戦国時代

【長篠で武田と激突】織田信長ゆかりの地【戦い⑤】

長島の一向一揆を殲滅し、浅井・朝倉氏を滅亡に追い込んだ織田信長。

槇島(まきしま)城の戦いで将軍・足利義昭までも追放しました。

しかし、織田信長に敵対する勢力は、まだ各地に存在します。

 

河内国の反信長勢力の挙兵に合わせ、再び、石山本願寺が立ち上がります。

越前国では一揆がおこり、本願寺の一向宗も加わり、越前の領地を奪われます。

西国の毛利氏は、石山本願寺に味方し、織田信長と敵対する姿勢を見せます。

 

そして、戦国最強と言われた甲斐の武田軍と長篠の地で衝突します。

織田信長は万全の準備をし、武田軍を迎え撃ちます。

果たして、織田信長の作戦とは・・・。

 

高屋城(たかやじょう)の戦い 【河内勢殲滅戦】

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1575(天正3)年、河内(かわうち)国で「高屋城(たかやじょう)の戦い」が起こります。

石山本願寺との戦いでもあることから、「第二次石山合戦」とも、呼ばれています。

高屋城は代々、河内畠山(はたけやま)氏が城主をつとめていました。

 

当主の畠山高政(はたけやまたかまさ)は、弟である畠山昭高(あきたか)に家督を譲ります。

畠山氏は足利義昭を支援しており、そのため、義昭と対立する三好三人衆とは敵対関係にありました。

織田信長は足利義昭と上洛すると、河内国の南半球を畠山氏の領地、河内国の北半球を三好義継の領地とします。

 

三好義継と松永久秀は、織田信長に反旗をひるがえし、織田方の畠山氏を攻撃します。

畠山昭高は家臣・安見宗房(やすみむねふさ)と共に、三好氏と交戦します。

しかし、畠山昭高の家臣・遊佐信教(ゆさのぶのり)は、当主を裏切り、三好氏に味方します。

 

畠山昭高は足利義昭を支持してきましたが、織田信長の権力に押され、信長派になります。

それに対して、河内の国人衆の大半は、足利義昭派でした。

家臣であった遊佐信教は、当主である畠山昭高を襲い、自害に追い込みました。

 

畠山家中の主導権は、遊佐信教が握ることになりました。

遊佐信教は京から足利義昭が追放されると、三好康長(みよしやすなが)と手を組み、織田信長に対抗します。

 

第一次高屋城の戦い

1574(天正2)年、第一次高屋城の戦いが起こります。

河内国内では、反信長勢力が結託し、合戦の準備に取り掛かります。

 

河内国内の反信長勢力

摂津国の池田正勝(いけだまさかつ)

讃岐国の十河一行(そごういっこう)

雑賀衆の鈴木孫一(すずきまごいち)

若江城(わかえじょう)の残党

 

これらの反信長勢力は、信長方の細川昭元(ほそかわあきもと)の堀(ほり)城(中嶋城)を攻撃し、陥落させました。

高屋城の遊佐信教もこの動きに同調し、阿波国の三好康長を高屋城に招き入れ、城に立て籠ります。

さらに、反信長勢力の石山本願寺もこの動きに合わせ、挙兵をしました。

 

織田信長は討伐戦に、柴田勝家、明智光秀、細川藤孝、荒木村重、筒井順慶を摂津に進軍させます。

摂津国に派遣された織田軍は、石山本願寺と高屋城に攻撃を開始します。

織田軍は住吉(すみよし)や天王寺(てんのうじ)を焼き討ちし、玉造(たまつくり)周辺で本願寺勢と激突しました。

 

その後、織田軍は河内国から一時、撤退をし、織田信長は伊勢国で長島の一向一揆を壊滅させました。

その後、織田信長は、佐久間信盛らを河内国に進軍させます。

佐久間信盛らは、三好康長と本願寺・顕如軍と戦闘になります。

 

戦いの末、飯盛山(いいもりやま)城と萱振(かやふり)城を落城させました。

その後、再び、織田軍は河内国から撤退しました。

 

第二次高屋城の戦い

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1575(天正3)年、織田信長は細川藤孝に朱印状を送っています。

内容は、「秋に本願寺を攻撃するから、兵力を集め、準備を勧めよ」と、戦いの準備を命じています。

本願寺の一揆勢は、大和田(おおわだ)に砦を作り進軍します。

しかし、荒木村重の軍勢により、大和田砦と天満(てんまん)砦を奪われます。

 

