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大河ドラマ「麒麟がくる」第11話「将軍の涙」感想

どうも、うめたろうです。

「麒麟がくる」第11話が放送されました。

11話のタイトルは「将軍の涙」です。

 

今回は、13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)の無力さを感じた回でした。

 

主要キャスト

明智光秀(あけちみつひで):長谷川博己

明智光安(あけちみつやす):西村まさ彦

帰蝶(きちょう):川口春奈

斎藤道三(利政)(さいとうどうさん):本木雅弘

斎藤義龍(高政)(さいとうよしたつ):伊藤英明

織田信長(おだのぶなが):染谷将太

平手政秀(ひらてまさひで):上杉祥三

今川義元(いまがわよしもと):片岡愛之助

太原雪斎(たいげんせっさい):伊吹五郎

竹千代(たけちよ):岩田琉聖

土岐頼芸(ときよりのり):尾美としのり

足利義輝(あしかがよしてる):向井理

三淵藤英(みつぶちふじひで):谷原章介

細川藤孝(ほそかわふじたか):眞島秀和

 

11話の感想まとめ

織田と今川の間で、竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換が成立します。

尾張の笠寺観音(かさでらかんのん)【笠覆寺(りゅうふくじ)】で、人質交換は行われました。

名古屋市南区にある笠寺観音の境内には、人質交換の記念碑が建っています。

 

織田信秀は末森城にいました。

怪我もなく、帰ってきた織田信広について、「情けない」と、織田信秀は嘆きます。

 

織田信広(おだのぶひろ)

キャスト:佐野泰臣

織田信秀の長男です。

しかし、織田信秀と側室の間の子(庶子)であることから、家督の相続権はありませんでした。

織田信秀の死後、信広は、信長に対して謀反をおこします。

美濃の斎藤義龍と、密かに手を組み、信長を討つ計画を立てます。

しかし、織田信長に事前にバレてしまい、計画は中止になります。

その後、織田信長に許され、幕府や公家の取次役として、織田家を支えます。

最後は、伊勢長島一向一揆で、一揆衆に本陣に攻められ、討ち死にをします。

 

自分の命が短いと感じた織田信秀は、この先の織田家の行く末を心配していました。

家臣・平手政秀に「今川の動きを注意しろ」と頼みます。

駿府(すんぷ)城では、今川義元と竹千代が対面していました。

 

 

竹千代は、いつ岡崎に帰れるか心配しています。

まだ、幼く無力な竹千代は、今川義元の支配下に置かれます。

三河国の岡崎城には、今川義元の家臣が城代として入城しました。

 

これにより、三河国は今川の属領となりました。

竹千代が、駿府城に来たのは8歳でした。

その後、竹千代が岡崎城に戻れるのは、なんと11年後の19歳の時です。

 

今川の本拠地である駿府の城下町は、戦国三大文明都市と呼ばれていました。

文明都市として、駿府は全国的に注目されていました。

公家文化の町であり、「東海の小京都」とも呼ばれます。

 

戦国三大文明都市

周防(すおう)【現・山口県】の大内(おおうち)氏

一乗谷(いちじょうだに)【現・福井県】の朝倉(あさくら)氏

駿府(すんぷ)【現・静岡県】の今川(いまがわ)氏

 

美濃国・稲葉山城では、斎藤道三が、息子を含めた家臣団と合議をしています。

斎藤道三は、尾張からの援軍要請を受けていました。

息子の斎藤義龍を含めた家臣団は、援軍要請に反対します。

 

家臣の稲葉良通は、美濃の為ならまだしも、尾張の為に兵は出したくない。

斎藤道三は、「尾張に米は送るが、兵は出さない」との方針を決めます。

そこで、使者に選ばれたのは、またしても明智光秀でした。

 

明智光秀は那古野城に着くと、織田信長の家臣・平手政秀と話します。

明智光秀は、「美濃から兵は出すことはできないと」伝えます。

それを聞いた平手政秀は、不満を抱えて、その場を出て行きました。

 

その頃、城主である織田信長は、城内で相撲を取っていました。

 

織田信長と相撲の関係

織田信長が相撲が好きなことは、有名な話です。

織田信長の伝記「信長公記(しんちょうこうき)にも、たびたび、相撲の記述が出てきます。

1578年(天正6)年、安土城で1500人の力士を集めて、相撲大会を開催したと記されています。

単に相撲を楽しむのではなく、優秀の者には、家臣として取り立てています。

・青地与右衛門(あおじ よえもん)

・鯰江又一郎(なまずえ またいちろ)

この二人の力士は、常楽寺で開催された相撲大会で勝ち残り、武士として取り立てられました。

 

平手政秀から、事情を聴いた織田信長が、明智光秀の下に現れます。

織田信長は、水野信元(みずののぶもと)が守る刈谷城を明け渡し、和議をしようと考えます。

土岐家の争いの時にも、将軍家に調停してもらったと、帰蝶から聞きます。

 

織田信長は、土岐家と足利家臣の繋がりがある明智光秀に、取り次ぎを頼みます。

明智光秀は、斎藤道三に調停のことを話します。

斎藤道三は、「やりたければ、勝手にやれ」と、明智光秀に言います。

 

