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大河ドラマ「麒麟がくる」第12話「十兵衛の嫁」感想

どうも、うめたろうです。

「麒麟がくる」第12話が放送されました。

12話のタイトルは「十兵衛の嫁」です。

 

今回は、ついに、明智光秀がお嫁さんをもらいました。

叔父の明智光安が大喜びしていましたね。

斎藤道三が襲われ、織田信秀が亡くなったりで、てんこ盛りな内容でした。

 

主要キャスト

明智光秀(あけちみつひで):長谷川博己

明智光安(あけちみつやす):西村まさ彦

明智左馬之助(秀満)(あけちさまのすけ):間宮祥太朗

牧(まき):石川さゆり

煕子(ひろこ):木村文乃

帰蝶(きちょう):川口春奈

斎藤道三(利政)(さいとうどうさん):本木雅弘

斎藤義龍(高政)(さいとうよしたつ):伊藤英明

織田信秀(おだのぶひで):高橋克典

織田信長(おだのぶなが):染谷将太

織田信勝(おだのぶかつ):木村了

土田御前(どたごぜん/つちだごぜん):檀れい

駒(こま):門脇麦

望月東庵(もちづきとうあん):堺正章

伊呂波太夫(いろはだゆう):尾野真千子

 

12話の感想まとめ

明智光秀は、近江から明智荘に帰っていました。

 

「麒麟がくる道は、まだまだ遠い・・・」

明智光秀は、足利義輝の言葉が、頭から離れません。

向井理のイケメン具合がフラッシュバクします・・。

 

叔父の明智光安は、息子の左馬之助(秀満)に、鷹狩りに行ってこいと勧めます。

場所は、美濃の妻木(つまき)まで・・・。

 

明智左馬之助(秀満)(あけちさまのすけ)【ひでみつ】

キャスト:間宮祥太朗

明智秀満は、明智光秀の叔父である明智光安の息子と言われています。

明智光秀とは、従兄弟にあたります。

「信長公記(しんちょうこうき)」や「角川太閤記(かどかわたいこうき)」では、左馬之助の名称で登場します。

 

また、「明智軍記(あけちぐんき)」では、明智光春(みつはる)の名称で登場します。

明智秀満も光秀同様に、謎が多い人物です。

明智秀満は、光秀が浪人になると、共に行動することになります。

 

後年、明智光秀の娘を妻に貰っています。

京都の福知山市にある福知山城の城主にもなっており、光秀の頼れる家臣でありました。

明智五家老の一人といわれ、明智光秀と共に、本能寺の変を起こすことになります。

 

妻木まで明智光秀は、鷹狩りに来ましたが、供の一行とはぐれてしまいます。

明智光秀は、ここで、煕子と再会します。

煕子は、明智光秀に、寒さを凌ぐために、囲炉裏で温めた石をあげます。

 

温石(おんじゃく)

この時代では、囲炉裏で温めた石を布で包み、衣服の内側に入れて体を温めていました。

これを「温石(おんじゃく)」といいます。

この温石は、現代のカイロの起源だと言われています。

カイロを漢字で書くと「懐(ふところ)炉(加熱する器具)」です。

古くは、平安時代から使用されていたといいます。

また、近年、福井県の一乗谷(いちじょうだに)遺跡で、初めて発見されました。

 

明智光秀は、煕子に、突然、告白します。

「嫁に来ていただけませんか」

幼い頃に、結婚を約束した二人が、大人になり結ばれようとしています。

プロポーズ・・・、はやっ(笑)。

 

 

織田と今川は、将軍家の仲介により、和議が成立しました。

織田信秀は、「自分に万が一のことが起きたら、末盛城は次男の信勝に与える」と言います。

織田信長は、そのことに納得できません。

 

父である織田信秀に一喝されると、その場を立ち去ります。

織田信長は、父も母も、自分より弟の信勝のことが、気に入っていることを嘆きます。

そんな、哀れな織田信長を見た帰蝶は、織田信秀のもとに向かいます。

 