織田信長は河内の駒ヶ谷(こまがたに)山に布陣し、高屋城に進軍します。

それを見た三好康長は高屋城から出撃し、織田軍と激突します。

織田信長は高屋城下を焼き討ちし、三好軍に圧力を掛けます。

 

住吉に移動した織田信長は、天王寺に本陣を構えました。

織田信長は石山本願寺衆と対峙し、石山本願寺周辺の作物を薙ぎ捨てにしました。

織田軍は尾張や伊勢から援軍が到着し、総勢10万とも言われる大軍になります。

石山本願寺と高屋城の中間に新堀(にいぼり)城があります。

 

新堀城には、十河一行(そごういっこう)、香西長信(こうざいながのぶ)が立て籠っていました。

織田軍は新堀城の堀を埋め、突撃し、激しい戦いの末、新堀城を落城させます。

十河一行はこのときに討死、香西長信は生け捕りにされ、のちに斬首されました。

 

三好康長は織田信長に降伏し、その後、織田信長により重用されることになります。

遊佐信教はこの戦いで討死したと言われています。

反乱分子を倒した織田信長は、このまま石山本願寺攻めを行う予定でした。

 

しかし、甲斐の武田勝頼(かつより)が、三河国の長篠に侵入したとの報告を受け、石山本願寺攻めを中止します。

その後、本願寺は、織田方の松井友閑(まついゆうかん)と三好康長を仲介とし、和睦を申し入れてきます。

織田信長は本願寺との和睦に応じますが、この和睦は一時的なものでした。

高屋城跡(たかやじょうあと)【高屋築山古墳】

住所:大阪府羽曳野市6丁目6

アクセス:近鉄南大阪線「古市駅」から徒歩約10分


新堀城跡(にいぼりじょうあと)【保利神社】

住所:大阪府大阪市住吉区長居東1丁目14

アクセス:JR「長居駅」から徒歩約15分

 

長篠(ながしの)の戦い 【甲斐・武田と直接対決】

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1575(天正3)年、三河国【愛知県】で「長篠(ながしの)の戦い」が起こります。

 

決戦地が設楽原(したらがはら)のため、「長篠設楽原の戦い」とも呼ばれます。

甲斐(かい)国【山梨県】では、武田信玄が病死をし、新たな当主が誕生していました。

武田家の家督は、武田信玄の四男・武田勝頼(たけだかつより)が継ぎました。

 

明知(あけち)城の戦い

1574(天正2)年、武田勝頼は勢力拡大を目指し、1万5千の軍勢を率いて、織田領の東美濃にある明知城を襲撃します。

明知城では城主の遠山一行(とおやまかずゆき)が籠城し、援軍として坂井越中守が入城しました。

織田信長は、嫡男・信忠(のぶただ)と共に、鶴岡(つるおか)山に陣を築き、武田軍と対峙します。

 

明知城内にいた飯羽間(いいばま)遠山氏の遠山友信(とおやまとものぶ)が謀反を起こします。

明知城は遠山友信の謀反によって、内部から崩れ、落城します。

この戦いでの戦死者は5百人を超え、明知城は武田方の手に落ちました。

 

織田信長の救援部隊は、武田家臣・山県昌景(やまがたまさかげ)の6千の兵により、通路を囲まれたため、軍を引いたと言います。

武田軍は遠山氏の支城を次々と落とし、最後に持ちこたえた飯羽間城(いいばまじょう)も落城させ、東美濃を占領しました。

 

高天神(たかてんじん)城の戦い

勢いに乗った武田勝頼は、遠江(とおとうみ)国の徳川領に進軍します。

武田軍は2万5千の大軍で小山(こやま)城を経由し、徳川の拠点である高天神(たかてんじん)城を攻撃します。

徳川方の高天神城の城主・小笠原信興(おがさわらのぶおき)は、千人の軍勢で籠城しました。

 

武田軍に囲まれた小笠原信興は、徳川家康に援軍を求めます。

徳川家康は武田の別動隊に備えるため、援軍を送ることができませんでした。

そこで、家康から救援を受けた織田信長は、岐阜を出陣し、三河国の吉田(よしだ)城に到着します。

 