また、斎藤道三は、「取次料のお金は一切出さない」とも言います。

明智光秀は、小声でケチと罵っていましたね(笑)

そこで、明智光秀は、土岐頼芸と親しい斎藤義龍に頼みます。

 

 

明智光秀は、土岐頼芸に会わせてくれたら、何でも言うことを聞くと約束します。

明智光秀の話を聞いた斎藤義龍は、土岐頼芸の下に、明智光秀を連れていきます。

土岐頼芸は、土岐家に代わり、美濃の守護になろうとしている斎藤道三を、気に入りません。

 

そんな斎藤道三の失態の穴埋めを、土岐頼芸はしたくはないのです。

土岐頼芸は、「道三を、殺せるか?」と斎藤義龍に聞きます。

斎藤義龍は、黙って頷きます・・・。

 

斎藤義龍は、父である斎藤道三を討ち果たす、覚悟を決心した瞬間です。

それを聞いた、土岐頼芸は、将軍家に文を書くことを承諾します。

明智光秀は、将軍家に払う取次料として、金10枚が必要であると土岐頼芸に頼みます。

 

土岐頼芸は、驚いていましたね(笑)。

現在の貨幣価値に換算すると、金1枚は100万円程といいます。

10枚なら1000万円ですね・・・・高っ!!

 

明智光秀は近江の旅籠に着きます。

この旅籠で以前、共に戦った細川藤孝と再開します。

細川藤孝は、京都と近江を往復していると言います。

 

細川藤孝の目的は、将軍を再び京に戻すためでした。

細川晴元と家臣である三好慶長が、争いを起こしたのです。

三好慶長によって、細川晴元と足利義輝は近江に追いやられます。

 

その際、将軍の足利義輝は、近江の朽木(くちき)に、逃亡していることが判明しました。

細川藤孝は、「今、武士は病んでいる」と言います。

将軍を利用して、その権力をあやかりたいという武士が多いのです。

 

 

滋賀県高島市に、興聖寺(こうしょうじ)があります。

この場所は、足利義輝と父である義晴が落ち延びた寺です。

明智光秀は、将軍義輝に謁見し、土岐頼芸の文を渡します。

 

足利義輝は以前、京都であった明智光秀を覚えていました。

足利義輝は、明智光秀が言った言葉に、励まされたと言います。

「将軍は武士を一つにし、世を平らかにすること」

 

足利義輝は、三好慶長により、京都を追われている状況にあります。

武士を一つにまとめられない自分に力が足りないと嘆きます、

足利義輝は昔、父親から聞いたことを語ります。

 

「穏やかな世を創れる者だけが、麒麟をつれてくることができる」

自分は、麒麟を連れてくることができない・・・。

自分の無力さに情けなく、涙を浮かべる、足利義輝。

 

足利義輝は明智光秀に、織田・今川に和睦をさせることを約束します。

史実では、この頃、将軍足利義輝は、奥州伊達家の仲介をしています。

それ以降も、全国各地で大名の調停をしていました。

 

もはや、将軍足利家には力がありません。

足利家には麒麟がくることはもうないでしょう・・・。

 

・今川に劣勢な織田信秀

・国衆をまとめられない斎藤道三

・京都から追い出される足利義輝

 

この三者には、麒麟を呼ぶことが、できないかもしれません。

次の世代の者たちに麒麟を呼ぶチャンスが与えられるのでしょうか。

 

麒麟がくる道はまだまだ遠い・・・。

 

江口の戦い(えぐちのたたかい)

1549年(天文18)年、摂津(現在の大阪)江口城で、三好長慶軍と三好政長軍が衝突しました。

この戦いを「江口の戦い」といいます

三好長政(みよしながまさ)は三好家の分家出身ながら、細川晴元(ほそかわはるもと)の側近として台頭します。

 

三好長慶(ながよし)の父・三好元長(もとなが)は、長政の策略により起きた一向一揆により、命を落とします。

三好長政は、三好元長に代わり、細川晴元の重鎮として、権威を振るいます。

三好本家の三好慶長(よしなが)も、細川晴元の下で戦功を積み重ね、地位を固めていきます。

 

細川晴元に信頼される三好政長は、三好長慶にとって、邪魔な存在になります。

摂津の国人であった池田信正(いけだのぶまさ)は、細川晴元と三好長政により、切腹させられます。

三好政長の外孫にあたる池田長正(ながまさ)を、後継者に置いたことで、摂津国人たちの反感を買います。

 

その反政長派に推挙され、三好慶長は立ち上がります。

三好慶長は、三好長政の味方をする細川晴元の下を離れることにします。

細川晴元と敵対する同族の細川氏綱(うじつな)の陣営に三好慶長は、加わります。

 

ここで、細川氏綱・三好慶長VS細川晴元・三好政長の対立構造が出来上がります。

激しい合戦の末、江口城に籠る三好政長は討ち死にします。

三好政長の戦死により、細川晴元は、近江の朽木まで逃亡します。

 

また、前将軍足利義晴(あしかがよしはる)と13代将軍足利義輝(よしてる)親子も細川晴元と一緒に逃亡します。

勝利した三好長慶は、細川氏綱を伴い上洛し、京都を掌握します。

これにより、細川政権は事実上の崩壊をし、三好政権が誕生することになりました。

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