戦国時代

【終焉・本能寺の変】織田信長ゆかりの地【戦い⑧】

荒木村重や別所長治など、反乱分子を鎮圧した織田信長。

中国地方での毛利氏との戦いは、織田家の家臣で出世頭の羽柴秀吉に任せます。

織田信長は、長篠の戦いで撃破した武田勝頼がいる甲斐(かい)国を目標に定めます。

 

武田信玄が亡くなり、長篠の地で優秀な家臣を失った武田家。

武田勝頼は武田家を立て直すため、上杉氏や北条氏と外交をしていました。

領地拡大を目指す武田勝頼は、織田方の徳川氏との間で、領地争いを繰り広げます。

 

織田信長は徳川家康と共に、大軍を率いて、甲斐国に進軍します。

勢いに乗る織田信長のもとで、一人の武将が動き出します。

その武将とは、織田信長に最も信頼されていた男・・・、明智光秀でした。

 

織田信長は少数の供回りと共に、京の本能寺に宿泊します。

織田信長の行動を把握していた明智光秀は、ついに覚悟を決めます・・・。

 

織田信長の最期のときが、迫っていました・・・・。

 

甲州征伐(こうしゅうせいばつ) 【武田家滅亡戦】

1582(天正10)年、甲斐(かい)国【山梨県)で「甲州征伐(こうしゅうせいばつ)」が起こります。

1575(天正3)年、甲斐国の武田勝頼は、長篠の戦いにおいて、織田・徳川軍に大敗しました。

武田勝頼は、武田信玄時代から仕えていた多くの重臣を失いました。

 

その後、武田勝頼は甲斐国で、体制を立て直します。

武田家の領土拡大を目指し、織田・徳川軍と再び、衝突することになるのでした・・・。

 

岩村城(いわむらじょう)の戦い

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長年に渡り織田軍と武田軍が、抗争を繰り広げた美濃(みの)国にある岩村(いわむら)城

1575(天正3)年、織田信長は嫡男・織田信忠(のぶただ)を岩村城に進軍させます。

織田信忠は、武田家臣・秋山虎繁(あきやまとらしげ)が守る岩村城を包囲しました。

 

信長方の軍勢を各方面に配置し、岩村城の補給路を断ち、岩村城の城内は飢餓状態になります。

追い込まれた武田方と遠山方は、城から出陣し、水晶山の織田軍の陣地に攻撃をしました。

しかし、川尻秀隆(かわじりひでたか)らに反撃され、大将級の21名と千人の兵を失います。

 

大損失を受けた秋山虎繁は、降伏の使者を立て、織田信長に降伏します。

降伏した秋山虎繁らは、織田信長のもとに参礼に行ったところ、捕らえられました。

その後、岐阜に連行され、長良川に磔(はりつけ)にされた後、処刑されました。

 

また、秋山虎繁と共に岩村城を奪った、織田信長の叔母・おつやの方も捕縛されます。

おつやの方は、長良川の河原で逆さ磔にされ、処刑されました。

 

岩村城に立て籠っていた遠山氏一族の郎党は、討死や自刃をし、残党は全て焼き殺されました。

織田信長は長年抗争した岩村城を、ついに奪還しました。

岩村城跡(いわむらじょうあと)

住所:岐阜県恵那市岩村町字城山

アクセス:明知鉄道「岩村駅」から徒歩約20分

 

第二次高天神(たかてんじんじょう)城の戦い

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長篠の戦いにより、武田軍が甲斐国に帰還すると、徳川家康は領土奪還に動きます。

徳川家康は、遠江(とおとうみ)国の諏訪原(すわはら)城を攻撃し、陥落させました。

さらに、高天神(たかてんじん)城の補給路の要である小山(こやま)城に進軍します。

 

小山城の城番・岡部元信(おかべもとのぶ)らの防戦により、小山城は落城を逃れます。

徳川軍と武田軍の間で、高天神(たかてんじん)城の補給路を巡る争いが勃発しました。

武田軍は相良(さがら)城、徳川軍は横須賀(よこすか)城を築城するなど、お互いを牽制します。

 

1580(天正8)年、徳川家康は、「高天神六砦」を築き、高天神城の包囲に成功しました。

これにより、高天神城への兵糧や弾薬の補給は遮断され、徳川家康の兵糧攻めが始まります。

高天神城の城主となっていた岡部元信らは、甲斐の武田勝頼のもとに、救援要請の書状を送ります。

 

しかし、武田勝頼からの援軍は、いくら待てど、来ませんでした・・・。

なぜ、武田勝頼は援軍を送らなかったのでしょうか。

 

