史跡巡り

【西教寺・日吉大社】滋賀県の史跡巡り③【明智光秀・天海ゆかりの地】

どうも、うめたろうです。

滋賀県史跡巡り、二日目のスタートです。

 

今回は、明智光秀のゆかりの地、大津市を巡りました。

ホテルで朝食をもりもり食べた後、出発しました。

しかし、大津は交通量が多い・・・。

 

聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ) 森可成の墓 滋賀県大津市

 

二日目、最初の目的地は、聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)です。

聖衆来迎寺は、国宝である「六道絵」など、数々の寺宝を所蔵しています。

本堂内を見学するには、予約が必要になりますが、境内には自由に入れます。

 

 

重要文化財である表門は、明智光秀の坂本城の門を移築したものです。

また、明智光秀は78石ほどの仏共料を、聖衆来迎寺に寄進しました。

このことから、聖衆来迎寺は、明智光秀ゆかりの寺であります。

 

 

こちらは、重要文化財の開山堂です。

この開山堂には、天海が祀られています。

明智光秀ゆかりの地に、天海の登場です・・・。

 

 

ここでの目的は、坂本城の門と森可成のお墓でした。

境内に、織田信長の家臣・森可成(もりよしなり)のお墓があります。

森可成は、織田信長の信頼が厚く、数々の戦場で活躍をします。

 

 

1570(元亀元年)、浅井長政・朝倉義景の連合軍は、近江から京都に向けて進軍します。

信長軍本体は、摂津国で三好勢と交戦中でした。

宇佐山城の城主であった森可成は、浅井・朝倉連合軍を食い止めるため、出陣を決意。

 

しかし、本願寺の要請で比叡山が立ち上がったため、織田軍は総崩れとなります。

浅井・朝倉軍により、森可成は討ち死にをしました。

聖衆来迎寺の住職・真雄(しんゆう)上人は、夜中に紛れて、森可成の遺骸を運びます。

 

 

そして、聖衆来迎寺で、森可成を弔いました。

織田信長は比叡山焼き討ちにおいて、聖衆来迎寺は焼き討ちの対象外としました。

焼き討ちを逃れた理由は、森可成の墓所があった為だと言われています。

 

 

織田信忠の長子・織田秀信の母、徳寿院のお墓もありました。

徳寿院は、森可成の娘であるとの説もあります。

 

森可成の宇佐山城の戦いはこちら

【信長包囲網】織田信長ゆかりの地【戦い③】

続きを見る

 

滋賀院門跡(しがいんもんぜき)・慈眼堂(じげんどう) 天海ゆかりの地 滋賀県大津市

 

徳川家康の側近であり、黒衣の宰相(こくいのさいしょう)と言われた人物がいました。

その名は・・・、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)

「天海は明智光秀と同一人物である」という伝説が、未だに根強く残っています。

 

 

 

天海は、後陽成(ごようぜい)天皇から京都の法勝寺の建物をもらいます。

その後、天海により、建物をこの地に移築しました。

比叡山の里坊であり、天台座主であった法親王が、代々住んでいました。

 

 

現在、滋賀門院跡は、光秀大博覧会のメイン会場の一つとなっています。

うめたろうは、受付で「禅明坊光秀館・西教寺・滋賀院門跡の3施設セット券」を購入しました。

共通券は1200円で、各施設で一枚づつ買うより、300円のお得になります。

 

 

本堂の中では、比叡山坂本の展示が行われています。

坂本城跡には、この後、訪れる予定です。

 

 

こちらは、小堀遠州(こぼりえんしゅう)作の庭園です。

小堀遠州は、豊臣・徳川に仕え、家康から遠州1万石をもらい、作事奉行をつとめました。

 

 

小堀遠州は、作庭の第一人者と言われています。

うめたろうには、残念ながら庭の良さが、わかりません・・・。

その他にも、撮影は禁止でしたが、天海の鎧や貴重な襖絵などを見ることができました。

 

 

滋賀門院跡の隣には、慈眼堂(じげんどう)があります。

慈眼堂は、天海の廟所であります。

天海は比叡山南光坊に住み、比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力しました。

 

 

堂内には、天海の木造座像があるようです。

今回、明智光秀ゆかりの地を巡ると言うことで、天海の廟所にはぜひ来たかったのです。

明智光秀の領地であった坂本の地に、天海のお墓がある・・・。

 

日吉大社(ひよしたいしゃ) 比叡山焼き討ち 滋賀県大津市

 

滋賀門院跡から5分ほど歩くと、日吉大社(ひよしたいしゃ)に着きます。

日吉大社は、全国3800以上ある日吉神社の総本宮です。

その歴史は古く、2100年前に創祀されました。

 

 

