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大河ドラマ「麒麟がくる」第17話「長良川の対決」感想

どうも、うめたろうです。

「麒麟がくる」第17話が放送されました。

17話のタイトルは「長良川の対決」です。

 

つに、斎藤道三と斎藤高政との決戦が行われました。

果たして二人の運命はどうなるのでしょうか。

主要キャスト

明智光秀(あけちみつひで):長谷川博己

明智光安(あけちみつやす):西村まさ彦

明智左馬之助(あけちさまのすけ):間宮祥太朗

藤田伝五(ふじたでんご):徳重聡

煕子(ひろこ):木村文乃

牧(まき):石川さゆり

斎藤道三(利政)(さいとうどうさん):本木雅弘

斎藤義龍(高政)(さいとうよしたつ):伊藤英明

稲葉良通(一徹)(いなばよしみち):村田雄浩

織田信長(おだのぶなが):染谷将太

帰蝶(きちょう):川口春奈

駒(こま):門脇麦

菊丸(きくまる):岡村隆史

伊呂波太夫(いろはだゆう):尾野真千子

 

17話の感想まとめ

いに、斎藤道三と息子・斎藤高政(義龍)との、決戦がはじまりました。

尾張の清州城で、織田信長は、叔父である斎藤道三を助けるため、兵を出します。

自ら援軍に行くところが、義理の父である斎藤道三に、敬意を表していました。

 

美濃国・長良川

 

長良川を挟んで、両軍が対峙しています。

斎藤高政(義龍)は、明智一党が、本陣に来ていないことを知り、怒ります。

友人に裏切られたみたいなものですから、斎藤高政のショックは大きいですね。

 

長良川では、昨日までの味方同士が斬り合って、多くの命を落としています。

この戦は、兵力の差がありすぎて、長くは続きませんでした。

戦の行く末を見据えた斎藤道三は、単騎で、斎藤高政に突っ込みます。

 

斎藤道三は、「一騎打ちじゃ」と叫びました。

斎藤高政に対して、「父の名前を言え」と、何回も聞きます。

何回きくねん!というぐらいに聞きます(笑)。

 

すると、斎藤高政は、「わが父は、土岐頼芸(ときよりのり)様」と答えました。

斎藤高政は、あくまでも、土岐源氏の息子として、生きていくことを決めました。

それを聞いた斎藤道三は、高政に対して、ボロクソいいます(笑)。

 

「おぞましき奴、醜い高政、嘘つきな奴」

 

 

最後に「おまえの父は、成り上がり者の斎藤道三だ」と言い聞かせます。

そして、斎藤道三は、槍で刺されて、息絶えました。

これで、斎藤高政は、「父親殺しの汚名」を背負って生きていかなければなりません。

 

それを避けたい斎藤高政は、土岐頼芸の子と、あえて強調したんですね。

明智光秀が、斎藤道三のところに駆けつけますが、時すでに遅し・・・。

斎藤高政は、「もう一度、機会を与える」、と明智光秀に言います。

 

明智光秀は、きっぱりと断ります。

理由は、土岐頼芸を一度も立派と思ったことがく、道三は、立派な主君だったとのこと。

貴族のような生活をしていた土岐頼芸の姿を見ていた明智光秀にとっては、そう思うのは、当たり前ですね。

 

成り上がりの斎藤道三のほうが、よっぽど、武士としてあこがれますね。

織田信長の軍も、援軍として着ていましたが、間に合わず、撤退しました。

帰蝶は、その報告を家臣から聞いて、泣き崩れていました・・・。

 

帰蝶は、父と弟を失いました。

もう、川口春奈の悲しい姿をみせないでくれ(笑)。

帰蝶は、伊呂波太夫を呼んで、頼みたいことがあると言っていましたね。

 

 

明智城に、叔父の明智光安が、明智光秀を待っていました。

印象に残ったのは、明智光秀を主君の座に座らせて、微笑んだ笑顔が、素敵でした。

 

明智城は、斎藤高政軍に攻められます。

明智の血を絶やさないと考えた明智光安は、光秀に「逃げ落ちよ」と言います。

明智光秀は、明智光安の息子・明智左馬之助秀満と共に、落ち延びることを決めます。

 

明智城と共に、滅びる運命を受け入れた明智光安、武士ですね・・・。

明智光秀は、母と妻に落ち延びることを話します。

しかし母・牧は、「亡き夫が大事にした地を、捨てることはできない」と言います。

 

そこに光秀の家臣である藤田伝五が説得するんですが、それがまた、感動するのです。

 

「田や畑は、守ります、戻った時は、何も変わらずこの村はあります」

「今日は、旅にでてくださいませ」

 

めちゃくちゃ笑顔で言うから・・・感動しました。

こうして明智一族は、美濃国を離れることになりました。

 

今までは、お使いばかりしていた明智光秀でした。

しかし、明智光秀には、もう、主君も城もないのです。

武士として、裸一貫で、成り上がらないといけない状態になりました。

 

ここからが正念場ですね・・・、がんばれ光秀!!