高天神城に援軍を送らなかった理由

「信長公記」によると、長篠で大敗した武田勝頼は織田信長の武力を恐れ、援軍を送らなかったと記述がある。

武田勝頼は越後の上杉景勝と甲越同盟を組んだことで、北条氏と対立し、北条氏政の攻撃を受けていた。

武田家の人質である織田信長の五男・信房(のぶふさ)を織田方に返還しています。

武田勝頼は、織田信房を介して信長と和睦をしようとした為、和睦交渉に影響することを懸念し、援軍を送らなかった。

「甲陽軍鑑」によると、武田勝頼は高天神城に援軍を派遣しようとしていた。

しかし、織田信長を恐れた武田信豊(のぶとよ)と跡部勝資(あとべかつすけ)が反対したと記述がある。

岡部元信と共に高天神城を守っていた横田尹松(よこたただとし)は、密かに武田勝頼に書状を送っていた。

「兵力の温存のために、高天神城は捨てるべき」といった内容であり、このため、援軍を出さなかったと言われている。

 

徳川軍の兵糧攻めにより、高天神城の城内では餓死者が続出します。

窮地に追い込まれた岡部元信は、城兵を引き連れ、城から出陣し、徳川軍に突撃を決行しました。

徳川軍はこれに応戦し、その隙に城内に突入し、高天神城を陥落させました。

 

岡部元信率いる武田軍は討死し、名のある捕虜は処刑されました。

織田信長はこの籠城戦に関して、「籠城する武田軍の降伏を、拒否するように」という書状を徳川家康に送っています。

福富秀勝(ふくとみひでかつ)らの側近を、徳川家康の陣に派遣し、陣所の視察までさせていました。

 

武田勝頼が高天神城を見殺しにすることで、武田氏の威信を落とさせる策略であったと言われます。

この戦いの結果、武田方の武将たちは、武田勝頼に対しての不信感が強まりました。

高天神城跡(たかてんじんじょうあと)

住所:静岡県掛川市上土方嶺向

アクセス:JR東海道本線「掛川駅」からバス「土方」下車、徒歩約15分

 

木曽義昌(きそよしまさ)の離反

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甲斐国では、武田勝頼が新府(しんぷ)城の築城にともない、年貢や賦役(ぶえき)を増大します。

また、高天神城に援軍を送らなかったことに対して、武田家に不信感を抱く者が続出しました。

信濃(しなの)国・木曽(きそ)谷の当主である木曾義昌(きそよしまさ)は、武田勝頼から離反することを決意します。

 

木曾義昌の離反をきっかけに、織田信長は本格的に武田討伐を決行します。

激怒した武田勝頼は、木曾義昌の討伐軍を編成し、武田信豊(のぶとよ)を進軍させました。

武田軍の進軍を知ると、織田信長は嫡男・信忠を出陣させ、伊那(いな)から進軍を開始します。

 

家臣の金森長近(かなもりながちか)は飛騨方面から進軍し、徳川家康は駿河方面から進軍しました。

織田軍の先鋒隊が信濃国に進軍すると、滝沢の領主・下条信氏(しもじょうのぶうじ)の家老・下条氏長(うじなが)が織田軍に寝返ります。

また、松尾(まつお)城主・小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)も、織田軍に寝返りました。

 

織田信忠と滝川一益は、鳥居峠で武田信豊軍と激突し、この戦いに勝利しています。

本隊の織田信忠軍は、飯田(いいだ)まで進軍しました。

すると、飯田城主・保科正直(ほしなまさなお)や、大島城主・武田信廉(たけだのぶかど)は、城を捨てて逃亡しました。

 

一方、徳川家康は、駿河(するが)国の田中(たなか)城を包囲し、駿府城まで進出しました。

武田軍の寝返りや、逃亡などが相次いつぎ、織田軍はほとんど戦わずして、南信濃を支配しました。

木曽義昌公史跡公園(きそよしまさこうしせきこうえん)

住所:千葉県旭市イ2808

アクセス:JR総武本線「旭駅」から徒歩約15分

 

高遠(たかとお)城の戦い

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織田信長は、信濃国伊那郡にある高遠(たかとお)城の攻略を、織田信忠に命じました。

織田信忠は5万の軍勢で、高遠城を包囲します。

高遠城を守っていたのは、武田信玄の五男・仁科盛信(にしなもりのぶ)でした。

 

