戦国時代

【尾張統一戦】織田信長ゆかりの地【戦い①】

織田信長は生涯、数々の合戦をしてきました。

全国のライバルたちを次々と倒し、織田軍の勢力を拡大し、いくつもの戦いに勝利します。

しかし、織田信長は、尾張国内での戦いにおいては、苦戦をしいられました。

 

織田信長が当主の弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)には、数々の敵が立ちはだかります。

清州織田家(大和守家)、岩倉織田家(伊勢守家)、弟の織田信勝(信行)・・・。

さらに、駿河の今川氏や美濃の斎藤氏が、信長の反勢力として隣国にいます。

 

父・信秀から家督を譲られた織田信長の最初の目標は、尾張国内を統一することでした。

織田家をひとつにまとめるために、織田信長は国内の反勢力と戦います。

尾張国内では、織田家の親族、兄弟が、血で血を争う戦いが繰り広げられようとしています。

 

織田信長はどのようにして、尾張国内を統一できたのか・・・。

織田信長の戦いの歴史を見ていきましょう。

 

赤塚(あかつか)の戦い【家督相続後、初の戦い】

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1552(天文21)年、尾張国(名古屋市緑区)で、「赤塚(あかつか)の戦い」が起きます。

赤塚の戦いは、父・信秀から家督を受け継いだ織田信長の最初の戦いでもあります。

織田信長の父・信秀(のぶひで)は、病によりこの世を去りました。

 

父・信秀は家督を信長に譲り、織田信長は弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)の当主となります。

尾張国に鳴海城(なるみじょう)という、お城がありました。

鳴海城の城主は、織田家に属していた山口教継(やまぐちのりつぐ)でした。

 

織田信秀時代、山口教継は小豆坂(あずきざか)の戦いで、今川義元の軍勢と戦い、戦功をあげていました。

また、織田信秀と今川義元の仲介役として、両家を和睦に導くなどの活躍をしました。

鳴海城は三河との国境にあり、織田方の尾張南東部の備えとなる重要な拠点でした。

 

信秀の死後、山口教継は織田氏を裏切り、今川氏に寝返ります。

織田信長は「うつけ」との評判が広まっており、周辺からの評価はあまり良くありませんでした。

山口教継もまた、織田信長についていく気はなく、その結果、織田家を裏切りました。

 

山口教継は笠寺(かさでら)城を築城し、今川方の武将を引き入れ、対信長戦の備えを開始します。

鳴海城には息子の山口教吉(やまぐちのりよし)を置き、自らは、桜中村(さくらなかむら)城に立て籠りました。

織田信長は山口親子と戦うため、800の軍勢を率いて、那古野(なごや)城を出陣します。

 

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小鳴海に到着した織田信長は、三王山(さんのうやま)【現・千句塚公園】に登り、陣取ります。

山口教吉は、1500の軍勢を率いて、鳴海から北にある赤塚の地に出陣しました。

織田信長隊と山口教吉隊は、赤塚の地(鳴海赤塚古墳碑や新海池付近)で激突します。

 

赤塚の戦場は、矢や槍が飛び交い、混戦となります。

両軍の距離があまりに接近していたため、首を取り合うこともなかったと言います。

数時間後、両軍の勝敗はつかないまま戦いは終わりました。

 

お互いが顔見知りであったため、逃げ込んだ馬はお互いに返し合い、生け捕りしたものも交換し合ったと言います。

この戦いで織田信長の軍勢は30人程が、討ち死にしたと伝わります。

鳴海城跡(なるみじょうあと)

住所:愛知県名古屋市緑区鳴海町根古屋22−3

アクセス:名鉄「鳴海駅」から徒歩約5分


千句塚公園(せんくづかこうえん)【山王山】

住所:愛知県名古屋市緑区鳴海町字三王山

アクセス:名鉄「鳴海駅」からバス「鳴海山下」下車すぐ

 

萱津(かやづ)の戦い 【清州織田家との戦い】

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1552(天文21)年、尾張国萱津(愛知県あま市)で、「萱津(かやづ)の戦い」が起きました。

萱津の戦いは、「萱津合戦」または、「海津の戦い」とも呼ばれます。

この頃、清州織田家(大和守家)の当主は、清州城主の織田信友(おだのぶとも)でした。

 