 

「美濃国譲り状(みのこくゆずりじょう)」

斎藤道三は、この合戦中に手紙を書いていたと言われています。

その手紙は「美濃国譲り状」と言われ、現存されています。

しかも、三通も現存されており、内容はどれも似たようなものとされています。

・京都の妙覚寺(みょうかくじ)に所蔵

・大阪城天守閣に所蔵

・全文が近江と美濃の合戦を描いた「江濃記(ごうのうき)」に引用されている

 

手紙の内容は簡単にまとめると以下のようになります。

・美濃の国を織田信長に任せる

・同じ内容の書状を信長へ渡した

・その方は、約束通り京都の妙覚寺に入って僧になれ

・妙覚寺には、すでに話は通してある

・子供が出家すれば、一族は、供養されるもの

・わたしは苦しまずに成仏できるのだから、ありがたい

・父は、決戦で死ぬだろう、間違いない

・道三の辞世の句が書かれている

 

ここで、斎藤道三の息子たちを見てみましょう。

斎藤道三の息子

長男 義龍

次男 孫四郎(龍重)義龍により暗殺

三男 喜平次(龍定)義龍により暗殺

四男 日饒(にちじょう) 出家し、京都の妙覚寺に入る

五男 日覚(にっかく) 出家し、常在寺に入る

六男 斎藤 利堯(さいとう としたか)織田信長に仕官

七男 斎藤 利治 (さいとう としはる)織田信長に仕官

長井道利(ながい みちとし) 斎藤道三の弟の説もあり

松波政綱(まつなみ まさつな) 名前以外詳細不明

 

この「美濃国譲り状」の手紙は、四男・日饒(にちじょう)に向けて、書かれた手紙と言われています。

手紙を織田信長の下に渡したのは、末子の斎藤利治とされています。

四男・日饒は、岐阜の常在寺(じょうざいじ)の住職を務めたのち、京都の妙覚寺で住職になっています。

 

織田信長は、京都を宿所とするとき、妙覚寺に18回も泊まったと記録にあります。

義理の弟である日饒上人の縁で、妙覚寺に泊まっていたとされています。

織田信長は、京都の本能寺を宿所としたのは3回だけで、その3回目に明智光秀に襲撃されました。

本能寺の変の時に、妙覚寺には、息子の織田信忠(おだのぶただ)が泊まっていました。

 

道三辞世の句

「美濃国譲り状」の最後には、斎藤道三の辞世の句が書かれています。

 

「捨てだに この世のほかは なきものを 何処か終の住処なる」

 

意味は、「死んでしまえはそこで終わり、安住の地など、どこにもありはしない」といったとこです。

斎藤道三は、美濃一国を手に入れました・・・。

しかし、最期の自分がいる場所は、美濃のどこにもなかったのです。

 

 

長良川の戦い(ながらがわのたたかい)

1556(弘治2)年、美濃国において、斎藤道三と嫡男・斎藤義龍が戦った合戦です。

両者は、岐阜県の長良川を挟み激突します。

この合戦では、斎藤道三に味方する者は少数でした。

それとは対照的に、斎藤義龍には、家臣の西美濃三人衆や、多くの家臣が味方しました。

 

美濃三人衆

稲葉良通(いなばよしみち)

安藤守就(あんどうもりなり)

氏家直元(うじいえなおもと)

代々、美濃国に住み、土岐氏に仕え、斎藤家の家老として君臨していました。

のちに三人とも、織田信長の家臣となります。

 

斎藤道三軍は2700名に対して、斎藤義龍軍は17500名と言われています。

斎藤義龍軍の先鋒は、竹腰道鎮(たけごしどうちん)が務め、斎藤道三の本陣に攻め入ります。

しかし、斎藤道三の指揮で道三の旗本により、竹腰道鎮は討ち取られます。

 

竹腰道鎮が討ち取られた義龍軍は、長屋甚右衛門(ながやじんうえもん)が武者名乗りを上げて、一騎打ちを挑みます。

斎藤道三軍の柴田角内(しばたかくない)が前に出てきて、一騎打ちを受けます。

柴田角内が長屋甚右衛門の首を挙げ、勝負がつきます。

 

その勝負が決した瞬間、両軍とも全軍に突撃を命じて、戦は混沌とします。

斎藤道三軍は、兵力の差から、次第に崩れていきます。

そこに、長井道勝(ながいみちかつ)が突進して、斎藤道三に組み付きます。

 

長井道勝は、斎藤道三を生け捕りにして、斎藤義龍の元へ渡そうとしていました。

長井道勝と斎藤道三の二人は、もみ合いになります。

そこに、小牧道家(こまきみちいえ)が斎藤道三の足を切り払い、そのまま首を切り落とします。

 

功を横取りされた長井道勝は激怒しますが、証拠として斎藤道三の鼻を削ぎ落し、懐に収めました。

斎藤道三の首は、首実検を終えた後、長良川に晒されました。

しかし、その後、斎藤道三の首は、長良川から突如、消えます。

 

小牧道家は、かつての主君である斎藤道三の首が、無残に晒されていることに憐れみを感じていました。

斎藤道三の首を密かに奪った小牧道家は、長良川の地中に葬りました。

現在、その場所は、川の氾濫がおき、別の場所に「道三塚」として、石碑が建っています。

 

大良の戦い(おおらのたたかい)

長良川の戦いとほぼ同時に起きた、織田信長と斎藤義龍軍との戦いです。

 

「信長公記」によると、織田信長は、斎藤道三の援軍として、大良(現在の岐阜県羽島市)の大浦城まで進軍します。

ここは、現在、大浦城(大浦の寺砦)跡とされ、金矮鶏(きんちゃぼ)神社があります。

首実検を済ませた斎藤義龍は、大良の織田信長の陣にも軍を差し向けます。

 

両軍は、大良の河原で激突し、信長軍は、山口取手介と土方彦三郎が討ち取られます。

信長軍の森可成(もりよしなり)は、義龍軍の千石又一と戦い、馬上で膝を斬られたと言います。

斎藤利治(さいとうとしはる)の道三残存軍と合流し、織田信長は、斎藤道三の死を聞きます。

 

斎藤道三の死を聞いた織田信長は、撤退を開始します。

織田信長は、自ら、殿(しんがり)を務め、義龍軍の騎馬を鉄砲で打ち払って、退却したと言います。

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