武田方の副将として小山田昌成(おやまだまさゆき)、小山田大学助(おやまだだいがくのすけ)兄弟が入城しています。

仁科盛信率いる武田軍は、3千の軍勢で高遠城に籠城し、織田軍を迎え撃ちます。

圧倒的な戦力の差があり、織田信忠は高遠城に使者を送り、降伏を勧めました。

 

しかし、大将の仁科盛信は、降伏の要求を拒否し、死者の耳と鼻を削ぎ取り、追い返したと言います。

織田軍は総攻撃を決行し、猛攻撃を加え、高遠城を落城させました。

武田軍は織田信家(おだのぶいえ)を討ち取るなどの奮闘を見せます。

 

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しかし、ついに力尽き、仁科盛信は自刃し、小山田兄弟も討死しました。

織田信長は安土城を出発し、揖斐(いび)川に着いていました。

そこで、織田信忠から仁科盛信の首が届き、長良川の河原に晒しました。

 

武田方の逃亡や寝返りが相次ぐ中、仁科盛信は武田家臣として、最後まで立派に戦ったのでした。

仁科盛信の遺体は、領民により手厚く埋葬され、現在も「五郎(ごろう)山」に眠っています。

 

このとき、武田勝頼の軍勢は諏訪から新府城に撤退していました。

後を追う織田信忠は、本陣を諏訪に進め、諏訪大社を焼き討ちしています。

高遠城跡(たかとおじょうあと)

住所:長野県伊那市高遠町東高遠

アクセス:JR飯田線「伊那市駅」からバス「高遠駅」下車、徒歩約15分)


仁科盛信の墓(にしなもりのぶのはか)

住所:長野県伊那市高遠町勝間

アクセス:JR飯田線「伊那市駅」から車で約30分

 

武田家滅亡へ・・・

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この頃、武田氏一族である穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、徳川家康に内通をしていました。

領地安堵と名跡の継承を条件に、徳川家康の誘いに乗り、織田方に寝返りました。

徳川家康は穴山梅雪を案内役とし、甲斐国に進軍を開始します。

 

織田信忠は甲府に進軍し、武田家一門や親類、重臣を探し出し、捕縛をしました。

このとき、武田一門の武田信友(のぶとも)・武田信廉(のぶかど)、諏訪頼豊(すわよりとよ)らが処刑されました。

追い込まれた武田勝頼は、新府(しんぷ)城を放棄します。

 

「甲陽軍鑑」によると、武田勝頼の嫡男・信勝(のぶかつ)は、新府城での籠城戦を主張したと言います。

また、信濃の国衆・真田昌幸(さなだまさゆき)は、上野(こうずけ)国の岩櫃(いわびつ)城への撤退を提案したと伝わります。

武田勝頼は重臣・小山田信茂(おやまだのぶしげ)を頼ることを決めました。

 

郡内(ぐんない)にある小山田信茂の居城・岩殿(いわどの)城に向かいます。

しかし、武田勝頼が郡内領に向かう途中、突如として小山田信茂が武田軍から離反をしました。

武田勝頼を裏切った小山田信茂は、織田方に投降することを決意します。

 

「甲陽軍鑑」によると、武田勝頼は小山田信茂の迎えを、鶴瀬(つるせ)で7日間待ったと言います。

このとき、小山田信茂は郡内の入り口を封鎖し、武田勝頼めがけて鉄砲を撃ち、襲撃をしました。

窮地に追い込まれた武田勝頼は、天目山(てんもくざん)を目指して逃亡します。

 

天目山の麓の田野(たの)の地で、織田軍の滝川一益(たきがわかずます)隊と戦闘になりました。

武田勝頼の家臣・小宮山友晴(こみやまともはる)、阿部勝宝(あべかつよし)らは、決死の奮闘を見せます。

なかでも、土屋昌恒(つちやまさつね)の戦いぶりは、後世に語り継がれています。

 

土屋昌恒の「片手千人斬り」

武田勝頼が自害を決意し、そのための時間を稼ぐため、土屋昌恒は奮闘をします。

狭いがけ道で織田軍と戦闘になり、転落しないように木のつるを掴みながら、片手で戦い続けました。

このことから、のちに「片手千人斬りの伝説」が語り継がれます。

 

日川(ひかわ)に落とされた兵士の血によって、日川は3日間赤く染まったと言います。

このため、領民はのちに、この川のことを「三日血川」と呼びました。

織田信長は戦後、「比類なき働きを残した」と土屋昌恒を賞賛しています。

 

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武田の家臣たちは、必死に戦いましたが、織田軍により討ち取られます。