武田の攻撃により、落城寸前の状態に陥った小笠原信興は、城兵の助命を約束に城を明け渡します。

武田勝頼はこの降伏を受け、誰一人処分することなく将兵を助命します。

武田方に降伏を希望したものには配下に加え、徳川方に帰還を希望したものには、そのまま退却を許しました。

 

小笠原信興は徳川家を見限り、武田家の配下となり、その後、駿河東部に領地を貰っています。

武田勝頼は、かつて父の武田信玄が落とすことができなかった高天神城を落としたことで、自信をつけたと言います。

 

長篠の戦い、開戦

徳川家康は武田信玄の西上作戦により、武田領となった三河・遠江の領地回復に動いていました。

奥三河にある長篠(ながしの)城もその一つでした。

長篠城の城主・菅沼正貞(すがぬままささだ)は、徳川家康の攻撃により、長篠城を開城します。

三河国の山間部、奥三河に勢力を持っていた豪族たちがいました。

 

山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)

作手(つくで)の奥平(おくひら)氏

長篠(ながしの)の菅沼(すがぬま)氏

田峯(だみね)の菅沼(すがぬま)氏

 

彼らは「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」と呼ばれ、以前は徳川家康の配下にいました。

しかし、山家三方衆は、武田信玄の西上作戦により、徳川家康から離反しています。

奥平定能(おくひらさだよし)は、秘密にされた武田信玄の死を確信しました。

 

その後、徳川家康と連絡を取り、再び徳川家の配下となります。

奥平定能と嫡男・奥平貞昌(さだまさ)【のちに信昌】は、作手亀山城を退去し、徳川方に走ります。

奥平氏の家督を継いだ奥平貞昌は、徳川家康の命令で、対武田家の前線にあたる長篠城に入ります。

 

武田勝頼は1万5千の大軍を率いて、徳川方に寝返った奥平貞昌が守る長篠城を包囲します。

長篠城に籠城する奥平貞昌軍は500人と少数でしたが、200丁の鉄砲や大砲で反撃をします。

長篠城の立地は二つの川の合流地点にあり、断崖絶壁に建っています。

 

天然の要塞を持つ長篠城に、武田軍は攻めあぐねていました。

長篠城は武田軍の火の矢により兵糧庫が焼失し、このままでは落城する絶体絶命の状況に陥ります。

奥平貞昌は家臣の足軽・鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を援軍要請の使者に選びます。

鳥居強右衛門は、岡崎城にいる徳川家康のもと走りました。

鳥居右衛門の逸話は「甫庵(ほあん)信長記」や「三河物語」に記述があります。

 

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の物語~走れ、強右衛門~

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武田軍に囲まれている長篠城から、鳥居強右衛門は城の下水口から抜け出します。

鳥居強右衛門は川を泳ぎ渡り、武田軍の包囲を脱出します。

そして、岡崎城まで片道65キロある道程を走り抜けました。

必死の思いで岡崎城に着いた鳥居強右衛門は、徳川家康に援軍の派遣を要請します。

 

織田信長は、すでに徳川家康から要請を受けており、3万の援軍を率いて岡崎城に到着していました。

翌日には、織田・徳川軍が3万8千の軍勢を長篠に進軍する予定でした。

鳥居強右衛門は喜び、「この知らせを早く、味方に伝えたい」と、すぐに長篠城へ引き返します。

 

織田信長や徳川家康は、一人で戻るのは危険なので、援軍と共に明日出発せよと勧めます。

しかし、鳥居強右衛門は一刻でも早く仲間に知らせたいと、岡崎城を出発しました。

長篠と岡崎間は往復で130キロあり、鳥居右衛門は130キロの山道をわずか、一日余りで走り抜きました。

 

長篠に到着した鳥居強右衛門は、不運にも有海(あるみ)村で武田の兵に見つかり、捕まります。

武田勝頼は、鳥居右強衛門に尋問をした結果、織田徳川の援軍が来ることを知りました。

そこで武田勝頼は長篠城の士気を落とすため、「援軍は来ない」と嘘の報告を鳥居強右衛門にするように命令します。

 

武田勝頼は鳥居強右衛門に対して、「命令に従えば、命を助け、望めば武田家の家臣として優遇する」と条件を与えます。

鳥居強右衛門は、命令に従うことを武田勝頼に誓いました。

長篠城から見通しのきく場所に立たされた鳥居強右衛門は、長篠城に向かって叫びました・・・。

 

