります。

今回は、山崎の戦いの史跡を巡ります。

 

宝積寺(ほうしゃくじ) 羽柴秀吉本陣跡 京都府乙訓郡

 

宿泊先の京都プラザホテルから車で約30分、JR山崎駅前のコインパーキングに着きました。

コインパーキングから、羽柴秀吉の本陣跡である宝積寺(ほうしゃくじ)を目指します。

宝積寺には、駐車場がありました。(ないと思ってコインパーキングに停めました。)

 

 

線路を渡ると、「天王山登り口」の石碑がありました。

隣の説明板には、「山崎宗鑑(まやざきそうかん)の冷泉庵跡」の文字があります。

山崎宗鑑は室町時代の俳人で、この地に隠棲をしていたようです。

 

 

宝積寺に向かう上り坂に、天王山のマンホールを発見。

このマンホールかわいらしい・・・。

オシャレ感もあり、センスを感じます。

 

 

歩くこと約10分、宝積寺(ほうしゃくじ)に着きました。

聖武天皇勅願所と書かれた石碑があります。

宝積寺は、奈良時代に聖武天皇の勅願により、行基(ぎょうき)が建立しました。

 

 

また、宝積寺は別名を、「宝寺」と呼ばれています。

聖武天皇が夢で竜神から与えられた「打ち出」と、「小槌」を祀ったことから、その名がつきました。

お金が貯まりそうなお寺ですね・・・。

 

 

宝積寺の境内に入ると、一際、目立つ塔があります。

こちらの三重の塔は、羽柴秀吉が山崎の戦い後、一夜で建立したと伝わります。

国の重要文化財に指定されています。

 

 

説明板にも「豊臣秀吉・一夜ノ塔」と書かれています。

秀吉は、一夜で建てるのが好きですね・・・。

 

 

こちらは、宝積寺の本堂です。

拝観料400円を払うと、本堂と閻魔堂を拝観することができます。

今回は、時間の都合で拝観しませんでした。

 

 

こちらは、秀吉の出世石です。

羽柴秀吉は、山崎の戦いの時、ここ宝積寺に本陣を置きました。

 

 

秀吉がこの石に腰掛けたと伝わります。

この石に座れば、出世間違いないですね・・・。

 

天王山(てんのうざん) 明智光秀VS羽柴秀吉 京都府乙訓郡

 

宝積寺の境内から、天王山の登山口に行くことができます。

天王山・・・、歴史に興味がない人でも、この言葉を聞いたことがあると思います。

 

よくスポーツなどで、優勝が決まる重要な試合の場面で「天王山」と表現されますね。

うめたろうも子供の頃、新聞の一面などで、よく見かけた覚えがあります。

 

 

その「天王山」の表現の元となったのが、この山崎の戦いで戦地となった天王山です。

「太閤記」や「角川太閤記」には、秀吉軍と光秀軍が天王山の争奪戦をしたと記述があります。

天王山を占拠したことによって、勝敗を決定づけたと言われていました。

 

 

こちらの掲示板には、登山者に向けての注意書きが貼ってあります。

クマ出没、猛毒キノコ・・・。

反対側のフェンスにも注意書きがあり、サルの目撃情報、すずめ蜂注意の文字がありました。

 

 

天王山を50回登って、登山証明書を提出すると、オリジナルグラスがもらえるようです。

オリジナルグラスまであと、49回・・・。

 

 

デコボコの石段を登ります。

事前情報だと、登山時間は約1時間かかるとのことでした。

 

 

何かのレールを発見しました。

後で調べたら、タケノコの搬出用モノレールでした。

タケノコを収穫しているようです・・・。

 

 

天王山の山道は、かなり整備されており、とても登りやすかったです。

比較的気軽に山登りができます。

 

 

登り続けると、青木葉谷展望広場に到着しました。

ベンチもあり、ここで休憩をとることができます。

 

 

「秀吉の道」と題した壁画がありました。

「秀吉の中国大返し」と書かれています。

ここから頂上まで、ちょこちょこ秀吉についての壁画が登場します。

 

 

青木葉谷展望広場からは、大坂方面の景色を見ることができます。

晴れた日には、大阪城やあべのハルカスが見えるようです。

 

 

う~ん、どうでしょうか・・・。

あべのハルカスは微かに見えるような気がしますが・・・。

 

 

再び、山王山を登り始めます。

この日は天気が良かったので、登山日和でした。

 

 

他の登山者もちらほら見かけました。

ハイキングには、人気のスポットなのでしょうか。

 

 

大きな鳥居が出てきました。

鳥居には、酒解神社(さけとけじんじゃ)の文字があります。

酒解神社の本殿は、もう少し上にあります。

 

