史跡巡り

【槇島城跡・神明神社】滋賀県の史跡巡り⑥【足利義昭・明智光秀ゆかりの地】

どうも、うめたろうです。

今回は、滋賀県史跡巡りの3日目後半です。

 

前回に続き、大津市内を巡ります。

最初の目的地は、大津市歴史博物館です。

 

大津市歴史博物館(おおつしれきしはくぶつかん) 明智光秀ゆかりの品 滋賀県大津市

 

大津歴史博物館では、現在、「明智光秀と坂本城」というミニ企画展を開催中です。

大河ドラマ期間中の常設展示では、「明智光秀と戦国時代の大津」の展示をしています。

 

うめたろうのお目当ては、明智光秀の書状や明智光秀の陣太鼓でした。

現在、盛安寺(せいあんじ)が所持する明智光秀の陣太鼓が、展示されています。

 

 

エントランスは撮影OKでした。

明智光秀と煕子のパネルがありました。

 

 

ミニ企画展の「明智光秀と坂本城」です。

こちらは撮影OKでした。

 

 

こちらは、明治時代の坂本城周辺の地図です。

坂本城があったとされる東南寺の場所が、白色で塗られています。

 

 

こちらは、坂本城跡から出土した瓦や陶器です。

坂本城に使われていた瓦だと思うと、ワクワクします。

 

 

こちらは、竜の頭をかたどった瓦です。

坂本城の井戸内から出土しました。

ユニークな顔をしています。

 

 

記念にパンフレットを買いました。

充実した展示で、十分に楽しむことができました。

 

瀬田城跡(せたじょうあと) 山岡景隆(やまおかかげたか)居城 滋賀県大津市

 

こちらは、瀬田城跡(せたじょうあと)です。

瀬田城は、山岡氏の居城でした。

山岡氏は六角氏に仕え、その後、織田信長に仕えました。

 

織田信長は上洛の行き帰りに、瀬田に宿泊しています。

瀬田城主の山岡景隆(やまおかかげたか)は、織田信長に信頼されていたことがわかります。

 

 

明智光秀により、本能の変が起こります。

山岡景隆は明智光秀から、味方になるように勧誘を受けました。

しかし、明智光秀の誘いを拒否した山岡景隆は、瀬田橋を落とし、明智軍の進軍を妨害しました。

 

 

現在は、瀬田城の遺構はなく、石碑だけがあります。

城跡には、マンションが建っていました。

 

瀬田の唐橋(せたのからはし) 歴史の重要地 滋賀県大津市

 

瀬田の唐橋は、東海道、東山道(中山道)方面から京都に入るための、交通の要衝でした。

壬申の乱・源平合戦・承久の乱・建武の乱など、歴史的有名な合戦の舞台となります。

 

古来、「唐橋を制する者は天下を制す」と、言われるほどでした。

江戸時代には、「近江八景」のひとつとして、絵師や俳人が作品として扱ってきました。

 

 

明智光秀は安土を攻めるため、瀬田橋を渡ろうとします。

しかし、瀬田城主の山岡景隆が瀬田橋を落とし、進軍を妨害しました。

明智光秀は、仮橋を架けるのに三日かかり、手痛い被害を受けました。

 

 

瀬田橋を本格的に着工したのは、織田信長でした。

このとき、はじめて欄干の柱に擬宝珠(ぎぼし)をつけたと言われています。

 

 

現在の唐橋は、昭和54年につくられました。

しかし、ここは交通量がめちゃくちゃ多いですね・・・。

現在は、重要な生活道路となっています。

 

槇島公園(まきしまこうえん) 足利義昭ゆかりの地 京都府宇治市

 

瀬田の唐橋を出たうめたろうは、大津市のお隣である京都の宇治市に入ります。

次の目的地である、槇島(まきしま)公園に着きました。

槇島公園には、槇島城の記念碑があります。

 

 

槇島城は、足利将軍家の家臣・真木島氏が本拠としていました。

戦国時代、槇島の地は川で囲まれた天然の要塞でした。

城跡は、槇島公園から徒歩5分の場所にあります。

 

槇島城跡(まきしまじょうあと) 室町幕府終焉の地 京都府宇治市

 

槇島公園から少し歩くと、槇島城跡があります。

城の遺構はなく、小さな公園に石碑があるぐらいです。

 

 