しかし、織田信長の比叡山焼き討ちにより、建造物など全てが灰となりました。

その後、江戸時代には再興され、現在の姿となります。

 

 

日吉大社の拝観料は、大人一人300円です。

境内を進むと、お猿さんを発見。

日吉大社は、当時の平安京(京都御所)からみたら、鬼門(北東)にあたります。

 

 

そのため、都の魔除けを祈る社(やしろ)と位置づけされました。

「魔が去る・何よりも勝る」とし、猿を神の使いの「神猿(まさる)」とします。

檻には、猿が2、3匹いました。

 

 

こちらは、西本宮です。

大津への遷都が行われた時、奈良の三輪山より御神霊を迎えました。

 

 

西本宮の祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ)です。

こちらの本殿は国宝に指定されています。

 

 

こちらは、東本宮です。

東本宮の祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)です。

 

 

日本最古の書物・古事記に、その名が記されている比叡山の山の神です。

こちらの本殿も、国宝に指定されています。

 

日吉大社・奥宮

 

西本宮と東本宮を堪能したうめたろうは、ついに奥宮を目指します。

今回、日吉大社を訪れた目的は、八王子山にある奥宮に行くことでした。

 

パンフレットによると境内の登山口から、奥宮まで片道約30分・・・。

気合を入れたうめたろうは、八王子山を登ります。

 

 

石段の一つ一つの高低差がでかい・・・。

そして、結構な急な坂が続きます。

 

 

距離的には短いですが、正直、かなりしんどかったです・・・。

汗だくになりながら、なんとか奥宮に着くことができました。

 

 

比叡山焼き討ちの奥宮に関しては、「信長公記」にも記述があります。

老若男女が、日吉大社の奥宮に逃げ込み、織田軍により殺されます。

そこには、数千の死体が転がり落ちていた、との記述があります。

 

 

こちらは、牛尾宮(うしおみや)です。

 

 

こちらは、三宮(さんのみや)です。

 

 

こんな崖につくられてるのが、すごい・・・。

倒れてこないのだろうか・・・。

 

 

そしてこちらが、金大巌(こがねのおおいわ)です。

この巌に、大山咋神(おおやまくいのかみ)が降り立った、と言われています。

パワースポットとしても、有名みたいですね。

 

 

そして、ここから琵琶湖を一望できます。

へとへとになったうめたろうは、しばらく琵琶湖を眺めていました。

そして、この地で亡くなった人々に合掌・・・。

 

奥宮を堪能し、山を下ります。

これは、坂が急なため、上りより、下りの方が危険ですね。

何回もコケそうになりました・・・。

 

日吉大社を出たうめたろうは、昼食を食べようと、有名なお蕎麦屋さんに向かいます・・・。

しかし、お店の前に着くと行列が・・・。

スケジュール的にきびしかったので、昼食を諦め、つぎの目的地に行きました。

 

比叡山焼き討ちについてはこちら

【天下布武の道】織田信長ゆかりの地【戦い④】

続きを見る

 

西教寺(さいきょうじ) 明智光秀の菩提寺 滋賀県大津市

 

昼食を抜いて、西教寺(さいきょうじ)に着きました。

西教寺は、比叡山焼き討ちによって、焼失しました。

 

坂本城主となった明智光秀は、西教寺の再興に尽力しました。

西教寺には明智光秀が、今堅田の戦いで討死した部下の、供養を依頼した書状も残っています。

 

 

この総門は、坂本城の門を移築したものと伝わります。

門をくぐると、すぐに受付がありました。

共通券を買ったうめたろうは、先に進みます。

 

禅明坊光秀館(ぜんみょうぼうみつひでかん)

 

現在、西教寺の里坊・禅明坊(ぜんみょうぼう)では、「麒麟がくる展」を開催しています。

大河ドラマ「麒麟がくる」の展示を、見ることができます。

 

 

出演者のパネルと一緒に、記念撮影もできます。

明智夫婦と写真をいかがでしょうか。

 

 

こちらは、明智光秀の衣装です。

実際に撮影で、使用した衣装です。

 

 

こちらは、煕子(ひろこ)の衣装です。

こちらも、実際に撮影で、使用した衣装です。

 

 

小道具の展示もありました。

光秀館では、煕子がメインの展示でした。

 

 

戦国時代の近江国の説明が、パネルで紹介されています。

明智光秀の足跡も、説明されています。

 

 

足元にも琵琶湖が・・・!