ついに武田勝頼は、嫡男・信勝と妻・桂林院殿(けいりんいんでん)と共に、自害を果たしました。

 

織田信長は、武田勝頼が自害をしたとき、美濃の岩村城にいました。

織田信長が浪合(なみあい)【伊那郡阿智村】に進軍中、武田勝頼と武田信勝の首が届きました。

「三河物語」では、織田信長が武田頼勝の首を見た時、「日本に隠れなき弓取り」と評したと言います。

 

武田勝頼以外の、武田信玄の息子たちにも、悲劇が待っていました。

次男・海野信親(うんののぶちか)【武田竜芳】

息子を逃がした後、甲斐の入明寺(にゅうみょうじ)にて自害。

六男・葛山信貞(かつらやまのぶさだ)

甲斐善光寺(かいぜんこうじ)にて自害。

七男・武田信清(たけだのぶきよ)

越後の上杉氏に逃亡、のちの米沢武田家。

 

武田勝頼を土壇場で裏切った小山田信茂は、織田信忠に投降します。

しかし、織田信忠に「主家を裏切る不忠者」と罵られ、甲斐善光寺にて処刑されました。

こうして、織田信長により、戦国大名としての武田家は、滅亡することになりました・・・。

武田勝頼の像(たけだかつよりのぞう)

住所:山梨県甲州市大和町初鹿野

アクセス:JR中央本線「甲斐大和駅」から徒歩すぐ


景徳院(けいとくいん)【武田勝頼の墓】

住所:山梨県甲州市大和町田野389

アクセス:甲斐大和駅からバス「景徳院入口」下車、徒歩約15分

 

本能寺の変(ほんのうじのへん)【最期の戦い】

1582(天正10)年、6月2日、京都で「本能寺の変(ほんのうじのへん)」が起こります。

甲州征伐により、武田勝頼を自害に追い込み、武田家を滅ぼした織田信長。

織田信長は、武田家を滅ぼしたことで、東国に大きく領地を拡大しました。

 

関東では、北条(ほうじょう)氏、佐竹(さたけ)氏が、織田信長の同盟国になっています。

しかし、織田信長に従属しない勢力は、まだまだ健在していました。

織田信長の重臣たちは、各地で、敵対勢力の攻略に奮闘していました。

 

関東地方 滝川一益(たきがわかずます)

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織田信長の重臣・滝川一益は、武田勝頼を自害に追い込む功績をあげました。

戦後、織田信長より、武田の遺領である上野(こうずけ)国【群馬県】を与えられます。

また、隣接する信濃の小県郡(ちいさがたぐん)と佐久郡(さくぐん)も、同時に与えられました。

 

滝川一益は、織田信長から関東の鎮圧や外交を任され、関東御取次役に任命されています。

関東地方では、長らく上杉氏と北条氏との間で領地争いが起きていました。

上杉謙信の死後、常陸(ひたち)の佐竹氏、安房(あわ)の里見氏、下野(しもつけ)の宇都宮氏などは、北条氏の侵攻に抵抗します。

 

しかし、関東の諸大名たちは、北条氏の勢力に押され、領土拡大を許していました。

このとき、北条氏と織田信長は同盟関係にありました。

北条氏政は甲州征伐の時、織田軍の動きに合わせ、武田領の駿河国に侵攻しています。

 

滝川一益は箕輪(みのわじょう)城を居城とし、その後、厩橋城(まやばしじょう)に移りました。

厩橋城に移った滝川一益は、関東の鎮圧にあたります。

常陸の佐竹義重(さたけよししげ)や安房の里見義頼(さとみよしより)などの関東の諸勢力は、滝川一益に使者を送り、貢物をしていました。

 

織田信長は、北条氏に対して、好意的な対応を見せず、刺激する姿勢を取っていたと言います。

滝川一益は関東の情勢を見つつ、越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)の牽制も行っていました。

厩橋城跡(まやばしじょうあと)【前橋城跡】

住所:群馬県前橋市大手町3丁目14−1

アクセス:JR両毛線「前橋駅」からバス「県庁前」下車、徒歩約5分

 

北陸地方 柴田勝家(しばたかついえ)

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北陸地方では、織田家の筆頭家老・柴田勝家により、加賀国は平定されました。

織田軍は、能登(のと)国、越中(えっちゅう)国に進出し、上杉領を圧迫します。

その後、越中国で起きた「荒川の戦い」において、佐々成政(ささなりまさ)が、上杉家臣の河田長親(かわたながちか)を敗っています。

 