「あと、2,3日で援軍が来るから、それまで持ちこたえよ!!」

 

鳥居強右衛門は武田勝頼の命令に従うフリをして、全く逆のことを叫んだのでした。

激怒した武田勝頼は、その場で鳥居右衛門を磔(はりつけ)にし、槍で突き殺しました。

長篠城の城兵たちは、鳥居強右衛門の決死の覚悟を無駄にできないと、自らの士気を奮い立たせます。

 

奥平貞昌と城兵たちは、織田徳川の援軍が来るまでの二日間、武田軍の猛攻に耐え抜きました。

鳥居強右衛門の行動に感銘を受けた織田信長は、鳥居強右衛門を讃え、立派な墓を建立させました。

 

設楽原(したらがはら)の決戦

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織田・徳川軍の3万8千の軍勢は、長篠城近くの設楽原(したらがはら)に到着しました。

設楽原は起伏や小山が続く地形であり、織田信長は軍勢を敵から見えないよう、間隔をあけて布陣をしました。

さらに、三重の土塁に馬防柵をつくり、鉄砲隊を中心とした布陣に構え、武田騎馬隊を迎え撃つ準備をします。

 

この異例な戦術は、まさに戦国最強と言われた武田騎馬隊に、うってつけの戦術でした。

織田信長にとって長篠の戦いでの意義は、武田軍を長篠から撤退させることが目的であり、合戦に負けなければいいのです。

織田信長の鉄砲隊を中心とした戦い方は、理にかなっている戦術でした。

 

武田勝頼は3千の兵を長篠城に対峙させ、残りの1万2千の兵を設楽原に向けます。

武田軍には、武田信玄時代から活躍していた「武田四天王」と言われた武将たちがいました。

 

武田四天王

山県昌景(やまがたまさかげ)

馬場信春(ばばのぶはる)

内藤昌秀(ないとうまさひで)

高坂昌信(こうさかまさのぶ)【長篠の戦いには不参加】

 

この三人は、織田信長の出陣を知った時、武田勝頼に撤退を進言したと言います。

この時、武田の重臣たちは死を覚悟し、酒を飲みかわし、決別をしたと伝わります。

織田信長は武田軍が近くに布陣したのを見て、「天の与えた機会」と言い、勝利の確信を持ちました。

 

徳川四天王の一人・酒井忠次(さかいただつぐ)と織田家臣・金森長近(かなもりながちか)らの別働隊が動き出します。

別動隊は武田軍の正面を迂回し、長篠城を監視している鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦に奇襲を仕掛けました。

織田徳川連合軍は、別動隊の奇襲により、武田軍の4つの砦を陥落させることに成功します。

 

長篠城の奥平軍を加えた別動隊は、そのまま猛攻を仕掛け、武田本隊の背後を脅かすことになります。

鳶ヶ巣山攻防戦により、砦の指揮をとっていた武田信玄の弟・河窪信実(かわくぼのぶざね)や、名のある武将が討死しました。

別動隊は有海(ありみ)村の駐屯軍へも襲い掛かり、高坂昌信の息子・高坂昌澄(こうさかまさずみ)はこの戦いの末、討死しています。

 

「鉄砲の三段撃ち」は本当にあったのか?

その頃、中央の設楽原では、織田・徳川軍の本隊と武田軍が激突します。

「長篠の戦い」と言えば、当時の最新武器であった鉄砲3千丁を用意した織田信長。

鉄砲隊の三段撃ちの戦術を使用し、戦国最強と言われた武田騎馬隊を殲滅したことで有名です。

 

「鉄砲隊の三段撃ち」とは?

鉄砲隊を三列に並べ、一列目の鉄砲隊は発砲したのち、一番後ろに下がります。

二列目、三列目の鉄砲隊が発砲している間に、一列目の鉄砲隊が発砲の準備を完了させます。

この方法を使えば、連発できない火縄銃でも、時間をあけずに、連続して発砲ができる戦術です。

 

近年、「鉄砲の三段撃ち」の通説は、実際にはなかったのではないか、と疑問視されています。

一級資料である「信長公記」では、「鉄砲奉行5人に指揮をとらせた」とだけ書いてあり、具体的な戦術に関しては、記述がありません。

この様な画期的な戦術を使用したとしたら、筆者である太田牛一(おおたじゅういち)も特記するはずでしょう。

 