楽しい演出ですね。

 

 

こちらは、坂本城を復元したジオラマです。

琵琶湖の上に建ってます。

 

 

隣には、お土産屋もありました。

 

 

こちらは宗祖大師殿の唐門です。

華やかで、立派な門です。

 

 

大師殿から門を見ると、ちょうど門の中に琵琶湖が映ります。

ここからの景色が、「光秀大博覧会」のパンフレットの表紙に使用されています。

 

西教寺の境内

 

明智光秀を発見・・・。

通学路などに設置されている「飛び出し坊や」の光秀バージョンです。

この飛び出し坊や、どうやら発祥が滋賀県(東近江市)らしいです。

 

 

こちらは、明智光秀の辞世の句です。

江戸時代に書かれた「明智軍記」に記述されています。

 

 

こちらは、明智光秀一族の墓です。

山崎の戦いに敗れた明智一族は、西教寺に葬られたと伝わります。

 

 

こちらは、明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓です。

煕子が亡くなったのは、天正4年と天正10年と、二つの説があります。

 

近年、聖衆来迎寺蔵の「仏涅槃図」の裏面に、天正9年の寄進銘が記載されています。

その寄進銘に、煕子の戒名が発見されました。

これは、煕子が天正9年以前に亡くなったことを示すものとして、注目されました。

 

 

こちらは、西教寺の本堂です。

江戸時代中期の、代表的な本堂とのことです。

 

 

こちらは、西教寺の大本坊です。

明智光秀が坂本城の陣屋を寄進して、この大本坊を再建しました。

改装の際に、「天正年中明智公所蔵之古木」と彫った古材が、屋根裏から発見されました。

 

 

こちらは、明智夫婦の位牌安置所です。

襖の桔梗紋が、オシャレです。

 

 

こちらは、小堀遠州作の客殿庭園です。

本日二回目の小堀遠州です・・・。

 

いや~、西教寺は見所満載でした。

おかげで、1時間半も見学をしていました。

「麒麟がくる」効果もあり、今回の史跡で、人が一番多かったです。

 

比叡山飯室谷(いむろだに)不動堂 長寿院(ちょうじゅいん) 明智光秀伝説  滋賀県大津市

 

比叡山の飯室谷(いむろだに)不動堂は、延暦寺五大堂の一つであり、飯室谷の山腹にあります。

西教寺から車で6分ほどで、飯室谷不動堂に到着します。

 

しかし、山道がどんどん狭くなり、車一台がやっと通ることのできる道を進みました。

「対向車よ、来ないでくれ」と、思いながら運転をしていました・・・。

 

 

こちらは、飯室不動堂の案内図です。

今回、飯室谷不動堂に来た目的・・・。

それは、飯室谷不動堂の長寿院(ちょうじゅいん)を見ることでした。

 

 

長寿院には、明智光秀が寄進した石灯籠があると言われています。

しかし、この石灯籠は非公開で、一般には公開していません。

明智光秀は、山崎の戦いで死んでおらず、生き延びて比叡山に入った・・・。

 

そして、この長寿院で仏門に入り、仏教を学んだという説があります。

石灯籠は見れなくとも、歴史ファンとして、光秀生存説の舞台を見たかったのです。

 

地図には長寿院の表記はないですが、現在、長寿院は庫裏(くり)として使用されているとのこと。

庫裏(くり)とは、寺の台所や居住する場所です。

 

 

石段をのぼると、千手堂がありました。

 

 

さらに石段をのぼると、不動堂があります。

 

 

地図と照らし合わすと、これが庫裏で、長寿院と呼ばれた建物です。

大きな魚の彫刻があります・・・、なんでだろう・・・。

 

 

長寿院の横を進むと、奥に池がありました。

落ち延びた明智光秀も、この池を見ていたのだろうか・・・。

 

 

それにしても、この場所・・・。

周辺の声や音が全く聞こえなく、静寂が辺りを包み込んでいます。

 

こんなに、静かなところがあるなんて・・・。

先ほどの西教寺と比べると、別世界にきたようです。

 

あまりの静寂に、いたたまれなくなり、早々と引き上げることにしました。

こんなに静かな場所なら、光秀もひっそりと静かに暮らせたのでしょう・・・。

この静寂を体感できただけでも、来た甲斐がありました。

 

明智光秀は生きていた?

明智光秀は天海だったのか?

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おわりに・・・

今回は、明智光秀に関する史跡がてんこ盛りでした・・・。

明智城の門を使用した、聖衆来迎寺。

明智光秀が指揮をした比叡山焼き討ちの最大の被害地、日吉大社。

 

明智光秀の菩提寺、西教寺。

天海の廟所、慈眼寺。

明智光秀生存説の舞台、長寿院。

 

観光地化している日吉神社と西教寺に対して、その真逆の長寿院・・・。

全く違う色の史跡を味わえて、大満足でした。

次回はついに、明智光秀の城・坂本城跡を巡ります。

 

第四弾につづく・・・。

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