武田氏を滅ぼしたタイミングで、織田軍は越中国の魚津(うおづ)城に進軍します。

しかし、富山城主・神保長住(じんぼうながずみ)の家臣・小島職鎮(こじまもとしげ)が謀反を起こしました。

 

小島職鎮は、当主の神保長住を幽閉し、富山城を乗っ取りました。

柴田勝家軍は、魚津城から戻り、富山城を奪還し、再び、魚津城へ進軍します。

富山城跡(とやまじょうあと)

住所:富山県富山市本丸1-62

アクセス:JR富山駅から徒歩約10分

 

魚津(うおづ)城の戦い

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1582(天正10)年、越中(えっちゅう)国で「魚津(うおづ)城の戦い」が起こります。

柴田勝家は4万の軍勢で、上杉方の城・魚津城を包囲しました。

織田軍に対して、上杉家臣・中条景泰(なかじょうかげやす)らは、3800の兵で籠城します。

 

織田軍に包囲された中条景泰は、すぐに越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に援軍を求めます。

信濃国と上野国が織田領地となったため、上杉景勝は、援軍をすぐには送れません。

さらに、越後国内では、新発田城主・新発田重家(しばたしげいえ)の反乱も起こっていました。

 

上杉景勝は、赤田(あかだ)城主・斎藤朝信(さいとうとものぶ)や、松倉(まつくら)城主・上条政繁(じょうじょうまさしげ)を派遣します。

その後、上杉景勝は春日山(かすがやま)を出陣し、天神山(てんじんざん)城に入城しました。

このとき、織田軍はすでに、魚津城の二の丸を占拠していました。

 

上杉景勝のもとに、信濃国と上野国の織田軍が、越後国に進軍を開始するとの報が届きます。

上杉景勝は、急遽、越後国に退陣を決断しました。

援軍を失った魚津城の上杉軍は、決死の覚悟で戦いますが、織田軍の猛攻により落城しました。

 

この落城により、上杉方の武将12人が自刃しました。

12人の武将は耳に穴をあけ、自分の名前を書いた木札を、全員で結んび自刃したと伝わります。

落城寸前に書いたとされる12将の書状「魚津在城衆十二名連署状」が残されています。

 

この魚津城が落城した日、本能寺の変が起き、織田信長は自害しています。

あと一日、魚津城を死守していれば、12人の命は助かったのかもしれません・・・。

魚津城跡(うおづじょうあと)

住所:富山県魚津市本町1丁目10−39

アクセス:富山地方鉄道本線「電鉄魚津駅」から徒歩約5分

 

中国地方 羽柴秀吉(はしばひでよし)

中国地方では、織田家の重臣・羽柴秀吉が中国征伐のため、毛利氏と戦っていました。

山陽地方では、織田方についた宇喜多直家(うきたなおいえ)が、毛利の前線を切り崩します。

羽柴秀吉は山陰地方に入り、因幡(いなば)国に進軍していました。

 

鳥取(とっとり)城の戦い

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1581(天正9)年、因幡(いなば)国【鳥取県】で「鳥取城の戦い」が起こります。

羽柴秀吉は、因幡国の久松山(きゅうしょうざん)に建っている鳥取城を包囲します。

前年にも鳥取城を攻めていた羽柴秀吉は、鳥取城の城主・山名豊国(やまなとよくに)に降伏を勧めていました。

 

山名豊国は、降伏をしようとしますが、家臣団に激しく反対されたため、単独で投降しました。

城主がいなくなった鳥取城の家臣団は、毛利氏に援軍を要請します。

毛利氏は、石見福光(いわみふくみつ)城の城主・吉川経家(きっかわつねいえ)を派遣しました。

 

吉川経家が守る鳥取城を包囲した羽柴秀吉は、兵糧攻めを開始します。

毛利軍は千代(せんだい)川から水軍を使い、鳥取城に兵糧を運搬しようと実行します。

しかし、織田軍に追撃され、兵糧補給は失敗に終わりました。

 

鳥取城の食糧は限界に近づき、2か月目には城内の家畜や植物を食べ尽くしました。

そして、3か月目には、城兵の餓死者が続出します。

この羽柴秀吉による、鳥取城の兵糧攻めは「鳥取城渇殺(かつえごろ)し」と呼ばれています。

 

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「信長公記」では、その悲惨な情景が、細かく記述しています。

吉川経家は、自らの命と引き換えに、城兵の助命を条件とし、羽柴秀吉に降伏を申し出ました。

羽柴秀吉は吉川経家の奮闘を讃え、吉川経家の帰還を命じます。

 