寝ている織田信秀に、信長と信勝のどちらが織田家を継ぐのが相応しいか聞きます。

教えてくれたら、望月東庵をお呼びますと呟きます。

織田信秀は、「信長をよろしく頼む」と一言だけ、帰蝶に伝えます。

 

部屋に戻った帰蝶は、信長に対して、「尾張は信長に任せる」と言っていたと伝えます。

それを聞いた織田信長は、安心して笑顔がこぼれます。

帰蝶は夫である信長という人物が、次第にわかってきています。

 

織田信長を鼓舞するために、帰蝶は、自らの言葉を信秀が言ったように伝えたのでした。

さすが、マムシの娘・・・。

こんな嫁がほしい・・・(笑)。

 

京都は、三好慶長(みよしよしなが)の軍勢が入り、戦場になっていました。

京都にある望月東庵の診療所は、負傷者で埋まっています。

駒は負傷者の手当に忙しい様子です。

 

そこに、旅芸人の伊呂波太夫が訪れます。

伊呂波太夫の話によると、望月東庵は、公家の九条家で、闘鶏の賭博をしているようです。

 

闘鶏(とうけい)とは?

闘鶏とは、二匹のニワトリ(雄)を戦わせる競技です。

古代から世界各地で行われており、日本で始まったのは、奈良時代からと言われています。

闘鶏は、公家や貴族の間で流行し、庶民の間にも、娯楽として広まりました。

賭博の対象とされることが多くなり、江戸時代には、幕府が禁止令を出すほどでした。

 

そこに、賭博で負けた望月東庵が帰ってきました。

望月東庵は、戦場で負傷した患者からは、薬代を貰わない主義です。

よって、賭博に負けた望月東庵は、お金に困るのです(笑)。

 

そんな中、尾張の帰蝶から望月東庵に手紙が届きます。

尾張の織田信秀に会いに来てほしいと。

望月東庵は、駒を連れて、尾張に向かいます。

 

美濃の稲葉山城に、斎藤道三がいます。

斎藤道三のもとに、土岐頼芸(ときよりのり)から、鷹が送られてきました。

斎藤道三が鷹を見て喜んでいる時に、鷹匠が斎藤道三をめがけて鷹を放ちます。

 

鷹が道三を襲う直前、若い家臣が斎藤道三を庇いました。

すると、若い家臣は、急変し、その場で倒れてしまいます。

鷹の爪に、毒が仕込んでありました。

斎藤道三、ブチギレ・・・。

 

土岐頼芸と鷹

土岐頼芸は、文化人としても有名で、幾つもの書画を書き残しています。

その中でも、特に鷹の絵画を多く残しています。

土岐頼芸の書いた鷹の絵は「土岐の鷹」として、有名な絵画として残っています。

土岐頼芸のひ孫にあたる土岐頼高も、鷹の絵画を得意とし、

江戸時代には、徳川義直(尾張藩の初代藩主)の御伽衆になっています。

 

 

明智光秀と煕子は、明智城に来ています。

叔父の明智光安と母である牧に、婚儀の挨拶をしていました。

明智光安は、まるで自分の子供のように育てた光秀が、結婚をしてくれて大喜びです。

 

妻木煕子(つまきてるこ)

煕子は、「細川家記」では、妻木範熙(つまきのりひろ)の娘とされています。

また、父は妻木広忠(つまきひろただ)の説もあります。

妻木氏の出自は不明な点が多いですが、美濃国妻木郷に、妻木城を構えた武士でした。

 

妻木郷は現在では、岐阜県土岐市にあたります。

妻木氏は、明智氏の一族で、妻木弘定(ひろさだ)から、妻木姓を名乗ったと伝わります。

1545(天文14)年頃に、妻木煕子は、明智光秀に嫁ぎました。

 

