史跡巡り

【大溝城跡・興聖寺】滋賀県の史跡巡り②【津田信澄・足利ゆかりの地】

どうも、うめたろうです。

今回は、滋賀県史跡巡り第二弾ということで、初日の後半戦です。

鯖ずしに大満足したうめたろう・・・。

 

早速、次の目的地に向かいます。

朽木旭屋から車で約2分ほど行くと、興聖寺(こうしょうじ)があります。

 

興聖寺(こうしょうじ) 足利庭園 滋賀県高島市

 

興聖寺は、近江守護の佐々木信綱(ささきのぶつな)により、創建されました。

室町時代、13代将軍・足利義晴(よしはる)は、三好の乱を避け、約3年間この地に滞在しました。

 

佐々木一族や京極・浅井・朝倉は協力し、将軍を慰めることを考えます。

管領・細川高国に依頼をし、将軍のために庭を造りました。

この庭園が、足利庭園(旧秀隣寺庭園)と呼ばれています。

 

 

14代将軍・足利義輝は、家臣の細川藤孝(幽斎)を従え、約6年半この地に滞在したと言います。

興聖寺は、大河ドラマ「麒麟がくる」にも、登場していましたね。

ドラマでは、明智光秀が興聖寺を訪れ、足利義輝に拝謁をしていました。

 

 

興聖寺の拝観料は、300円でした。

境内に入ると、住職さんが丁寧に、本堂まで案内をしてくれました。

案内後、興聖寺の歴史について、話をしてくれました。

 

たった一人のうめたろう相手に、お話をして頂き、ありがとうございました。

撮影許可を頂き、本堂を見学させてもらいました。

 

 

こちらは、国の重要文化財にもなっている「釈迦如来座像」。

平安時代に造られたと言います。

 

 

こちらは、足利庭園です。

残念ながら、発掘調査のため、近くで見ることはできませんでした。

 

 

令和3年1月31年まで、工事予定とのことです。

将軍・足利義輝がいつも見ていた庭園と思うと、感慨深いですね・・・。

 

 

境内には、とても素敵な紅葉がありました。

この一本の木だけ、真っ赤に彩っていました。

 

大善寺(だいぜんじ) 津田【織田】信澄の慰霊碑 滋賀県高島市

 

続いての目的地は、織田信長の甥・津田(織田)信澄のお墓【慰霊碑】がある大善寺(だいぜんじ)です。

大善寺に着いたのですが、境内のどこを探しても、津田信澄のお墓がない・・・。

急いでGoogle先生に聞いて、場所を確認したら、大善寺が2つあるじゃないですか!

 

 

こちらの大善寺は、新庄城跡にある大善寺でした・・・。

どうやら、新庄にある大善寺の別院が、津田信澄の慰霊碑がある大善寺ということが判明しました。

 

 

こちらが、本来の目的の大善寺です。

この大善寺は、大溝城下の湖岸にあったが、水害により現在の地に移ったようです。

 

 

津田信澄の慰霊碑です。

津田信澄は、信長の弟・織田信行(信勝)の嫡男として生まれました。

津田信澄は信長の側近として活躍し、信長の信頼も厚かったと言います。

 

 

 

明智光秀が本能寺の変を起こすと、光秀の娘婿であった津田信澄は、ある嫌疑をかけられます。

「津田信澄は、明智光秀と共謀して信長を討った・・・」

信長の三男・織田信孝と丹羽長秀は、大阪城にいた津田信澄を襲撃します。

 

 

津田信澄は奮闘しましたが、その場で討ち死にをしました。

謀反人の汚名を着せられたまま、この世を去りました。

明智光秀の行動によって、人生が一変してしまった人物です・・・。

 

「明智光秀、織田信孝、丹羽長秀はこの世を去り、戦国時代は終わりました・・・」

うめたろうは、津田信澄にそのことを伝て、その場を後にしました。

 

 

 

これから訪れる方が、間違わないように、住所を載せておきます。

大善寺 【津田(織田)信澄の慰霊碑】

滋賀県高島市勝野2152

 

大溝城跡(おおみぞじょうあと) 津田信澄の居城 滋賀県高島市

 

次の目的地は、大溝城跡(おおみぞじょうあと)です。

まず、近江高島駅に隣接するコインパーキングに車を停めて、そこから歩きます。

駅前の広場に、大溝城の説明パネルがありました。

 

 