森下道誉(もりしたどうよ)と中村春続(なかむらはるつぐ)に責任があるとし、二人の自害を条件とします。

しかし、吉川経家は、頑なに意志を変更しませんでした。

 

困惑した羽柴秀吉は、織田信長に連絡をとり、吉川経家の自害を許可しました。

羽柴秀吉は、吉川経家の首が届けられると、涙を流したと伝わります。

鳥取城跡(とっとりじょうあと)

住所:鳥取県鳥取市円護寺

アクセス:JR鳥取駅からバス「仁風閣・県立博物館」下車すぐ

 

備中高松(びっちゅうたかまつ)城の戦い

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鳥取城を落とした羽柴秀吉は、毛利氏の前線基地である淡路(あわじ)国を平定します。

その後、備前(びぜん)・備中(びちゅう)に入り、毛利氏の支城を次々と陥落させました。

1582(天正10)年、備中国【岡山県】において、「備中高松(びっちゅうたかまつ)城の戦い」が起こります。

 

羽柴秀吉は、毛利氏配下の豪族・清水宗治(しみずむねはる)が守る備中高松城に攻撃を仕掛けます。

備中高松城は湿地を利用した平城であったため、鉄砲や騎馬にも強い構造でした。

羽柴秀吉は3万の大軍で包囲し、攻撃を仕掛けますが、毛利軍の反撃に合い、攻めあぐねていました。

 

そこで、羽柴秀吉は堤防工事に着手し、備中高松城を水攻めにしようと考えます。

 

高松城周辺に足守(あしもり)川の水を流し込み、高松城を孤立させることに成功しました。

毛利の首脳軍は、この報告を聞き、高松城の救援に向かいます。

毛利輝元(てるもと)、吉川春元(きっかわはるもと)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)は、総勢5万の軍勢を率いて進軍します。

 

羽柴秀吉は、毛利輝元との直接対決が起こることを想定し、織田信長に援軍を求めます。

織田信長は羽柴秀吉の援軍に、明智光秀の軍勢を送ることにします。

さらに、自らも軍勢を率いて、備中に進軍することを決めたのでした。

備中高松城跡(びっちゅうたかまつじょうあと)

住所:岡山県岡山市北区高松558−2

アクセス:JR吉備線「備中高松駅」から徒歩約10分

 

四国地方 明智光秀(あけちみつひで)

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四国地方では、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)が、土佐(とさ)国を統一していました。

長曾我部元親は、土佐統一後、さらなる領土を求め、四国制覇を目指します。

伊予(いよ)国、阿波(あわ)国、讃岐(さぬき)国に進軍を決めます。

 

阿波国では、十河存保(そごうまさやす)と三好康俊(みよしやすとし)が、長曾我部氏に反抗します。

長曾我部元親の攻撃により、二人は敗れ、長曾我部元親は阿波国・讃岐国をほぼ制圧しました。

伊予国では、守護・河野(こうの)氏が毛利氏の援助を得て、長曾我部元親に抵抗しています。

 

このとき、長曾我部元親と織田信長は、友好関係にありました。

しかし、織田信長は、三好氏を援助することを決めます。

織田信長は、長曾我部元親に「阿波国の占領地の半分を返還せよ」と要求を突きつけました。

 

長曾我部元親はこの条件を不服とし、織田信長に従うことを拒否します。

織田信長の援助を受けた三好康長(やすなが)は、息子の三好康俊を長曾我部から寝返らせました。

さらに、十河存保は羽柴秀吉を通じて、長曾我部元親に圧迫を加えます。

 

織田信長は、ついに長曾我部元親と断交し、四国征伐を決定しました。

三男・織田信孝(のぶたか)を総大将とし、四国討伐の準備に取りかかります。

 

以前から長曾我部元親の取次役は、明智光秀が担当をしていました。

織田信長が四国政策の友好から断交へ変更したため、明智光秀の面目は潰されることになります。

 

このとき、明智光秀・長曾我部元親と羽柴秀吉・三好康長の二組の対立構造が生まれました。

織田信長は明智光秀の政策を捨て、羽柴秀吉の政策を採用したことになります。

長宗我部元親の像(ちょうそかべもとちかのぞう)

住所:高知県高知市長浜

アクセス:南はりまや橋駅からバス「南海中学校通」で下車、徒歩約5分

 

