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大河ドラマ「麒麟がくる」第13話「帰蝶のはかりごと」感想

どうも、うめたろうです。

「麒麟がくる」第13話が放送されました。

13話のタイトルは「帰蝶のはかりごと」です。

 

今回は、帰蝶が出来すぎた嫁になっています。

この嫁がいれば、天下を獲るのも容易そうですね。

ついに藤吉郎、のちの豊臣秀吉が初登場しました。

 

主要キャスト

明智光秀(あけちみつひで):長谷川博己

明智光安(あけちみつやす):西村まさ彦

牧(まき):石川さゆり

煕子(ひろこ):木村文乃

斎藤道三(利政)(さいとうどうさん):本木雅弘

斎藤義龍(高政)(さいとうよしたつ):伊藤英明

土岐頼芸(ときよりのり):尾美としのり

深芳野(みよしの):南果歩

織田信長(おだのぶなが):染谷将太

帰蝶(きちょう):川口春奈

藤吉郎(とうきちろう):佐々木蔵之介

駒(こま):門脇麦

望月東庵(もちづきとうあん):堺正章

伊呂波太夫(いろはだゆう):尾野真千子

 

13話感想まとめ

明智光秀は、迷っていました。

斎藤道三と土岐頼芸の間で戦いが起きたら、どちらの味方をするのか・・・。

明智光秀は、直接話をするために、斎藤道三に会いに行きます。

 

斎藤道三に、自分の思いを打ち明けます。

美濃の国内で、戦が起きれば味方同士が戦うことになる。

そんなことに意味はないと、明智光秀は考えます。

 

いきなり斎藤道三に「わしは、きらいか?」と聞かれた明智光秀。

「どちらかと言えば、嫌いです」と言っちゃう明智光秀・・・。

まじめで、正直ものすぎでしょ(笑)。

 

しかし、斎藤道三は、戦をする気はありませんでした。

土岐頼芸を追放する手はずは、もう打っていました。

その手とは、土岐頼芸の大事にしていた鷹を、すべて殺すことでした。

 

鷹、めっちゃ死んでいました・・・。

それを見た、土岐頼芸は、美濃から出て行くのでした。

斎藤義龍が、土岐頼芸を追い出したことに怒り、道三に会いに来ました。

 

斎藤道三は、義龍を憐れみの目で見ます。

父親は土岐頼芸と言い張る斎藤義龍。

そんな斎藤義龍に道三は、「おまえの父親は、マムシと言われた下賤な者」と言い放ちます。

 

望月東庵と駒は、駿河に向けて旅をしています。

二人は、三河・遠江の国境付近にいました。

そこに、駿河の今川軍が、尾張に向けて進軍していました。

 

織田信秀の死去を聞いた今川義元は、三河に軍を進めています。

望月東庵と駒は、一人の男に話しかけられます。

 

 

その男は、のちの豊臣秀吉である、藤吉郎でした。

藤吉郎は、書物を持っていたが、字が読めません。

 

木下藤吉郎(きのした とうきちろう)

キャスト:佐々木蔵之介

のちの豊臣秀吉です。

藤吉郎は、尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれます。

今川家に仕えて、その後、織田信長に仕官します。

 

織田信長の家臣となり、大いに活躍し、瞬く間に、出世をしていきます。

織田信長の死後、明智光秀と「山崎の戦い」で対決することになります。

 

のちに、全国の大名を屈服させ、天下統一を果たします。

天下統一後は、太閤検地や刀狩り、惣無事令や石高制などの政策で、国内の統合を進めました。

 

駒に書物を読んでもらいます。

藤吉郎は、織田信秀が死んだ尾張は、もうダメだと思います。

これからは今川の世だと考えていました。

 

藤吉郎は、今川氏の地で、一旗あげようとしていました。

この頃の今川氏は、相当力を持った家柄でしたので、そう思うのは当然ですね。

 

尾張・那古野城に織田信長がいます。

家督を継いだ織田信長は、織田家の身内から、命を狙われています。

織田信秀が死去したあと、織田家の情勢は混沌としていました。

 