 

鳥居の奥には、再び、壁画がありました。

左の壁画は、「頼みの諸将きたらず」とあり、周辺の武将を味方にできなかった明智光秀の苦悩が描かれています。

右の壁画は、「天下分け目の天王山」とあり、山崎の戦いについて描かれていました。

 

 

鳥居のすぐ近くには、旗立松があります。

説明板によると、山崎の戦いが始まり、羽柴秀吉は天王山を駆け登りました。

 

天王山に登った秀吉は、味方の士気を高めるため、松の木の上に軍旗を掲げました。

それを見た羽柴軍は、士気が高まり、一気に敵陣内に攻め込んだと書かれています。

 

 

旗立松は、明治中頃まで姿を留めていましたが、その後、朽ち果てます。

その後、新しい木を植え、二代目、三代目の松を育ててきました。

現在の松は、五代目のようです。

 

 

山崎の戦いの説明板には、天王山について詳しく書かれています。

明智光秀は、大山崎出身の松田太郎左衛門に天王山を占領するよう命じます。

 

しかし、秀吉軍の堀尾吉晴によって、天王山を奪われました。

天王山を占領した秀吉軍は、この地に馬印を掲げ、秀吉主力軍を鼓舞したと言います。

 

 

かつては、山崎の戦いのことを、「天王山の戦い」と呼ばれていました。

しかし、一次資料には、天王山の争奪戦について書かれた資料はありません。

現在では、天王山の争奪戦はなかったのではないか、と言われています。

 

 

こちらは、山崎の戦いの石碑です。

立派な石碑ですね~。

 

 

こちらは、旗立松展望台です。

ここから、山崎の戦いの戦地を確認することができます。

 

 

秀吉軍と光秀軍は、小泉川(旧円明寺川)を挟んで対峙しました。

川が流れているあたりが、激戦となった場所です。

 

 

秀吉軍と明智軍の布陣の説明板もありました。

見どころがいっぱいあって、歴史好きには最高ですね。

 

 

再び登りはじめると、分かれ道を発見しました。

左に行くと、十七烈士のお墓を通って、頂上に行けるようです。

幕末にも興味がある人は、左に行きましょう。

 

 

「禁門の変と大山崎」と書かれた説明板がありました。

当時、過激な行動をしていた長州藩は、京都から追い出されたため、勢力回復を図ろうとします。

京都御所付近で、長州藩と幕府方は戦闘になり、長州藩の多くの著名な志士が死にました。

 

長州藩と行動を共にした久留米藩士の真木和泉守保臣は、残兵16名と共に天王山に籠りました。

しかし、幕府方の藩や新選組に追われ、山中の山小屋で火薬に火を放って爆死しました。

 

 

その後、時代は急変し、徳川幕府は消滅・・・。

日本は明治維新を経て、生まれ変わりました。

 

新しい国家を作り上げたのは、彼らと同じ志を持った仲間たちでした。

彼らの死は、決して無駄にはならなかったのです・・・。

 

 

十七烈士のお墓から少し登ると、酒解神社の摂末社(せつまつしゃ)の三社宮が見えます。

三つの神が、横に並んでいました。

 

 

三社宮のすぐ側に、壁画がありました。

「明智光秀の最期」と書かれています。

明智光秀が小栗栖で、落ち武者狩りに襲撃される場面です。

 

 

酒解神社(さかとけじんじゃ)に着きました。

正式名称は、自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとげじんじゃ)です。

名前が長い・・・。

 

 

こちらは、酒解神社の本殿です。

なにかシートが掛かっていました。

結構な年季が感じられたので、修復中でしょうか・・・。

 

 

こちらの神輿庫(みこしこ)は、国の重要文化財に指定されています。

鎌倉時代中頃に建築されました。

この倉庫に神輿が入っていると思われます。

 

 

天王山の山頂の標識が見えてきました。

あと少し・・・、ここを登ったら山頂です。

 

 

ついに、山頂にゴールです。

言うほど、体力を消耗していない・・・。

所々、休憩ができたからでしょうか。

 

 

こちらは、天王山の山頂の標識です。

隣には、明智光秀と羽柴秀吉の家紋が入った旗があります。

天下分け目の天王山・・・、かっこいいですね。

 

 

ここは、山崎城の跡地でもあります。

山崎の戦いで勝利した羽柴秀吉は、天王山の山頂に山崎城を築きます。

しかし、大阪城が築城されると、山崎城は破却されました。

 

 

こちらは、山崎城の井戸跡です。

山頂にあることから、雨水を溜めて利用していたと考えられます。

 