東北地方と九州地方

東北地方では、伊達(だて)氏、最上(もがみ)氏、蘆名(あしな)氏といった大きな勢力を持った大名たちがいました。

伊達氏や最上氏は早い時期から織田信長と接触し、東北地方での争いを有利に展開しようとしました。

東北の諸大名たちは、織田信長に使者を送り、貢物を献上するなど、従属な姿勢を見せています。

 

九州地方では、大友(おおとも)氏、島津(しまづ)氏、龍造寺(りゅうぞうじ)氏による、三つ巴の抗争が展開されていました。

織田信長は、大友氏と島津氏との和睦を斡旋をしたり、九州地方の外交もしていました。

 

「本能寺の変」前の直近の行動

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1582(天正10)年5月、徳川家康が安土城を訪れます。

織田信長は、長年の盟友・徳川家康をもてなすため、安土城に招待をしました。

徳川家康の饗応(きょうおう)役に、明智光秀が任命されました。

 

そんな中、織田信長のもとに、毛利氏と交戦中の羽柴秀吉から、援軍の要請が届きます。

織田信長は、明智光秀の饗応役を解き、羽柴秀吉の援軍に向かわせることにしました。

援軍に任命された明智光秀は坂本城に戻り、出陣の準備を始めます。

 

織田信長は、摠見寺(そうけんじ)にて、舞や能を楽しみ、徳川家康に堺の見物を勧めています。

織田信長の嫡男・織田信忠も京都に上洛し、妙覚(みょうかく)寺に入りました。

織田信忠の上洛理由は、徳川家康に同行するためや、四国征伐の陣中見舞いと言われています。

 

織田信長は安土城から小姓衆のみを連れて、上洛して、本能寺に入りました。

織田信長の京都の宿所は、いつも妙覚寺でした。

織田信長が妙覚寺に泊まった回数は、記録によると18回とあります。

 

義理の弟(斎藤道三の子)である日饒(にちじょう)上人の縁で、妙覚寺に宿泊していました。

織田信長が本能寺を宿所に利用したのは、たったの4回だけでした。

なぜ、このとき、織田信長は京都に上洛したのでしょうか。

 

織田信長が上洛した理由は?

安土より茶器を京都に運ばせていたことから、茶会を開く予定だった。

三男・織田信孝がいる淡路国へ訪れる予定だった。

朝廷と暦問題や官位について交渉する予定だった。

 

6月1日、織田信長は公家や僧侶らを招き、本能寺で茶会を開きました。

茶会が終わると宴会になり、織田信長は、久しぶりに息子の織田信忠と酒を交わしたと言います。

本能寺(ほんのうじ)

住所: 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522

アクセス:京都市営地下鉄東西線「京都市役所前」から徒歩約2分

 

織田信長の最期・・・。

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その頃、明智光秀は、1万3000の軍勢を率いて、丹波亀山(たんばかめやま)城を出陣します。

愛宕山(あたごやま)の老ノ坂(おいのさか)峠を越え、京都の桂川に到着しました。

6月2日、明智光秀は、織田信長いる本能寺を包囲しました。

 

明智軍は声を上げ、御殿に向け鉄砲を射撃します。

織田信長と小姓衆は、外の様子が騒がしいことに気が付きます。

最初は、下々の者たちが、喧嘩をしていると思っていましたが、徐々に異変に気付きました。

 

織田信長は「さては謀反だな、誰のしわざか」と問いただします。

すると、側近の森蘭丸(もりらんまる)が「明智の軍勢と見受けします」と答えました。

織田信長は「是非に及ばず(やむをえぬ)」と一言、呟きました。

 

この言葉の意味は、「相手が明智光秀なら、脱出は不可能と悟った一言」と解釈されています。

「三河物語」では、織田信長は最初に、息子の織田信忠の謀反を疑ったとあります。

 

明智軍が一斉に四方より攻め込んでくると、織田信長の御番衆や小姓衆はそれに応戦します。

織田信長は自ら弓を取り替えながら、防戦してました。

やがて、弓の弦(つる)が切れると、槍で戦いますが、ひじに槍傷を受けて、退きました。

 

付き添っていた女房衆に「女たちはもうよい、急いで脱出せよ」と言い、女房衆を退却させました。

御殿にはすでに火がつけられ、火の勢いは、織田信長の近くまで迫っていました。

「敵に最後の姿は見せてはならない」と思った織田信長は、御殿の奥深くへ入ります。

 

織田信長は、内側から納戸の戸を閉め、燃え盛る炎の中、切腹を果たしました・・・。

 

明智光秀は部下に、織田信長の遺体を探索させます。

しかし、激しい炎によって、多くの者が焼け焦げており、遺体は発見できませんでした。

 

