戦国時代

明智光秀ゆかりの地【お城】

明智光秀の青年期は、出生と同様に不明な点が多いです。

明智光秀の主君は、次々と移り変わりました。

 

美濃国・斉藤道三(さいとうどうさん)

越前国・朝倉義景(あさくらよしかげ)

室町将軍・足利義昭(あしかがよしあき)

尾張国・織田信長(おだのぶなが)

 

明智城を失った明智光秀は、美濃国を出て、越前国に落ち延びます。

越前国に着いた明智光秀は、称念寺(しょうねんじ)の門前に、妻子と共に住んでいたと言います。

明智光秀の子、細川ガラシャもこの地で誕生しました。

 

越前国主・朝倉義景のもとで、10年間ほど仕えていました。

次期将軍を目指す足利義昭は、各所に援助を求め、朝倉義景を頼ります。

このとき、明智光秀は、越前に来た足利義昭と接触します。

 

足利義昭の家臣になった明智光秀は、朝倉義景が上洛のする気配がないため、織田信長を推挙します。

足利義昭は明智光秀を通して、織田信長に上洛の要請をしました。

その後、明智光秀は、足利義昭と織田信長の両属の家臣となり、上洛戦に加わります。

 

やがて、織田信長は、近江国の浅井長政(あざいながまさ)や、越前国の朝倉義景と対立します。

織田軍として明智光秀は、金ヶ崎(かねがさき)の戦い、姉川(あねがわ)の戦いに参戦していました。

織田信長は、三好三人衆と石山本願寺を相手に「野田・福島(のだ・ふくしま)の戦い」を起こします。

 

明智光秀も織田軍の一人として、この戦いに参戦していました・・・。

今回は、明智光秀ゆかりのお城を紹介します。

 

宇佐山(うさやま)城 滋賀県大津市

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滋賀県大津市に、宇佐山(うさやま)城跡があります。

1570(元亀元)年、浅井・朝倉軍の南下に備えるため、宇佐山城は築城されました。

宇佐山城は、織田信長の命により、家臣の森可成(もりよしなり)が築城しました。

 

摂津(せっつ)国【大阪府】で「野田・福島の戦い」が起こります。

織田信長は、反抗する三好三人衆と石山本願寺(いしやまほんがんじ)と交戦中でした。

浅井長政と朝倉義景は、織田信長の背後を突くため、京都にむけて進軍を開始します。

 

さらに、石山本願寺の顕如(けんにょ)の要請で、比叡山延暦寺の僧兵たちも、織田信長に反旗を翻します。

浅井・朝倉連合軍の進軍に備え、宇佐山城主の森可成は、近江の坂本に進軍します。

両軍は、坂本の地で激突しました。

 

この戦いが、「宇佐山城の戦い」と呼ばれています。

この戦いで、織田方の三人の武将が戦死しました。

 

槍の名手で、織田信長から絶大な信頼があった、森可成(もりよしなり)

織田信長の弟、織田信治(おだのぶはる)

蒲生定秀の次男である、青地茂綱(あおきしげつな)

 

滋賀県大津市に、聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)があります。

現在、聖衆来迎寺には、森可成がのお墓があります。

 

織田軍が近江に駆けつけると、浅井・朝倉連合軍は、比叡山に兵を引きます。

このとき、明智光秀は、佐久間信盛(さくまのぶもり)と共に、比叡山を包囲しています。

織田信長は、戦死した森可成の代わりに、明智光秀を宇佐山城の城主に任命しました。

 

家臣を失った織田信長の怒りは、比叡山延暦寺に向けられました。

織田信長は、比叡山延暦寺を焼き討ちすることを決めます。

宇佐山城にいる明智光秀は、比叡山延暦寺の焼き討ちの準備を開始します。

 

比叡山延暦寺の焼き討ちにおいて、明智光秀は実行部隊の中心として活躍します。

武功を挙げた明智光秀は、織田信長から坂本の地を与えられ、坂本城を築城しました。

明智光秀が坂本城に移ったことで、宇佐山城は廃城になりました。

宇佐山城跡(うさやまじょうあと)