織田信長は、「身内程あてにならない」と嘆きます。

織田信長の家臣・平手政秀(ひらてまさひで)が突如、切腹してしまいます。

平手政秀は織田信長の教育係であり、織田信長にとって大事な家臣でした。

 

帰蝶の元に、父親の斎藤道三から手紙が来ます。

内容は、織田信長と対面したいとのことでした。

織田信長は、斎藤道三を警戒しますが、帰蝶は、逆にこれはチャンスととらえます。

 

 

帰蝶は、旅芸人である伊呂波太夫に会っていました。

伊呂波太夫は、雇い兵を動かすことができる、傭兵商人であることが判明します。

傭兵の中には、鉄砲を扱うことに長けている、紀伊の根来(ねごろ)衆もいます。

 

そんな情報を聞いた帰蝶は、伊呂波太夫と対面します。

帰蝶は、「兵と鉄砲、それに鉄砲に長けた根来衆を用意してほしい」と伊呂波太夫に頼みます。

しかし、伊呂波太夫は、急には無理だし、値段が高くなると断ります。

 

そこで、帰蝶は大量の砂金を、伊呂波太夫の前に差しだしました。

砂金を出して、笑っている川口春奈、「かわいい」と「怖い」のバランスが絶妙!!

 

斎藤道三は、織田信長と対面することを二人に伝えます。

会見場所は、尾張の聖徳寺(しょうとくじ)です。

斎藤道三は、明智光秀にお供をしろと命令します。

 

那古野城では、帰蝶が織田信長に衣装のアドバイスをしていました。

帰蝶はこの会見の重要性を理解しています。

帰蝶は「これは父上と私の戦である」と意気込みます。

 

斎藤道三の一行は、聖徳寺の近くの小屋で隠れています。

ここから、織田信長を先に覗き見をしようとしています。

斎藤道三は、織田信長がつまらないものなら、聖徳寺を兵で囲むつもりです。

 

そこに、織田信長の軍がやってきました。

織田信長の軍を見た、斎藤道三と明智光秀は驚愕します。

 

織田信長の兵には、300丁の鉄砲を持った鉄砲隊がいました。

30丁の鉄砲組を作ろうとしていた斎藤道三にとって、信じられない光景となりました。

さらに、馬上の織田信長は、軽装で、みすぼらしい恰好をしていました。

 

その後の、土岐頼芸(とき よりのり)

土岐頼芸は、1552(天文21)年に、斎藤道三に追放されます。

美濃を追放された土岐頼芸は、その後各地を転々としています。

最初に向かったのは、妹の嫁ぎ先である六角氏がいる近江国でした。

 

次に向かったのは、弟である土岐治頼(はるより)がいる常陸国(現在の茨城県)に落ち延びます。

その後、上総国(現在の千葉県)の土岐為頼を頼ります。

最後に向かったのは、武田氏がいる甲斐国(現在の山梨県)でした。

 

1582(天正10)年、織田信長の甲州征伐の時に、土岐頼芸が発見されました。

土岐頼芸の旧家臣であり、当時の織田の家臣でもあった稲葉一徹により、美濃国に戻り、半年後に死去したとされています。

享年81歳でした。

 

木下藤吉郎と今川家

木下藤吉郎は、織田信長の配下に入る以前は、今川家に仕えていたとされています。

「太閤素生記(たいこうそせいき)」にそのことが記されています。

今川義元の家臣・飯尾氏の配下にある遠江(とおとうみ)国の頭陀寺(ずだに)城主・松下之綱(まつしたゆきつな)に仕えていました。

 

藤吉郎は、そこで虐めを受け、不憫に思った松下之綱が、お金を与えて送り出したとされています。

また、甫庵太閤記(ほあんたいこうき)、真書太閤記(しんしょたいこうき)では、お金を盗んで出奔したとあります。

 

後年、織田家臣である秀吉が、長浜城主になったころ、松下之綱を家臣として召し抱えます。

松下之綱は、丹波3千石の所領を秀吉に与えられました。

のちに、遠江久野にある久野城の城主になり、1万6000石の所領を持つことになります。

 