清州織田家の実権は、小守護代と呼ばれた重臣・坂井大膳(さかいだいぜん)が握っていました。

坂井大膳の他に、家老の坂井甚介(さかいじんすけ)・河尻与一(かわじりよいち)・織田三位(おださんみ)が団結していました。

坂井大膳と三名は軍勢を率いて、織田信長の領地にあるお城を攻めます。

 

清州織田方は、松葉(まつば)城主・織田伊賀守深田(ふかだ)城主・織田信次(のぶつぐ)を襲撃し、二人を人質とします。

織田信長は那古野城を出陣し、稲葉地の庄内川の岸辺で、守山から駆けつけた織田信光(のぶみつ)と合流します。

織田信光は、信長の父・信秀の弟であり、織田信次の兄にあたります。

 

軍勢を三方面に分けた織田信長は、信光と海津口へと攻め込みます。

数時間戦った末、信長軍は50人程討ち取り、清州方の坂井甚介を討ち取りました。

その首は、中条家忠(ちゅうじょういえただ)と柴田勝家(しばたかついえ)の二人がかりで取ったと言います。

 

松葉口では数時間の矢戦により、負傷者が続出し、清州方は城へ撤退します。

深田口では防塁がなかったので、信長軍は30人余りの兵を討ち取り、清州の軍勢を追い返します。

織田信長は松葉城と深田城を奪い返し、清州方の軍勢は清州へ退却しました。

 

その後、織田信長は清洲の農作物を刈り取って、清州方をおびやかしました。

前田利家の家臣・村井重頼が書いた「村井重頼覚書」という書物があります。

「村井重頼覚書」には、前田利家はこの戦いが初陣であり、首級を挙げる功を立てたと記されています。

萱津古戦場跡(かやづこせんじょうあと)

住所:愛知県あま市上萱津八剱50

アクセス:名鉄津島線「甚目寺駅」から徒歩約20分

 

村木砦(むらきとりで)の戦い 【今川氏との戦い】

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1554(天文23)年、尾張国知多郡(愛知県東浦町)で、「村木(むらき)砦の戦い」は起きました。

当時、信長の父・織田信秀と今川義元(いまがわよしもと)との間で、和議が結ばれていました。

しかし、織田信長が家督をついだら、その和議を破棄をし、再び戦いが始まります。

 

今川義元は、鳴海城の山口教継を傘下にし、織田信長は大給松平氏を離反させるなど、互いの調略戦がおこなわれます。

そこで、知多半島の領地を持つ水野氏は、織田方につくことになりました。

今川氏は織田方についた水野氏を討伐するため、軍勢を派遣します。

 

今川軍は村木(むらき)の浜に砦を築き、水野氏が居る緒川(おがわ)城を攻撃の目標に定めます。

織田信長は、村木砦を攻撃するため、進軍することを決めます。

しかし、織田信長の留守中に、清州織田家が那古野城を攻撃することが予想されました。

 

そこで織田信長は、同盟を組んだ美濃の斎藤道三に使者を送り、援軍を求めました。

斎藤道三は、安藤守就(あんどうもりなり)を大将とした1000人の兵を、那古野城に援軍として送ります。

安藤守就が那古野城の近郊に着陣すると、織田信長は丁寧にお礼を述べます。

 

那古野城を任せた織田信長は、敵に気づかれないように緒川城に向かいます。

織田方であった寺本(てらもと)城主の花井氏が、今川に寝返っていました。

花井氏が那古野城と緒川城の道をふさいでいたため、織田信長は船で海を渡ることを決めます。

 

しかし、強風で海が荒れており、船を出すことに船頭たちは反対しました。

織田信長は、船頭に無理やり船を出させた結果、短時間で緒川城に着くことができました。

緒川城で水野信元(みずののぶもと)と合流した織田信長は、村木砦の状況を確認します。

 

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織田信長は、現在の村木神社がある場所に本陣を構えました。

軍勢を三隊に分け、村木砦の攻撃を開始します。

 

東の大手門は、水野軍

西側の搦手門は、叔父の織田信光(のぶみつ)

南側から、織田信長本隊

 

織田信長は、鉄砲隊に代わり替わりに発砲させ、敵をなぎ倒していきます。

今川軍は見慣れない武器に動揺し、負傷者や使者が続出します。

激闘の末、今川軍は降伏し、戦いは数時間で決着しました。

 