住所:滋賀県大津市南滋賀町

アクセス:JR湖西線・大津京駅から宇佐八幡宮まで徒歩10分

 

坂本(さかもと)城 滋賀県大津市

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滋賀県大津市に、坂本(さかもと)城跡はあります。

明智光秀は比叡山焼き討ちの功績により、織田信長から近江滋賀郡が与えられました。

1572(元亀2)年、明智光秀は、坂本城を築城します。

坂本城の役割は、京都と比叡山の抑えや、琵琶湖の制海権の獲得にありました。

 

坂本の地は、近江(おうみ)国【滋賀県】と山城(やましろ)国【京都府】の交通路として重要な場所でした。

比叡山の物資を輸送する港町として、多くの物資や人が訪れ、繁栄していました。

現在、坂本城の二の丸跡には、石碑が建っています。

 

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坂本城址公園には、明智光秀の銅像が建っています。

坂本城址公園から、車で5分程のところに、聖衆来迎寺があります。

聖衆来迎寺の表門は、明智時代の坂本城の門を移築したと言われています。

 

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坂本城は、城郭が湖水に接していた水城でした。

また、安土城まで琵琶湖を渡り、船で移動ができたと言われています。

大天守と小天守で構成される高層の天守閣が存在していました。

 

宣教師・ルイスフロイスは、坂本城を見て、「安土城に次ぐ、天下第二の城」と称賛しています。

明智光秀は坂本城を拠点に、近江国の平定を目指します。

坂本城は、反信長勢力の軍事施設として活躍しました。

 

のちに、山崎の戦で敗戦した明智光秀は、坂本城を目指す途中に討死しています。

1586(天正14)年、浅野長政(あさのながまさ)が大津(おおつ)城を築城します。

 

このときに、坂本城の資材は大津城に使用され、廃城になりました。

現在、坂本城の本丸跡には石碑があり、跡地には株式会社・キーエンスの研修所が建っています。

坂本城・二の丸跡(さかもとじょう・にのまるあと)

住所:滋賀県大津市下阪本3-8-4

アクセス:京阪松ノ馬場駅から徒歩13分


坂本城址公園(さかもとじょうしこうえん)

住所:滋賀県大津市下阪本3-1

アクセス:京阪松ノ馬場駅から徒歩16分


坂本城本丸跡(さかもとじょうほんまるあと)

住所:滋賀県大津市下阪本3-2

アクセス-:京阪松ノ馬場駅から徒歩14分

 

丹波亀山(たんばかめやま)城 京都府亀岡市

京都府亀岡(かめおか)市に、丹波亀山(たんばかめやま)城跡があります。

1578(天正6)年、丹波亀山城は、丹波攻略を目指す明智光秀によって築城されました。

1575(天正3)年、明智光秀は織田信長の命により、丹波国に侵攻します。

 

丹波亀山城は、丹波攻略の重要な拠点としての役割を持っていました。

丹波亀山城は、他の丹波の城とは違い、三層の天守があり、総構えが掘られています。

明智光秀は、丹波一国の拠点となる城づくりを行っていました。

 

丹波平定後、丹波亀山城は、丹波経営の拠点として活躍しました。

本能の変の際、明智光秀は、丹波亀山城から本能寺を目指すことになります。

その後、藤堂高虎(とうどうたかとら)により、大修築が行われ、五重の層の天守が造られました。

 

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丹波亀山城のすぐ側にある南郷公園には、明智光秀の銅像があります。

2019年5月、「第47回亀岡光秀まつり」の中で明智光秀像の除幕式が行われました。

現在、丹波亀山城跡は、宗教法人大本の管理下にあり、見学をするには受付が必要になります。

丹波亀山城跡(たんばかめやまじょうあと)

住所:京都府亀岡市荒塚町内丸1

アクセス:JR嵯峨野線亀岡駅から徒歩で5分

 