「長篠の三段撃ち」の記述は、信長公記をもとに小瀬甫庵(おぜほあん)が書いた「甫庵信長記」にだけ登場します。

「甫庵信長記「」は脚色の強い、軍記物に近い書籍として扱われています。

また、現実的な面でも、三度の一斉射撃は難しいとされています。

 

火縄銃において、皆がタイミングを一致させ、一斉射撃することは困難であると言われています。

しかし、織田信長が大量の鉄砲を使用し、武田軍を窮地に追い込んだことは「信長公記」にも書かれています。

「鉄砲の三段撃ち」が実際には無かったとしても、大量の鉄砲で集中的に射撃をすれば、大打撃を与えることは可能です。

 

なぜ武田軍は大敗したのか?

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「鉄砲の三段撃ち」が無かったとしたら、なぜ武田軍は大敗をしたのか?

鉄砲隊に突撃する戦い方は、当時は正攻法とされていました。

鉄砲は発砲準備に時間がかかるのが弱点であり、その間に突撃して敵を倒すことは通常の戦い方でした。

 

武田軍が大敗したことは、様々な議論がされています。

大量の鉄砲の轟音により、騎馬隊の馬がパニックに陥った説

大量の鉄砲の煙のため、戦場が見えにくくなり、鉄砲の的になった説

 

また、武田軍の陣形に問題があったのではないかとも議論されています。

武田軍は長篠の戦いにおいて、「翼包囲(よくほうい)の陣形」を展開していました。

 

翼包囲とは?

つばさのように左右に兵を広げて、隊列を組みます。

左右の側面から回り込むように隊を機動させ、中央部隊と協力して多方面から攻撃する陣形です。

 

翼包囲の陣形を展開した過去の合戦では、劣勢な兵力で優位な敵を破った例は、幾度となくありました。

しかし、「翼包囲の陣形」には弱点があります。

左右の両翼部隊が敵陣を突破する前に、中央部隊が崩れることがあると、左右の両翼部隊が取り残され、大打撃を受けることです。

 

武田軍の翼包囲での配置

左翼隊(戦死)

山県昌景(やまがたまさかげ)・内藤昌豊(ないとうまさとよ)・原昌胤(はらまさたね)

右翼隊(戦死)

馬場信春 (ばばのぶはる) ・土屋昌続(つちやまさつぐ)・真田信綱(さなだのぶつな)

中央部隊(生還)

武田信廉(たけだのぶかど)・穴山信君(あなやまのぶただ)

 

左翼と右翼には、武田四天王武田二十四武将と呼ばれた、武田家臣の歴戦の猛者たちが配置していました。

それに対して、中央部隊には武田勝頼の叔父にあたる武田信廉や、従兄弟の穴山信君などの親類衆が配置していました。

この中央部隊が最初に崩れ、退却したため、左右の部隊は中央との連携が取れなくなり、壊滅状態に陥ります。

 

戦死した多くの兵は、左右にいた部隊の武将でした。

対して、中央部隊には戦死者が少なく、武田信廉や穴山信君などは生還しています。

織田信長は武田軍の翼包囲に警戒し、左右に鉄砲隊を重視したとも言われています。

 

長篠の戦いは、織田・徳川軍の完全勝利に終わりました。

武田軍は1万以上の犠牲を出し、多くの優秀な家臣を失いました。

 

武田勝頼は数百人の旗本を連れて、長篠から撤退します。

途中、田峯城主の菅沼定忠に助けられ、武節城(ぶせつじょう)を経由し、信濃国に退却しました。

長篠の戦い決戦場跡(ながしののたたかいけっせんじょうあと)

住所:愛知県新城市八束穂1062

アクセス:JR飯田線「三河東郷駅」から徒歩約20分


長篠城跡(ながしのじょうあと)

住所:愛知県新城市長篠市場22ー1

アクセス:JR飯田線「長篠城駅」から徒歩約10分

 

越前一向一揆(えちぜんいっこういっき) 【越前国奪還戦】

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1574(天正2)年~1575(天正3)年にかけて、越前国(福井県)で「越前一向一揆(えちぜんいっこういっき)」が起こります。

 

1573(天正元)年、越前侵攻により朝倉義景を滅ぼした織田信長は、朝倉氏の旧臣の多くを配下にし、旧領地を安堵しました。

朝倉攻めの時、織田軍の案内役をつとめた桂田長俊(かつらだながとし)【前波吉継から改名】は、越前の守護代に任命されました。

桂田長俊が守護代になったことで、朝倉旧臣の富田長繁(とだながしげ)に不満が生じます。

 