明智光秀目線での本能寺の変はこちら

明智光秀ゆかりの地【本能寺の変】

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本能寺跡(ほんのうじあと)

住所:京都府京都市中京区山田町油小路通

アクセス:京都市営地下鉄烏丸線「四条駅」から徒歩約10分

 

明智光秀、織田信忠を襲撃

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明智光秀は織田信長を討つと、急ぎ、妙覚寺(みょうかくじ)にいる織田信忠の襲撃を決行します。

織田信忠は明智光秀の謀反を聞くと、急ぎ、本能寺の救援に向かおうとします。

しかし、、家臣の村井貞勝(むかいさだかつ)らが危険を察し、織田信忠を制止しました。

 

村井貞勝は、織田信忠に言います。

「本能寺はもはや敗れ、御殿も焼け落ちました」

「敵は必ず、こちらへも攻めてくるでしょう」

 

さらに、堅固な二条新御所【二条殿】へ移ることを進言します。

織田信忠は、誠仁親王の御所である二条新御所へ移動しました。

 

信忠は誠仁親王(さねひとしんのう)と、和仁王(かずひとおう)を内裏(だいり)へ脱出させます。

織田信忠の側近には、京都から退去して、安土に逃げ落ることを進言する者もいました。

 

しかし、織田信忠は、家臣たちに言います。

「これほどの謀反だから、敵は万一にも我々を逃がしはしまい・・・。」

「雑兵の手にかかって死ぬのは、後々までの不名誉、無念である・・・」

「ここで・・・、腹を切ろう・・・。」

 

明智軍は二条新御所を攻め囲み、織田信忠の手勢は、決死の奮闘を見せます。

昨日まで仲間だった顔見知りの者たちは、殺し合い、次々と死者が続出します。

明智軍は、近衛前久(このえさきひさ)邸の屋根から、弓や鉄砲で攻め立て、猛攻撃を仕掛けます。

 

そのため、織田信忠の手勢は、負傷者や死傷者が多くなり、やがて戦える者がいなくなりました。

明智軍はついに御所に突入し、建物に火を放ちます。

 

織田信忠は、家臣の鎌田新介(かまたしんすけ)に命じます。

「切腹したら、縁の板を外し、遺体を床下に隠せ」

 

ついに織田信忠はその場で切腹し、介錯を任された鎌田新介は、織田信忠の首を打ち落としました。

激しい炎により、二条新御所は焼け落ち、織田信忠の遺体も灰となりました。

 

本能寺と二条城では、織田信長と織田信忠や、多くの家臣たちが討ち死にをしました。

天下統一を目前とし、織田信長は生涯に幕を閉じました・・・。

 

本能寺の変から4か月後、羽柴秀吉により、大徳(だいとく)寺において、織田信長親子の葬儀が行われました。

織田信長のお墓は、京都市内の阿弥陀寺(あみだじ)、大徳寺の総見院(そうけんいん)、本能寺などに複数あります。

 

明智光秀が、なぜ本能寺の変を起こしたのでしょうか・・・。

その理由はいまだ、はっきりとは解明されていません。

本能寺の変は、戦国最大のミステリーとして、現在も研究されています。

 

明智光秀が本能寺の変を起こした理由はこちら

明智光秀は本能寺の変を、なぜ起こしたのか?【理由】

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二条殿跡(にじょうでんあと)

住所:京都府京都市中京区二条殿町

アクセス:京都市営地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」から徒歩約2分

 

おわりに・・・。

第8回に渡り、織田信長の戦いを紹介してきました。

織田信長の戦いは、尾張統一を目指した、国内戦から始まりました。

駿河の今川義元の脅威を払い除け、父親の念願だった美濃国を手に入れました。

 

その後、将軍・足利義昭を伴い、京都に上洛。

近隣の戦国大名たちや、寺社勢力との戦い・・・。

 

金ヶ崎の戦いでは、命を落とす可能性もありました。

さらに、戦国最強と言われた武田氏を滅亡させました。

 

織田信長が目指したもの・・・。

それは、足利尊氏以来の全国統一でした。

 

織田信長は旧来の政権とは違う、新しい国家を築き上げようとしていたのです。

しかし、一瞬の隙を見せたがために、その命を落とすことになりました。

織田信長の理想の政権は、家臣である豊臣秀吉により引き継がれます。

 

もし、織田信長がいなかったら、豊臣政権も、徳川幕府もなかったでしょう。

戦国時代での織田信長の功績は、計り知れないものだったのです・・・。

 

-戦国時代

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