金山(きんざん)城 兵庫県丹波市

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金山城は1579(天正7)年に、明智光秀により築城されました。

明智光秀は、丹波制圧の際、波多野秀治の裏切りにより、退却を余儀なくされます。

 

篠山の波多野秀治(はたのひではる)の居城である八上(やかみ)城。

丹波の赤井直正(あかいなおまさ)の居城である黒井(くろい)城。

明智光秀が金山城を築城した目的は、この2つの城の連携を断つ為でした。

 

明智光秀の分断作戦により、6月には八上城、8月には黒井城が落城します。

 

1582(天正10)年に、金山城は戦略的に役目を終えた為、廃城となりました。

現在、頂上の城跡からは、八上城と黒井城の跡が見渡せます。

金山城跡(きんざんじょうあと)

住所:兵庫県丹波市柏原町上小倉

アクセス:JR柏原駅から車で10分

 

福知山(ふくちやま)城 京都府福知山市

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福知山城は以前、横山城という呼び名でした。

横山城の城主は、福知山地方の国人、塩見信房(しおみのぶふさ)でした。

1579(天正7)年、横山城の戦いで、明智光秀は塩見信房を撃破し、横山城を福知山城と改名しました。

 

その後、明智光秀はお城を修築し、光秀の女婿である、明智秀満(あけちひでみつ)を城主とします。

やがて、本能寺の変、山崎の戦いが起き、明智氏は滅び、在城はわずか3年間だけでした。

 

関ヶ原の戦いの後、有馬豊氏が入城し、現在のような城郭や城下町が造られました。

昭和61年には、三層四階の天守閣が復元されました。

 

御霊(ごりょうじんじゃ)神社 京都府福知山市

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また、福知山城の近くに、御霊神社(ごりょうじんじゃ)があります。

 

御霊神社は福知山の領主として、善政を行った明智光秀を祀る神社です。

明智光秀は、川の氾濫を防ぐため、堤防を築き、城下町の建設により、町の発展に貢献しました。

 

また、この神社には、「明智光秀家中軍法」や直筆の書状が収められています。

福知山城(ふくちやまじょう)

住所:京都府福知山市字内記5番地

アクセス:JR福知山駅から徒歩で15分


御霊神社(ごりょうじんじゃ)

住所:京都府福知山市字中ノ238

アクセス:JR福知山駅から徒歩で10分

 

周山(しゅうざん)城 京都府京都市

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周山城は、1580(天正8)年に、明智光秀によって築城されました。

この一帯は、禁裏領=皇室の土地であり、山国の荘(やまぐにのしょう)と呼ばれていました。

 

しかし、宇津城主・宇津頼重(うつよりしげ)によって、支配されていました。

明智光秀により、宇津頼重は、宇津城を攻略され、城を開城して、逃亡しました。

その後、朝廷により、山国の荘は返還され、明智光秀は朝廷から、恩賞を貰っています。

 

明智光秀は、この地を押さえるために、周山城を築きました。

城主には、従父弟・明智光忠(あけちみつただ)が入ったとされています。

周山城は、京都から若狭(福井県)に繋がる街道を抑える要所として、重要な拠点でした。

明智光秀は、茶人の津田宗及(つだそうぎゅう)を招き、この周山城でお月見をしたと伝えられます。

 

明智滅亡と共に周山城は、廃城となりました。

現在では、観光地化は進んでおらず、当時の遺構のみが残っています。

周山城(しゅうざんじょう)

住所:京都府京都市右京区京北周山町

アクセス:京都駅からJRバスに乗り約80分、「周山」バス停で下車

 

明智光秀の丹波攻略

明智光秀の丹波攻略の流れを確認しましょう。

 

1575(天正3)年、明智光秀は織田信長の命により、丹波の攻略を開始します。

丹波国の特徴は山続きであり、その間に土着の武士が割拠しており、その国を治めるには非常に難しい地域でした。

さらに、丹波の武士達は足利義昭(あしかがよしあき)派でした。

以前は織田信長に従っていましたが、義昭追放により、再び織田信長の敵になっていました。

 