富田長繁は、桂田長俊の暴政に不満をもった村の有力者たちと協力し、一揆を起こさせました。

一乗谷(いちじょうだに)城にいた桂田長俊は、一揆衆の猛攻により、討死します。

織田信長は、府中(ふちゅう)に三人の奉行を置いていましたが、富田長繁の攻撃により、越前国から追い出されました。

 

さらに富田長繁は、旧朝倉家臣の魚住景固(うおずみかげかた)を城に呼び出し、謀殺しました。

魚住景固は仁徳があり、領民から慕われていました。

魚住景固を理由もなしに殺害した富田長繁。

 

一揆衆は富田長繁に不信感を抱き、富田長繁のもとから離れていきます。

一揆衆の大将は、加賀一向一揆の指導者である本願寺の坊官・七里頼周(しちりよりちか)杉浦玄任(すぎうらげんにん)に変わります。

一揆衆の中には本願寺の門徒も多く、この時から土一揆から、一向一揆と変化していきました。

 

一向一揆衆と富田長繁による激しい戦いが起き、富田長繁は配下の裏切りによって殺害されます。

勢いに乗る一揆衆は、金津(かなつ)城・溝江(みぞえ)館を落城させ、溝江一族を自害に追い込みます。

さらに、亥山(いやま)城を攻撃し、平泉寺(へいせんじ)に立て籠った土橋信鏡(つちはしのぶあきら)【朝倉景鏡から改名】を討ち取りました。

 

織田城の織田景綱(おだかげつな)【朝倉景綱から改名】は、一揆衆に襲われ逃亡しました。

この戦いにより、越前国は本願寺領と変わります。

 

石山本願寺の顕如(けんにょ)により、下間頼照(しもつまらいしょう)が越前国に派遣され、新たな総大将となります。

しかし、一揆衆たちは、下間頼照や七里頼周たちの重税などの悪政に不満をもち、反乱を企てました。

 

織田信長、進軍開始

織田信長は長篠の戦いを終え、越前の内部崩壊をチャンスと見て、越前に軍勢を差し向けます。

1575(天正3)年、織田信長は岐阜を出発し、敦賀(つるが)城に入城します。

織田軍3万の軍勢は、大良から越前国に進軍し、海上からは織田水軍が一向一揆衆を攻撃します。

 

杉津(すいづ)口では、明智光秀、羽柴秀吉が、円強寺(えんこうじ)【円光寺】勢を撃破します。

織田軍は竜門寺に夜襲を仕掛け、一揆衆を府中に追い込みます。

府中に待ち構えていた羽柴秀吉と明智光秀により一揆衆は壊滅し、約2千人が討死しました。

 

この時、鉢伏(はちぶせ)城にいた杉浦玄任は討死。

阿波賀(あばがし)兄弟は降伏を求めましたが、織田信長は許さず、殺害されました。

織田軍は杉津城に攻撃を仕掛けると、堀江景忠(ほりえかげただ)が織田方に内通します。

 

堀江景忠の内通により、危険を感じた本願寺衆は逃亡します。

下間頼俊、下間頼照、七里頼周が逃亡したため、一向一揆衆は指導者を失い、崩壊しました。

織田信長は敦賀から、府中の竜門寺に本陣を移します。

 

下間頼俊、下間頼照、専修寺の住持らは、越前の山中に逃亡していました。

しかし、織田方に寝返った安居景健(あごかげたけ)に殺害されました。

本願寺の鳥羽(とば)城【鯖江市】は、柴田勝家・丹羽長秀・津田信澄の攻撃により、陥落します。

 

金森長近、原長頼は美濃口から大野郡に侵攻し、小城を陥落させ、一揆衆を討伐しました。

一揆衆は完全に崩壊し、山中に逃げ散ります。

織田信長は、「一揆衆を追撃し、山林を捜索し、男女の区別なく切り捨てよ」と軍勢に命じます。

 

この合戦により、一揆衆は1万2千以上の者が討ち取られ、3万から4万の者が奴隷として尾張や美濃に送られました。

こうして越前の一向一揆衆は、織田信長により全滅したのでした。

 