 

山頂にある最後の壁画です。

天下人への道はここからはじまった・・・。

 

羽柴秀吉は、謀反者の明智光秀を倒したことで、織田政権内で優位に立ちました。

その後、諸国をまとめ、やがて天下人となります。

他の織田政権の重臣たちは、さぞ、悔しがったでしょうね・・・。

 

恵解山古墳(いげのやまこふん) 明智光秀本陣跡① 京都府長岡京市

 

天王山を降り、再び、コインパーキングに車を停め、周辺を歩きます。

次の目的地である恵解山古墳(いげのやまこふん)に到着しました。

 

こちらの恵解山古墳には、駐車場はありません。

恵解山古墳は、山崎の戦いで、明智光秀が本陣を構えた場所と伝わります。

 

 

恵解山古墳は、古墳時代に築造された前方後円墳です。

乙訓(おとくに)地域の全域を治めた支配者の墓と考えられています。

 

 

横から見た前方後円墳です。

真横からだと、形状がイマイチわかりません。

 

 

古墳の高台に登りました。

恵解山古墳公園は、地元の方の憩いの場になっているようです。

犬の散歩をしている人や、子供たちが元気に遊んでいました。

 

 

山崎の戦いに関する説明板がありました。

発掘調査では、土器片と共に火縄銃の鉛弾が出土したとあります。

 

また、墓地が棚田状の三段になっていることや、大きな掘り込みがあること・・・。

以上を踏まえ、明智光秀がここに本陣を構えた可能性が高いと言われています。

 

 

ここから天王山が見えます。

前方後円墳を本陣に利用するとは・・・。

 

 

こちらは復元された埴輪です。

面白い形をしています・・・。

 

境野1号墳(さかいの1ごうふん) 明智光秀本陣跡② 京都府乙訓郡

 

恵解山古墳から徒歩で約15分、境野1号墳(さかいの1ごうふん)に着きました。

こちらの境野1号古墳も、古墳時代の前方後円墳です。

最初、明智光秀が本陣を置いた場所は、境野1号古墳と言われていました。

 

 

「太閤記」の記述に、御坊塚に明智光秀が本陣を置いたと書かれています。

発掘調査では、空堀り跡があり、火縄銃の鉄砲玉も出土しています。

しかし、最新の学説では、明智光秀は恵解山古墳に本陣を置いた説が濃厚です。

 

 

境野1号古墳の跡地には、現在、サントリーのビール工場が建っています。

また、周辺は閑静な住宅街になっており、とても静かな場所でした。

 

天王山夢ほたる公園 山崎合戦古戦場 京都府乙訓郡

 

境野1号古墳から徒歩で約10分、天王山夢ほたる公園に着きました。

こちらは、駐車場があるのですが、なぜか封鎖されていました。

天王山夢ほたる公園のある場所周辺が、山崎の戦いで両軍が激突した地です。

 

 

サントリーの自動販売機が、山崎合戦仕様になっています。

地域の歴史への想いが伝わります。

 

 

天王山夢ほたる公園内に、「山崎合戦古戦場」の石碑があります。

地面が砂なので、写真を撮っていると砂嵐が舞い、砂だらけになりました・・・。

風が強い日は注意です!!

 

 

こちらにも、山崎の戦いの説明板があります。

天王山夢ほたる公園の横を流れる小泉川(旧円明寺川)を挟んで、両軍は激突しました。

 

 

こちらが、旧円明寺川の小泉川です。

羽柴軍3万6千、明智軍1万5千の軍勢が激突しました。

 

実際にこの場に立つと、感動ものですね。

天下分け目の戦いが、起こった場所にいると思うと、興奮します・・・。

 

 

目の前には、天王山が見えます。

羽柴秀吉の大軍の前に、わずか一時間余りで、明智軍は壊滅します。

明智光秀は、軍勢を整えるため勝龍寺城に退却しました。

 

おわりに・・・

今回は、明智光秀と羽柴秀吉の戦いである「山崎合戦」の史跡を巡りました。

天王山を登った感想は、とても登りやすく、服装も軽装で充分です。

天王山は、どなたでも気軽に登山を楽しめることができます。

 

また、見所もたくさんあって、近くには古戦場や本陣跡もあり、歴史好きにはオススメです。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、残念ながら登場はしませんでした・・・。

しかし、ドラマの続きにあたる明智光秀最後の戦いを、肌で感じてみてはいかがでしょうか。

 

山崎の戦いで羽柴秀吉に敗北した明智光秀は、勝竜寺城に退却します。

次回の京都史跡巡りの旅は、勝竜寺城からスタートです。

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