江戸時代に書かれた、井原西鶴の「武家義理物語(ぶけぎりものがたり)」という書物があります。

ここに、煕子と明智光秀のエピソードが収録されています。

煕子は疱瘡にかかり、顔に痕が残ってしまいました。

煕子の父親は、光秀に申し訳ないと思い、代わりに妹を嫁がせようとします。

しかし、光秀は、そのようなことは関係なく、約束通り煕子を選びました。

 

また、江戸時代に書かれた武内確斎の「絵本太閤記(えほんたいこうき)」にもエピソードがあります。

明智光秀が、越前の朝倉義景に仕えていた時の話です。

連歌の会の酒宴を用意するお金がなく、煕子は黒髪を売って費用を工面したといいます。

 

煕子が世間に有名になったのは、文芸が盛んになった江戸時代の頃と言われています。

 

 

美濃の稲葉山城では、斎藤道三の前に、家臣が集結しています。

斎藤道三が、土岐頼芸の鷹の一件を家臣たちに話します。

斎藤道三は「美濃の為に、働いてきた自分が、なぜ殺されなければならいのか」と問います。

しかし、家臣は沈黙したままでした。

 

(美濃の為に働いてきたと言ったが、美濃の為ではなく、自分の為ではないのか)

(自分がのし上がる為に、土岐家の人々を追放し、ないがしろにしてきた)

(そうなることは当たり前ではないのか)

家臣の声を代弁したら、こんな感じですね・・・。

 

斎藤道三は、土岐頼芸を「絶対に許さん」と誓います。

帰り際に斎藤義龍が、明智光秀を止めます。

斎藤義龍は、土岐頼芸を守るとし、一緒に戦おうと光秀を誘います。

 

明智光秀は、斎藤義龍に土岐頼芸に会わせてくれた恩義があります。

あの時、「何でも言うことを聞く」と言った明智光秀・・・。

果たしてどうするのでしょうか。

 

 

尾張の那古野城では、帰蝶が駒と再会していました。

駒は、明智光秀が結婚したことを知り、ショックを受けます。

末盛城では、望月東庵が織田信秀の前に座り、挨拶をしています。

 

しかし、織田信秀に反応がありません。

望月東庵が近づくと、織田信秀はすでにこの世を去っていました。

織田信秀は、座りながら生涯を閉じました。

 

織田家は、尾張守護職の斯波氏のいち家臣に過ぎませんでした。

織田信秀の功績により、今では、尾張を代表する大名になりました。

織田信秀の意志は、このあと織田信長に受け継がれていくことでしょう。

 

「信長公記(しんちょうこうき)」の葬儀エピソード

織田信秀の死因は、悪性の流行病でした。

織田信秀は、織田家の菩提寺を万松寺(ばんしょうじ)にしました。

この万松寺で織田信秀の葬儀が行われたのです。

 

尾張国中の僧侶を集めて、僧侶だけでもその数300人ほどが参加しています。

葬儀が始まりますが、織田信長の姿が見当たりません。

信長の弟である織田信勝は、家臣の柴田勝家や佐久間盛重を引き連れて、参加しています。

 

喪主である織田信長は時間になっても全く来ません。

しばらくすると、やっと織田信長が現れました。

 

織田信長は、茶筅髷で髪は乱れたままであり、刀はしめ縄で巻き、袴も履はいていません。

すると、織田信長は、焼香を掴んで、仏前に向かって焼香を投げつけました。

 

周囲は織田信長のとった行動に唖然とします。

ちなみに、弟の信勝は、ちゃんと正装をし、正しい作法で焼香しました。

この噂が広まり、織田信長の「おおうつけ」の評判が広がりました。

 

織田信長が焼香を投げた理由については明確になっていません。

 

一説には、父親の織田信秀に対して、「相続問題をちゃんと解決してから逝け」という気持ちがあったとか。

 

「国内外に敵がいるのに、父の死を盛大な葬儀で宣伝している場合か」と怒りの気持ちがあったとか。

 

どちらの理由にせよ、織田家の行く末を思う強い心が、織田信長にはこの時からあったのではないでしょうか。

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