その後、織田信長は越前75万石を柴田勝家に与え、越前府中を前田利家、佐々成正、不破光治に与えました。

越前国を去る前、織田信長は「越前国掟九ヵ条」を出して、府中三人衆に遵守を求め、帰還しました。

 

越前市にある小丸城跡では、前田利家が一向一揆衆を弾圧した様子を記した文字瓦が発掘されました。

現在、この瓦は「万葉館」の資料館で見ることができます。

小丸城跡(こまるじょうあと)

住所:福井県越前市五分市町28

アクセス:JR北陸本線「武生駅」から車で約15分

 

天王寺(てんのうじ)の戦い 【石山本願寺と再戦】

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1576(天正4)年、摂津国(大阪府)天王寺で「天王寺(てんのうじ)の戦い」が起こります。

織田信長に追放された足利義昭は、毛利の庇護を受け、備後(びんご)国【広島県】の鞆(とも)に滞在していました。

毛利輝元(もうりてるもと)に御所を提供してもらい、鞍の御所があるということで、「鞆幕府」と呼ばれていました。

 

足利義昭は全国の大名に、織田信長追討の御内書を出し、再び、信長包囲網を築きあげようとします。

毛利輝元は、織田信長と敵対する石山本願寺に、兵糧などの援助を行います。

本願寺の門跡・顕如(けんにょ)は、再び門徒を集結させ、織田軍に対して挙兵しました。

 

本願寺の挙兵を聞いた織田信長は、軍勢を摂津方面に差し向けます。

佐久間信盛、塙直政、明智光秀、細川藤孝、筒井順慶、中川清秀、高山右近、荒木村重らが摂津に向かいました。

荒木村重は、海上から北の位置にある野田の3カ所に砦を築きます。

 

明智光秀・細川藤孝は、南東の守口(もりぐち)と森河内(もりかわうち)の2カ所に砦を築きます。

塙直政は、南にある天王寺に砦を築きます。

佐久間信盛・信栄、明智光秀は天王寺砦に入り、本願寺方の木津(きつ)砦と楼の岸(ろうのきし)砦と対峙しました。

 

織田軍は木津砦に攻撃を仕掛けますが、楼の岸砦にいた本願寺勢の1万の軍勢が織田軍を包囲します。

本願寺に味方している雑賀衆の鉄砲の攻撃に織田軍は襲われ、塙直政が討死しました。

さらに、先陣として戦っていた三好康長(みよしやすなが)は逃亡し、織田軍は崩れだします。

 

天王寺砦にいた明智光秀は、本願寺に包囲されたため、京都に滞在している織田信長に援軍を要請します。

京都を出た織田信長は、若江(わかえ)城に入ります。

織田信長は兵を集めますが、急な出陣要請により、なかなか兵が集まりません。

 

しかし、織田信長は強襲することを決意し、3千の兵で本願寺の1万5千の軍に突撃しました。

 

織田軍の編成

一番隊・・・佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝、他。

二番隊・・・に滝川一益、蜂屋頼隆、羽柴秀吉、丹羽長秀、他。

三番隊・・・織田信長の馬回り。

 

本願寺勢は鉄砲で応戦しますが、織田軍の猛攻により、軍は崩れ出します。

織田軍は天王寺砦の守備隊と合流しますが、このとき、織田信長は鉄砲により足に軽傷を負いました。

本願寺勢は陣形を立て直し、織田軍と再び、応戦します。

 

織田信長は、再び本願寺勢に突撃を仕掛けようとします。

織田信長の家臣たちは、「味方の数が少ないため、一旦、戦いはやめましょう」と進言します。

しかし、織田信長は「天が与えた好機」と言い、陣形を二段に構え、再び攻撃を開始します。

 

織田軍は本願寺勢を崩し、木戸口まで追い詰めて、2千7百の首を取ったと言います。

こうして、天王寺の戦いは、織田信長軍の勝利に終わりました。

天王寺砦跡(てんのうじとりであと)【月江寺】

住所:大阪府大阪市天王寺区生玉寺町3−13

アクセス:大坂メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」から徒歩約5分

 

木津川口(きづがわぐち)の戦い 【毛利水軍撃退戦】

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第一次木津川口の戦い

1576(天正4)年、摂津国(大阪)木津川で「第一次木津川口(きづがわぐち)の戦い」が起こります。

天王寺の戦いから数か月後、石山本願寺の援助要請を受けた毛利軍は、大阪湾木津川河口で織田水軍と激突します。

毛利軍の毛利水軍、小早川(こばやかわ)水軍、村上(むらかみ)水軍と、織田方の真鍋(まなべ)水軍が対峙しました。

 