少し歩くと、大溝城の三の丸跡を発見。

隣には、大きな病院が建っていました。

 

 

近江高島駅から、歩いて5分ほどで、大溝城跡に到着しました。

立派な石垣が、残っています。

 

 

大溝城は、織田信長が安土城を築いた頃、対岸の高島の地に築かれます。

琵琶湖の水城であり、明智光秀が設計したと伝わります。

 

 

津田信澄は大溝城主となり、高島郡の発展に尽力したと言います。

その後、大溝城は解体され、甲賀の水口岡山城に移築されました。

 

 

また、浅井三姉妹のお初(常高院)のゆかりの地でもあります。

京極高次が大溝城主の時に嫁ぎ、新婚生活を送ったと言います。

 

今堅田城跡(いまかただじょうあと) 泉福寺~出島の灯台 滋賀県大津市

 

ずっと巡っていた高島市を出て、大津市に入ります。

大津市にある泉福寺(せんぷくじ)に、到着しました。

 

 

足利義昭と織田信長の戦いである槇島(まきしま)城の戦い

その中の戦いである、今堅田城の戦いの舞台になったのが今堅田城でした。

 

今堅田城跡は、泉福寺から出島(できしま)灯台の辺り一帯と言われています。

明智光秀は足利方が守る今堅田城を、琵琶湖から船で攻撃を仕掛け、落城させています。

 

 

熊川の得法寺に続き、こちらにも蓮如がいました。

蓮如を援助した泉福寺は、比叡山によって、堅田一帯を襲撃された歴史があるとのことでした。

 

 

泉福寺から徒歩で2分ほどのところに、出島(できしま)の灯台があります。

説明版によると、この灯台は明治8年に建てられました。

 

 

大正7年までは、ランプを使用しており、他に類をみない木造の灯台とのことです。

こんな灯台、確かに見たことない・・・。

灯台の隣にベンチが置いてあり、ここで琵琶湖を見ながら、ぼーっとするのも素敵ですね。

 

槇島城の戦い(今堅田城の戦い)はこちら

【天下布武の道】織田信長ゆかりの地【戦い④】

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矢島御所跡(やじまごしょあと) 足利義昭居館跡 滋賀県守山市

 

 

次の目的地は、足利義昭が滞在した矢島御所跡(やじまごしょあと)です。

一乗院門跡・覚慶(かくけい)は、甲賀の和田惟正(わだこれまさ)の館から矢島に移りました。

近江国の六角義賢(ろっかくよしかた)によって、矢島御所は建てられました。

 

 

この時、覚慶は還俗して、名を足利義秋と改めました。

その後、六角義賢は三好三人衆と通ずるようになります。

危険を感じた足利義昭は、越前の朝倉を頼りに矢島御所を去りました。

 

 

足利義昭が矢島御所に滞在した期間は、1年4か月でした。

現在、矢島御所があった場所には、矢島自治会館が建っています。

 

この辺りは道が細く、車一台が通るのがやっとの道でした。

自治会館の前にスペースがあったので、そちらに車を停めました。

 

 

矢島御所跡から、徒歩3分のところに、少林寺があります。

足利義昭は、奈良から逃れた時、この少林寺に入室したと言います。

 

 

「一休さん」のモデルで有名な、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)

一休宗純の弟子によって、少林寺は開山されました。

一休宗純も一時、少林寺に逗留したと伝わります。

 

 

 

めずらしい形の梵鐘の建物です。

あまり見たことのない、形をしています。

 

 

一休さん!!

「あわてない、あわてない、ひとやすみ、ひとやすみ」と聞こえてきそうです。

 

 

こちらは、一休和尚の手植えの銀モクセイです。

台風の被害で、現在修復中とのこと。

 

ルートイン草津栗東 宿泊先 滋賀県栗東市

 

今回の宿は、ルートイン草津栗東です。

また、ルートインかい!って言われそうですが・・・。

 

 

だって、朝食がおいしいですから・・・。

しかも、なぜかちょっと広い部屋!

 

おわりに・・・

滋賀県史跡巡りの初日が終わりました。

滋賀県には、何回も来ているうめたろう。

湖西エリアを巡ったのは、今回が初めてでした。

 

初日を終えて、やっぱり、さすが滋賀県って思いました。

戦国時代の歴史がたくさん詰まっている素敵な町です。

 

二日目は、大津エリアを巡ります。

「光秀大博覧会」を開催しており、盛り上がっている大津市に突入します。

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