尾張国・織田の情勢

尾張の守護職に斯波氏がおり、織田家は斯波氏の家臣でした。

斯波氏の内紛により、織田家が分裂し、次第に織田家は、主家の斯波氏を凌駕するほどの力を持ちます。

 

織田家は二つの家柄に分かれました。

・清州(きよす)織田氏(大和守家)

・岩倉(いわくら)織田氏(伊勢守家)

 

清州織田氏は清州城を本拠として、尾張下4郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)を支配します。

岩倉織田氏は岩倉城を本拠として、尾張上4郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)を支配します。

 

清州織田氏に、清州三奉行(きよすさんぶぎょう)と呼ばれた家臣がいました。

 

・因幡守家(いんばのかみけ)・・・織田信友(のぶとも)が、大和守の清州城主となる。

・藤左衛門家(とうざえもんけ)・・・織田寛故(とおもと)の代に信秀に従う。

・弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)・・・織田信秀・織田信長・織田信勝(信行)。

 

信長の父・信秀が亡くなったことで、清州織田家の織田信友や、岩倉織田氏の織田信賢(のぶかた)が、信長の首を狙っています。

尾張統一を目指す、それぞれの織田家が、敵味方になって争うことになるのです。

 

平手政秀の切腹理由とは?

平手政秀は、織田信秀の重臣として、主に外交面で活躍しました。

斎藤道三との和睦や、信長と帰蝶の婚約を取りまとめをしています。

織田信秀の死から一年後に突如、切腹してしまいます。

 

「信長公記(しんちょうこうき)」に切腹の理由が書いてあります。

平手政秀の長男に、五郎右衛門がいます。

この五郎右衛門の持っている馬を、ほしいと織田信長は懇願します。

 

しかし、五郎衛門は、「自分は武士であるから馬が必要なので、献上できません」と拒否します。

ここから平手家は、織田信長から逆恨みされたといいます。

 

これが原因で、織田信長と不仲になり、自害したとされています。

その他の理由では、信長のうつけ振りを死によって、諫めるために自害したと言われています。

 

根来衆とは?

根来衆は、紀伊国(現在の和歌山県)北部の根来寺を中心とする一帯に、移住した僧兵の集団です。

鉄砲で武装して、傭兵集団として行動していました。

 

根来寺僧兵の長である津田監物(つだ けんもつ)を中心に活躍しました。

津田監物は、火縄銃の名手で、日本における鉄砲術の基礎を生み出したと言われています。

 

津田監物は、種子島に渡り、鉄砲を買い付け、その銃を畿内に持ち込み、複製させます。

これにより、紀伊・堺は、鉄砲の大量生産国となりました。

 

聖徳寺の会見前の様子

1553(天文22)年、織田信長と斎藤道三が、聖徳寺で会見をしました。

「信長公記(しんちょうこうき)」にその様子が記されています。

斎藤道三は、小屋に隠れて、織田信長の行列を覗き見をします。

 

そのときの織田信長の格好は・・・。

・髪は茶筅(ちゃせん)髷(茶道の茶筅に似たヘアスタイル)

・湯帷子(ゆかたびら)【現在の浴衣で、浴衣は元は家着でした】を袖脱ぎ(肩脱ぎ)にしていた

・金銀飾りの大刀・脇差を藁縄で巻いていた

・太い麻縄を腕貫(うでぬき)【二の腕を包むもの】として付けていた

・腰の周りに火打ち袋(現代のきんちゃく袋みたいなもの) を付けていた

・瓢箪をいくつもぶら下げていた

・袴は虎と豹の皮を四色に染め分けた半袴(くるぶしまでの丈の袴)を履いていた

 

また、織田信長の軍の装備に、斎藤道三は驚いています。

約6メートルある長槍を500本所持した兵隊

弓・鉄砲を500丁所持した兵隊

これらの装備をつけた兵をお供に連れて、織田信長は進軍していました。

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