毛利水軍は焙烙火矢(ほうろくひや)や焙烙玉を使い、織田方の水軍に攻撃をします。

焙烙玉とは、陶器に火薬を入れ、導火線に火をつけ、敵方に投げ込む手りゅう弾のようなものです。

 

織田方の水軍は、真鍋貞友(まなべさだとも)などが討死し、壊滅的なダメージを受けました。

毛利軍は、石山本願寺への兵糧や物資の搬入に成功しました。

 

第二次木津川口の戦い

1578年(天正6)年、摂津国(大阪)木津川口で「第二次木津川口(きづがわぐち)の戦い」が起こります。

第一次木津川口の戦いから二年後、再び、毛利水軍と織田水軍は衝突します。

この水軍の戦いでは、安宅船(あたけぶね)での戦闘が行われました。

 

安宅船(あたけぶね)

普通の軍船より船体が巨大で、重圧な武装をしている船。

船体には、百数十人の戦闘員を乗せることができた。

大きいものでは、長さ50m以上あり、幅は10m以上ある。

 

安宅船の由来

安宅の由来は、戦国時代の淡路近辺を拠点とした安宅氏からきている説。

北陸の地名、安宅と関係がある説。

陸奥の阿武隈川の古地名である阿武と関係がある説。

 

織田信長は第一次木津川口の戦いで、毛利軍に敗れたあと、九鬼水軍を率いる九鬼嘉隆(くきよしたか)に鉄甲船6隻を造るように命じました。

この鉄甲船は、興福寺多聞院(こうふくじたもんいん)の英俊(えいしゅん)の「多聞院日記」に伝わります。

縦の長さが22メートルあり、横の長さは12メートルあったと言い、当時の船としては、規格外の大きさでした。

 

また、大筒や鉄砲を装備し、焙烙玉や火矢が効かない鉄で造られており、防御面でも優れていました。

1578年(天正6)年、九鬼嘉隆は6隻の鉄甲船を率い、滝川一益の大船1隻と共に、熊野浦を出発し、大阪湾へ向かいます。

 

途中で雑賀・淡輪(たんのわ)の水軍と戦いますが、これを撃退します。

大阪湾に到着した九鬼嘉隆は、大阪湾を封鎖し、織田信長に船を検分されています。

 

一か月後、毛利の水軍は、現在の木津川運河あたりに姿を現しました。

九鬼軍と毛利の村上水軍は、海上で激突します。

九鬼軍の鉄甲船は毛利軍をひきつけ、大将が乗船している船に大砲を打ち込み、これを撃沈させます。

 

毛利水軍は九鬼軍に容易に近づくことができません。

九鬼嘉隆は、数百隻の船を木津の河口へ追い込み、大砲で撃破しました。

第二次の木津川口の戦いは、織田軍の勝利に終わりました。

 

その後、鉄甲船はどこに行ったのかは、不明のままです。

本能寺の変の後、大阪湾に放棄されたまま、朽ち果てたという説や解体されて、小さな船にされた説などがあります。

木津川運河(きづかわうんが)

住所:大阪府大阪市大正区

アクセス:大坂メトロ四ツ橋線「北加賀屋駅」から車で約10分

 

おわりに・・・

織田信長は各地を転戦し、敵対勢力と戦い続けます。

長篠の戦いでは、武田軍に大打撃を与え、武田勝頼は多くの優秀な武将を失いました。

毛利の領地で再起を図る足利義昭は、再び、信長包囲網の構築に動きます。

 

そんな中、織田信長は着実に領地拡大に向け、各地で行動を起こします。

越前国を守る柴田勝家には、上杉謙信の抑えとして配置しました。

丹波国の攻略には、明智光秀を向かわせ、中国地方には羽柴秀吉を進軍させます。

 

しかし、松永久秀や荒木村重の謀反や、宿敵である石山本願寺との再戦など、反信長勢力の動きも活発になります。

織田信長の次なる目的は、石山本願寺を攻略するため、石山本願寺に味方する雑賀(さいか)衆を殲滅することでした。

織田信長は、大軍を率いて紀伊国に進軍するのでした・・・。

 

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