室町幕府、第15代将軍・足利義昭は、織田信長と対立します。

足利義昭は、真木島昭光(まきしまあきみつ)がいる槇島城に立て籠りました。

1573(元亀4)年、槇島城の戦いが起こります。

 

織田信長は軍勢を率いて、足利義昭が立て籠る槇島城に攻撃を開始します。

槇島城は織田軍により開城し、足利義昭は河内国にある若江城に追放されます。

足利義昭が去ったことにより、室町幕府はこの地で滅びました。

 

 

200年以上続いた室町幕府・・・。

その終焉の地は、意外と閑静な住宅街の中にありました。

今は、ひっそりと石碑があるだけです。

 

槇島城の戦いはこちら

【天下布武の道】織田信長ゆかりの地【戦い④】

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専修院(せんしゅういん) 明智光秀生存伝説 京都府宇治市

 

明智光秀は山崎の戦いに敗れ、京都の小栗栖(おぐりす)で土民に襲われます。

定説では、明智光秀はそこで命を落としたと言われています。

 

しかし、明智光秀は落ち延びて生きた、という伝承が各地に存在します。

ここ、専修院(せんしゅういん)もそのひとつです。

 

 

伝承によると、明智光秀は、山崎から専修院にたどり着きました。

専修院の境内にある竹藪の中に身を潜めていたと言います。

 

専修院の住職は、明智光秀を匿い、手助けをします。

明智光秀は、お礼に「歯痛や発熱の際には治療をする」と言い残し、去って行ったと伝わります

 

 

専修院は残念ながら、非公開で境内に入ることはできません。

目の前の道路は交通量が多く、写真を撮るのも大変でした。

 

神明神社(しんめいじんじゃ) 明智光秀隠れ井戸 京都府宇治市

 

京都の宇治には、専修院以外にも、明智光秀が落ち延びた場所があります。

専修院から徒歩で15分ほどの場所に、神明神社(しんめいじんじゃ)があります。

 

 

神明皇大神宮(しんめいこうたいじんぐう)とも言います。

神明神社は、平安時代から続く神社であり、1099年に神明山に移されました。

 

 

神明神社には、明智光秀が隠れたと伝わる古井戸があります。

その井戸は、藻隠井戸跡(もがくれいどあと)と呼ばれています。

 

 

説明版によると、山崎の戦いに敗れた明智光秀。

明智光秀は、近江へ逃れる途中に神明神社に寄り、身を隠したと書いてあります。

 

 

この池の井戸に、明智光秀がいた・・・。

あくまで伝承ですが、歴史ファンにとっては、ワクワクが止まりません。

 

 

このあと、明智光秀は、滋賀県の比叡山の長寿院に行ったのか・・・。

それとも、大阪府の本徳寺で仏門に入ったのか・・・。

はたまた、岐阜県の山県に落ち延びたのか・・・。

 

そして、のちに徳川家康のブレーンとなったのか・・・。

歴史ファンにとっては、想像が膨らみます。

 

明智光秀の天海説はこちら

明智光秀は天海だったのか?

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おわりに・・・

全6回に渡りお送りしてきた、滋賀県史跡巡りの旅もこれで終わりです。

今回は、数多くの明智光秀のゆかりの地を訪れました。

 

明智光秀によって人生が激変してしまった武田元明、津田信澄。

明智光秀が仕えた室町幕府の将軍・足利義昭。

明智光秀が指揮をとった比叡山焼き討ち。

 

明智光秀の菩提寺、居城である西教寺、坂本城。

明智光秀の生存伝説の地である長寿院、専修院、神明神社。

 

明智光秀とつながりが深い滋賀県・・・。

明智光秀にとって、滋賀県は特別な土地であったことがわかりました。

また、滋賀県は明智光秀だけではなく、戦国時代の史跡の宝庫でもあります。

 

まだまだ巡りたい史跡が、滋賀県にはたくさんあります。

今回の旅でただひとつ言えること・・・。

それは・・・、「信長の隠れ岩」には、二度と行きたくない(笑)。

 

明智光秀の足跡を追う旅は、まだまだ続きます。

明智光秀と言えば・・・、そう、丹波攻略です。

丹波の地で戦いに明け暮れた明智光秀。

 

次の史跡巡りは、兵庫県の丹波と京都の福知山に訪れる予定です。

それでは、次の史跡巡りをお楽しみに・・・。

 

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