史跡巡り

【岐阜】明智光秀ゆかりの地 生誕地史跡巡り【可児】

どうも、うめたろうです。

今回の史跡巡りは、明智光秀の生誕地である岐阜県可児市に訪れました。

明智光秀と言えば、「本能寺の変」で有名ですね。

謀反人のイメージが強い明智光秀ですが、織田信長のもとで、大きな功績を残しています。

 

比叡山焼き討ちや、丹波国を攻略し、織田政権にとって必要不可欠な人物でした。

2020年には、大河ドラマの主役に選ばれ、今、もっとも注目な戦国武将です。

明智光秀の生誕地と言われている場所は、いくつかの説があります。

 

今回はその中でも、特に有力な説と言われている、岐阜県可児市にある史跡を巡りました。

可児市には明智城跡をはじめ、明智荘、天龍寺など、明智光秀に関する史跡がいくつかあります。

また、現在、可児市の花フェスタ記念公園で、「麒麟がくる」大河ドラマ館がオープンしています。

 

明智光秀 産湯の井戸跡

 

可児市東部は、かつて明智荘(あけちのしょう)と呼ばれた荘園がありました。

明智荘は、土岐明智氏の一門が支配していました。

明智光秀は明智荘で生まれたとされ、可児市の瀬田地区が生誕地と伝わります。

 

うめたろうは明智荘に行く前に、「麒麟がくる」大河ドラマ館を見学していました。

大河ドラマ館は、花フェスタ記念公園で開催されています。

 

車は花フェスタ記念公園の駐車場に停めて、そこから徒歩で向かいました。

明智荘や明智城跡には、「徒歩でお願いします」と、アナウンスされていました。

 

 

まず、うめたろうが向かったのは、明智光秀の産湯の井戸跡です。

花フェスタ記念公園の駐車場から産湯の井戸跡まで、徒歩で約15分です。

電車で訪れる方は、名鉄明智駅から徒歩で約15分で着きます。

 

 

可児市瀬田地区は、のどかな風景が広がっていました。

この日は、通り雨がたまに降り、空には雨雲が見えます。

 

 

「ここだよ!」と言っているような、目印になっている大きな木が立っていました。

ここに、明智光秀の産湯井戸の説明版があります。

 

 

説明版によると、昭和40年代の土地改良以前は、井戸跡とされる場所が残っていたそうです。

現在は耕地となっており、井戸の痕跡はありません。

 

 

説明板の反対側が、産湯の井戸があったとされる場所です。

大河ドラマの序盤では、明智荘が再現されていましたね。

当時はもっと自然が広がっていて、のどかな場所だったと想像できます。

 

天龍寺(てんりゅうじ)

 

次にうめたろうが向かったのは、天龍寺(てんりゅうじ)です。

天龍寺に着く前に、近くに立派な神社がありました。

少し、寄らせてもらいました。

 

 

こちらは太元神社(たいげんじんじゃ)です。

太元神社の奥の院は、武勇の神様のようです。

城主が出陣の際、太元神社の奥の院で加護を祈り、戦場に行ったと伝わります。

 

敵の首を討ち取ると、首をお皿に乗せ、それをお礼としたとあります。

今でも皿が出土しており、その皿には血の痕が付いているようです。

 

 

太元神社の奥の院はこの場所になく、花フェスタ公園の東の山頂にあります。

ここには、奥の院の遥拝所(ようはいじょ)があります。

遥拝所とは、遠く離れた所から、神仏などをはるかに拝むために設けられた場所です。

 

 

太元神社からすぐのところに、天龍寺(てんりゅうじ)がありました。

天龍寺は、1625(寛永2)年に開山したと伝わります。

大正12年に焼失し、現在の建物は、昭和45年以後に再建されました。

 

 

天龍寺には、明智光秀の木像と日本一大きい位牌が祀られています。

位牌の大きさは、明智光秀の命日にちなんだ6尺1寸3分(約184cm)です。

毎年6月には、光秀供養祭がおこなわれています。

 

 

また、明智氏歴代の墓所と伝わるお墓もあります。

天龍寺を後にしたうめたろうは、明智城跡に向かいました。

 

明智城(長山城)跡

 

「桔梗坂」と名付けられた、坂道があります。

明智城の大手門に繋がる坂道を登って行きます。

 

 

明智光秀の生誕地の旗が、気持ちを高めてくれます。

明智光秀が、ここにいたんだなと・・・。

 

 

少し登ったところに、明智城の大手口跡があります。

明智城の大手門が、そびえたっていました。

 

 

本丸跡に続く、石畳が素敵ですね。

森の中から聞こえる蝉の声が、夏を感じさせてくれます。

大手門から15分ぐらい登ると、本丸跡に到着しました。

 

 

こちらは七つ塚です。

明智城が落城した時に、亡くなった七人の武将を祀った塚です。

 

 

1342(康永元)年、土岐頼兼(ときよりかね)により、明智城は築城されました。

明智城は、土岐明智氏11代の明智光秀まで、215年に渡って明智氏の居城でした。

城郭には天守などは無く、周囲に土塁を造っていたと言われています。

 

 

1556(弘治2)年、明智城は斎藤義龍に攻められ、明智氏は落城と共に滅びました。

明智光秀は明智家一族の再起をかけ、明智城から脱出し、諸国を流浪します。

その後、織田信長に仕え、織田家の武将として頭角を現します。

 

 

明智城の本丸跡には、明智光秀の銅像があります。

可児市は去年から、明智光秀の銅像をつくる計画をし、募金をつのっていました。

 

 

2020年6月13日、ついに明智光秀の銅像が完成しました。

去年、うめたろうも募金をさせてもらいました。

 

 

なんと凛々しい姿なのでしょうか。

明智光秀の手には、火縄銃を持っています。

 

戦国武将の銅像で刀ではなく、火縄銃を持っている銅像は、見たことがなかったです。

鉄砲の名手と言われた、明智光秀ならではですね。

 

 

明智城の本丸跡には、展望台があります。

ここから、明智荘を見渡すことができました。

 

おわりに・・・

明智光秀が約30年間過ごした町、明智荘・・・。

そこには自然豊かで、のどかな風景があり、とても癒されました。

10年ぐらい前にうめたろうが、史跡巡りをしていた時の話です。

 

場所はどこか忘れたのですが、明智光秀の史跡を巡っていた時に、署名帳が置いてありました。

そこには、「明智光秀を大河ドラマの主人公に!」という署名活動が行われていたのを覚えています。

あれから10年、明智光秀は大河ドラマの主人公に選ばれました・・・。

 

織田信長を本能寺で討ち取り、その後、羽柴(豊臣)秀吉に討たれ、三日天下と呼ばれました。

謀反人として歴史に名を残した明智光秀・・・。

織田家の家臣となった明智光秀は、各地で活躍し、織田信長に最も信頼された家臣となりました。

 

明智光秀は一体どんな苦悩や悲しみを背負い、謀反をおこしたのでしょうか。

今となっては、誰もわかりません・・・。

 

そんな明智光秀のルーツが、ここ可児市にあります。

彼が見た景色を、うめたろうも見れたことに感激です。

 

最後に一言いわせてください・・・。

「いやぁ~・・・、歴史って本当にいいもんですね・・・」

 

明智光秀の生誕地説はこちら

【岐阜県】明智光秀ゆかりの地【生誕地】

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