この戦いで織田信長は、お小姓衆が数多く討ち死にした為、涙を流したと言われています。

また、山間の広場で勝利の宴会を開き、その場所は今でも、飯喰場(いくいば)と呼ばれています。

 

斎藤道三は安藤守成から、織田信長の報告を聞き、「恐るべき男だ」と言ったといいます。

村木砦の戦いは、織田信長が合戦として初めて鉄砲を使ったと伝わります。

村木神社(むらきじんじゃ)

住所:愛知県 知多郡東浦町森岡字天王西27

アクセス:JR武豊線「尾張森岡駅」から徒歩約12分


村木砦跡(むらきとりであと)

住所:知多郡東浦町森岡取手30

アクセス:JR武豊線「尾張森岡駅」から徒歩約5分

 

安食(あじき)の戦い&清州城攻略 【清州織田滅亡戦】

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1554(天文23)、尾張国安食村(愛知県清須市~名古屋市北区あたり)で、「安食(あじき)の戦い」が起こります。

安食の戦いは、別名、中市場合戦とも呼ばれます。

清洲城で、異変が起きようとしていました。

 

清州城には清州城主・織田信友(のぶとも)と尾張守護職の斯波義統(しばよしむね)がいました。

斯波義統は尾張の守護ですが、織田信友や坂井大膳のあやつり人形であり、いわゆる傀儡(かいらい)にされていました。

全国各地では、足利政権時代に守護職についた名門家が力を失いつつありました。

 

家臣であった者や支配していた豪族たちが、守護職を上回る力をつけていました。

そのような状況下におかれていた斯波義統は、当然ながら現状に不満を抱きます。

斯波義統の家臣に梁田弥次右衛門と那古野弥五郎という者がいました。

 

この二名は清州城の内情を、織田信長に内通します。(斯波義統の命令とも)

内通をしていることが清洲城で発覚したため、織田信友は斯波義統が、清州城を乗っ取る気があると不信感を抱きます。

ある日、織田信友は、敵対する織田信長の謀殺を計画します。

 

しかし、織田信友の信長暗殺計画は、斯波義統の密告により織田信長に知られてしまいます。

斯波義統は今の状況をなんとか脱出しようと、織田信長に助けを求めていました。

そのことを知った織田信友は激怒し、家老の坂井大膳、織田三位、河尻左馬助などに斯波義統の襲撃を命じます。

 

坂井大膳らは、斯波義統の邸宅を囲み、ついに斯波義統を自害に追い込みました。

この時、斯波義統の嫡男・斯波義銀(よしかね)は、川狩りに出かけていたため、命が助かります。

報を聞いた斯波義銀は、邸宅には戻らず、織田信長に助けを求めて、那古野城に入城しました。

 

織田信長は、斯波義統の「かたき討ち」という大義名分を持って、清洲へ軍勢を出します。

信長の弟・織田信勝(信行)の家老である柴田勝家も参戦し、敵と山王口(現在の清洲山王宮日吉神社あたり)で激突しました。

清洲軍は追い詰められ、安食(あじき)村で支えれなくなり、誓願寺(じょうがんじ)【現成願寺】前で軍勢を防ぎます。

 

しかし、ついに清洲軍は、町口大堀の中へ追い込まれました。

柴田軍の槍は清洲軍の槍より長く、そのため、戦いを優位に持ち込むことができました。

そして、織田信友の家老である織田三位、河尻左馬助を討ち取りました。

 

ちなみに、この戦いには、「信長公記」の著者・太田牛一(おおたぎゅういち)が足軽として参戦していました。

安食の戦いにより、大打撃を受けた清州の織田信友と坂井大膳は、調略に動きます。

坂井大膳は織田信長の叔父で、守山城主の織田信光(のぶみつ)に協力を求めます。

 

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織田信秀時代、織田信光は「小豆坂(あずきざか)七本槍」の一人と名を馳せ、萱津の戦いや村木砦の戦いでも活躍しました。

坂井大膳は、「勝利のあかつきには、織田信友と共に守護代のポジションを約束する」と持ち掛けます。

坂井大膳の求めに応じた織田信光は、起請文(誓約書)を書き、清州に送ります。

 

しかし、織田信光は密かに、織田信長に清洲からの誘いを打ち明けました。

織田信光は信長に対し、「清州城を騙し取るので、尾張の下の郡・四郡のうち、東半分を貰う」という条件を投げかけます。

織田信長は、信光の願いを承諾し、織田信友の謀殺を計画しました。

 