明智光秀の前に、丹波の黒井城主・赤井直正(あかいなおまさ)が立ちはだかります。

赤井直正は、丹波で最大級の勢力を持っていました。

しかも、「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」に「名高キ武士」として、徳川家康、長宗我部元親と共に、紹介されているほどの人物でした。

 

明智光秀は、赤井直正の居城である黒井城を包囲する。

しかし、味方であった、八上(やかみ)城主・波多野秀治が裏切り、明智軍を攻撃する。

明智光秀は、四方から囲まれ、挟み撃ちにあい、坂本城まで一旦退却することになる。

 

この戦いで、織田軍を破ったことで、赤井直正は「丹波の赤鬼」と全国に名を広めます。

 

その後、明智光秀は、石山本願寺攻め、紀州討伐、加賀攻め、信貴山城の戦いなど、休む暇なく戦いに参戦しています。

織田信長は、明智光秀の優れた能力を買って、様々な戦いに出向くように命じます。

 

1577年(天正5)年、再び、明智光秀は丹波攻略に取り掛かかる。

籾井(もみい)城、亀山城を落城させ、亀山城を修築し、亀山城を丹波攻略の拠点とする。

1578(天正6)年、織田信長は、細川藤孝・忠興親子、羽柴秀長、明智秀満の援軍を送り、八上城を包囲する。

 

この時、黒井城主・赤井直正が病死します。

赤井直正の死は、丹波の国人衆たちに影響を与え、八上城を包囲する織田軍に、味方する者が続々と出てきます。

 

明智光秀はこの間にも、違う戦いに参戦しています。

織田信長の家臣・荒木村重(あらきむらしげ)が謀反を起こした、有岡城の戦い

豊臣秀吉が攻めている三木城主・別所長治の三木合戦

明智光秀は、ここでもまた、織田信長の命により、休むことなく、戦に駆り出されています。

 

1579(天正7)年、八上城と黒井城を分断するために、金山城を築城する。

6月には八上城を落城させ、援軍がなくなり、孤立した黒井城は8月に落城した。

同年、横山城の戦いで、塩見信房を撃破し、横山城も落城した。

 

これにより、明智光秀によって、丹波の地は平定されました。

明智光秀はこの功績により、織田信長から丹波の地を与えらることになります。

 

織田信長はこの時、明智光秀の功績を褒めています。

佐久間盛政(さくまもりまさ)の折檻状で、「丹波の国での光秀の働きは天下の面目を施した」と明智光秀を絶賛しました。

 

おわりに・・・

明智光秀は丹波国の攻略によって、全国の大名たちに、名が知れ渡ります。

 

織田信長から、丹波の一国を与えられてた明智光秀は、約240万石の大軍を持つことになります。

丹後国の細川藤孝(ほそかわふじたか)、大和国の筒井順慶(つついじゅんけい)などの有力大名が、明智光秀の寄騎として配属されます。

 

明智光秀が家法として定めた「明智家法」のあとがきには、織田信長への感謝の気持ちが記されています。

「子孫に至るまで、信長様へのご奉公を忘れてはならない」

また、織田信長も数々の戦場で、期待に応えてくれる明智光秀を、褒め称えていました。

 

この時期、明智光秀は丹波の攻略をしながら、他の合戦にも遊撃軍として呼ばれ、相当な働きをしました。

戦国武将として優秀がゆえに明智光秀は、織田信長に使い回されたのは否めません・・・。

 

織田信長に期待されていた働きができなく、追放された家臣もいました。

織田信長に恐れて、謀反を起こした家臣もいました。

 

明智光秀の心境はどのようなものだったのでしょうか・・・。

 

この数年後、明智光秀が起こした行動により、戦国時代最大の事件が起こります・・・。

 

それはまた次のお話で・・・。

 

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