1554(天文24)年、織田信光は、織田信友に招かれ、清州城に入城します。

織田信光は兵を隠して配置し、織田信友を追い詰め、その場で自害をさせました。

この時、坂井大膳は清州城から逃げ去り、そのまま今川義元を頼り駿河に落ち延びました。

 

織田信光は、清州城を信長に引き渡すと、信長から譲られた那古野城に入ります。

織田信長は、ついに長年の敵であった清州織田家の滅亡に成功しました。

しかし、この年に織田信光は、突然、亡くなってしまいます。

 

「甫庵(ほあん)信長記」には、織田信光の家臣・坂井孫八郎が北の方(信光の妻)と密通していたのが原因とあります。

この死因には様々な憶測があります。

 

織田信光の妻・北の方が松平信定の娘であり、今川氏の謀略により殺された。

織田信長が、領地拡大をした信光が邪魔になったから、殺害した。

織田信長に敵対視していた弟・織田信勝(信行)の計略により、殺害された。

 

織田信光のはっきりとした死因は、わかっていません。

織田信光が死んだことにより、織田信長の領地が増えたことには間違いありません。

清洲山王宮 日吉神社(きよすさんのうぐう ひよしじんじゃ)

住所:愛知県清須市清洲 2272番地

アクセス:名鉄名古屋本線『新清洲駅』から徒歩約8分


清洲城(きよすじょう)

住所:愛知県清須市朝日城屋敷1番地1

アクセス:JR東海道本線「清洲駅」、名鉄本線「新清洲駅」から徒歩約15分

 

大良(おおら)の戦い 【斎藤道三の救出戦】

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1556(弘治2)年、美濃国(岐阜県岐阜市)で、「長良川(ながらがわ)の戦い」が起こります。

長良川の戦いは、美濃国の斎藤道三(さいとうどうさん)とその嫡男・斎藤義龍(よしたつ)との戦いです。

斎藤道三は信長と会った聖徳寺の会見以降、信長の将来性や戦術などを高く評価していました。

 

自分の息子である斎藤義龍よりも、織田信長の実力を買っていました。

斎藤道三が書いた「織田信長に美濃の国を譲る」という内容が書いてある「美濃国譲り状」が存在します。

さらに、織田信長の妻は、斎藤道三の娘(帰蝶)でもあり、信頼関係は密接なものでした。

 

斎藤義龍は、そんな道三が邪魔になり、戦を開始します。

この戦いには、兵力差がありすぎ、斎藤道三の負けは誰が見ても明らかでした。

しかし、織田信長は斎藤道三のために自ら出陣し、美濃に攻め込みます。

 

織田信長は、大良(岐阜県羽島市)の大浦(おおうら)城まで進軍します。

現在、大浦城(大浦の寺砦)跡には、金矮鶏(きんちゃぼ)神社が建っています。

首実検を済ませた斎藤義龍は、大良の織田信長の陣に軍勢を差し向けます。

 

両軍は大良の河原で激突し、織田信長軍の山口取手介と土方彦三郎が討ち死にします。

織田信長軍の森可成(もりよしなり)は、斎藤義龍軍の千石又一と戦い、馬上で膝を斬られ、負傷します。

織田信長は、斎藤利治(さいとうとしはる)の斎藤道三の残存軍と合流し、斎藤道三の死を聞きました。

 

斎藤道三の死を知った織田信長は、もはやこれまでとし、軍の撤退を開始します。

織田信長は、自ら殿(しんがり)を務め、斎藤義龍軍の騎馬を鉄砲で打ち払い、退却しました。

大浦城跡(おおうらじょうあと)【金矮鶏神社(きんちゃぼじんじゃ)】

住所: 岐阜県羽島市正木町大浦新田7丁目41

アクセス:名鉄竹鼻線「不破一色駅」から徒歩約20分

 

稲生(いのう)の戦い 【弟・信勝(信行)討伐戦】

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1556(弘治2)年、尾張国稲生(名古屋市西区)で、「稲生(いのう)の戦い」が起こります。

稲生の戦いは、稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれます。

父・織田信秀の晩年の居城・末森(すえもり)城には、信長の弟・織田信勝(信行)が譲り受け、城主になっていました。

 

織田信勝(信行)には、信秀時代からの重臣・柴田勝家、佐久間大学、佐久間次右衛門が補佐しています。

織田信勝(信行)は弾正忠家において、兄の信長に劣らない権勢を誇っていました。

官名には「弾正忠(だんじょうのちゅうけ)」を名乗っていたこともありました。

 

父・信秀から家督を受け継いだ信長でしたが、「うつけ」と呼ばれるなど、評判はよくありませんでした。

その一方で、家中でも評価の高かった織田信勝(信行)に、家督を継がせようとしている者たちがいました。

父・信秀時代からの家臣・林秀貞(はやしひでさだ)とその弟・林通具(はやしみちとも)も、信勝派となります。

 

林兄弟と柴田勝家は、織田信勝(信行)こそが、家督を継ぐのに相応しいと思い、信長の排除を目標とします。

織田信長・信勝(信行)の弟に、織田秀孝(ひでたか)という人物がいました。

織田秀孝は、守山城主である信長の叔父・織田信次(のぶつぐ)の家臣により、無礼討ちに合い、殺害されてしまいます。

 

織田信次は、主家である信長の報復を恐れ、守山城から逃亡します。

その報を聞いた織田信勝(信行)は、激怒し、末森城から兵を起こし、信次の旧臣の籠る守山城下を焼き払いました。

織田信長は、秀孝にも非があるとし、信次の罪を許していました。

 

しかし、信勝(信行)が兵を出したため、信長も兵を出し、信勝の軍勢を追い払いました。

このような小競り合いがおこり、信長と信勝の関係は悪化していきました。

織田信勝(信行)は、信長の直轄領である篠木三郷(愛知県春日井市)を奪い獲ります。

 

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報を聞いた織田信長は、名塚(名古屋市西区)に砦を築き、その守備に佐久間盛重を配置しました。

ついに、二人の兄弟は、稲生原で激突するのでした。

「信長公記」には織田信長の手勢は700人程で、信勝(信行)方は、柴田勝家が1000人、林秀貞が700人とあります。

 

信長軍は、柴田軍に攻めかかりますが、屈強の柴田軍により、次々と兵が討たれます。

信長の周囲には、織田勝左衛門・織田信房(のぶふさ)・森可成(よしなり)と槍持ちの40人程しかいませんでした。

しかし、織田信房と森可成が奮闘し、また、織田信長が大声を発したため、敵はその威光に恐れて逃げたと言います。

 

勢いにのった信長軍は、林軍に攻めかかり、大将の信長自らが、林通具の首を取りました。

織田信長は、柴田・林の両勢を追い崩し、450人以上の首を取ったと言います。

戦いに敗れた信勝(信行)は、信長と信勝の母である土田御前(どたごぜん)の懇願により、助命され、信長に許してもらいました。

 

戦いに敗れた信勝(信行)は、竜泉寺(りゅうせんじ)城を築城します。

さらに、岩倉織田家の織田信安(のぶやす)と共謀し、再び、信長の直轄領である篠木三郷を奪うつ計画でした。

近頃、織田信勝(信行)は若衆の津々木蔵人(つづきくらんど)を重用し、柴田勝家をないがしろに扱っていました。

 

そのことに不満を持っていた柴田勝家は、織田信長に味方することを決めます。

柴田勝家は、信勝(信行)の計画を織田信長に密告しました。

報を聞いた織田信長は仮病と称して、信勝(信行)を清州城に見舞いに来させます。

 

清洲城に織田信勝(信行)が見まいに来たところ、信長の家臣・川尻秀隆(かわじりひでたか)らに、殺害させました。

信勝(信行)の勢力がなくなった今、織田信長は尾張統一まで、あと一歩となりました。

末森城跡(すえもりじょうあと)

住所:愛知県名古屋市千種区城山町2丁目88

アクセス:名古屋市営地下鉄東山線「覚王山駅」から徒歩約5分


稲生原古戦場跡(いのうがはらこせんじょうあと)

住所:愛知県名古屋市西区名塚町1丁目124

アクセス:名古屋市営地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩約3分

 

浮野(うきの)の戦い【岩倉織田家滅亡戦】

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1558(永禄元)年(1557年説も)、尾張国浮野(愛知県一宮市)で、「浮野(うき)の戦い」が起こります。

織田信長は、清洲織田家を滅亡させ、弟の信勝(信行)も討ち取りました。

さらに、尾張守護の斯波義銀(しばよしかね)を、尾張国内から追放しました。

 

織田信長の尾張国内での敵対勢力は、岩倉織田氏(織田伊勢守家)のみとなりました。

岩倉城主・織田信安(のぶやす)は、美濃の斎藤義龍と手を組んだり、織田信勝(信行)と協力し、信長を攻撃していました。

ある日、岩倉織田家で家督争いがおこります。

 

織田信安は、次男の織田信家(のぶいえ)に家督を譲ろうとしていました。

これを知った長男・織田信賢(のぶかた)は、父・信安を岩倉城から追放しました。

岩倉城主となった織田信賢は、信長に徹底抗戦の姿勢をとります。

 

織田信長は、岩倉織田氏の内紛をチャンスと見て、戦いを仕掛けます。

信長の父・織田信秀の死後、独立勢力となっていた犬山城主・織田信清(のぶきよ)がいました。

織田信長は信清に対して、姉の犬山殿(いぬやまどの)を嫁がせ、味方にします。

 

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信長軍2000の軍勢と信賢軍3000の軍勢は、浮野(愛知県一宮市)の地で激突します。

数時間の激戦の末、犬山の織田信清軍が1000の軍勢を率いて到着すると、信賢軍は崩れ、岩倉城へと敗走しました。

この時、織田信長軍は、1250以上の首をあげたと言います。

 

織田信賢の家臣・林弥七郎は弓の名手であり、旧知の間柄であった橋本一巴(はしもといっぱ)と対決し、相打ちとなります。

そこに前田利家の弟・佐脇良之(さわきよしゆき)が駆けつけました。

佐脇良之は、左の肘を鎧の小手ごと斬られましたが、なんとか林弥七郎の首をとります。

 

「信長公記」には、林弥七郎の手練は「見事であった」と書かれています。

この戦いには、岩倉勢として山内一豊(やまうちかずとよ)の父や、堀尾吉晴(ほりおよしはる)の父も参加していました。

戦いに勝った織田信長は、翌年、岩倉城を包囲します。

 

籠城戦の末、岩倉城は織田信長軍により落城し、織田信賢は降伏しました。

織田信賢はその後、消息不明となりましたが、父の織田信安は信長に許され、摠見寺(そうけんじ)の住職になっています。

犬山城主の織田信清は、戦後、織田信賢の旧領地を巡り、信長と争います。

 

信長に反旗を翻した織田信清は、楽田(がくでん)城を奪い獲ります。

しかし、信長軍により攻め落とされ、犬山城も落城し、信清は甲斐国(山梨県)に逃亡しました。

こうして、織田信長は、念願の尾張統一を果たすことができました。

浮野古戦場跡(うきよこせんじょうあと)

住所:愛知県一宮市千秋町浮野海道25

アクセス:名鉄犬山線「布袋駅」から徒歩約30分


岩倉城跡(いわくらじょうあと)

住所:愛知県岩倉市下本町城址122

アクセス:名鉄犬山線「岩倉駅」から徒歩で約15分

 

おわりに・・・

織田信長は尾張国内で合戦を繰り返し、ついに尾張国を統一しました。

 

尾張守護・斯波氏を追放。

清州織田家を滅亡。

岩倉織田家滅亡。

弟の織田信勝(信行)を討伐。

犬山の織田信清追放。

 

元は一つの織田家でしたが、そこから数々の織田家が生まれました。

しかし、信長により織田家は再び、ひとつに統一されました。

親族、兄弟、親子で殺し合い、血で血を洗う争いは終結したのです。

 

戦国時代という「弱肉強食」の時代には、このようなことは日常茶飯事でした。

信長の前には、数々の織田家の者たちが散っていった・・・。

織田信長は、その想いを受け継ぎ、天下布武を実行することになります。

 

尾張国を治めた織田信長は、次の野望に打って出ます。

次なる目標は、隣国の美濃を手に入れること・・・。

 

しかし・・・、東から巨大な勢力が、織田信長に襲い掛かろうとします・・・。

 

織田信長の戦いは、まだまだ続くのです・・・。

 

それにしても、織田家の登場人物の名前・・・・、似すぎ!!

信秀、信長、信友、信勝、信光、信賢、信清・・・。

「信」が多すぎて、もはや、訳が分からないレベルです・・・。

 

-戦国時代

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